【生きたい】日常的に「死にたい」を抱く自分から自分が逃げられないことについて
鬼束ちひろさんの音楽をiPodから耳に流し、
高校の最寄駅に着くまでの電車の中で、
その音楽の美しさに涙を流していた、過去の自分。
やはり、自分は自分を何処までも追って来るので、
その時の自分と今の自分は地続きになっていて、
あいもかわらず、心病んでいるのです。
この頃から感じてきた「死にたい」気持ちは、
長年連れ添った感情で、とても日常的な感情のひとつです。
今までもこれからも、
この気持ちをひっさげて、抱えて、続けて、
明日がやってきて、明後日もやってきて、
そういう日々が未来に続いていくんだろうなぁ。
その気持ちを抱え続ける未来…。
障害者手帳を取得したことで、
「いつか病気が治って元気になりたい」から、
「この病気(持病)と仲良く付き合って行こう」という心持ちの変化がありました。
(それ自体はすごく良い変化だと思う。)
でもそれって「日常的に「死にたい」と感じる病気」を認め、受け入れ、共に生きていこうと、決めたってことでもあるのかも…。
こわいな…。
「死にたい」という気持ちが日常的に湧き起こることは病気の症状や状態のひとつとは認めていながらも、
その「死にたい」感情が不快であることに変わりなはいし、
「死にたい、生まれてこなければよかった」と思ってしまうことは、何度経験しても、
やっぱり悲しいです。
なんだか、「死にたい」と思う気持ちは何度思っても本当に悲しくて、慣れることはないです。
できれば、うつ的症状は完全になくすのは難しいとしても、
「死にたい」という希死念慮の症状は、なるべくなくなるといいな、と思っています。
生き物だから、人間だから、
自分の命を放り投げてしまいたくなる気持ち、
命を危機にさらすような感情には、
慣れることはなく、毎度心から悲しくなります…。
でも、私の場合、
「死にたい≒生きたい」という公式が当てはまるんですよね。
「生きたい」というよりもっと「より良く生きたい」という意味も含まれているかも…。
だから、この部分には、生きることに対しての欲望や貪欲さ、生存したい気持ちの強さが隠されているような気がします。
その「死にたい≒生きたい」の公式に気付き、
それを解こうと、心をほぐしてあげることが、
自分がいつか「死にたい」と思わなくなるヒントがあるかも…。
人はいつか死ぬ。
だから今日は、死なない。
その現実と志をもって、今日をとりあえず生きてみよう。