「人が好き」でも「こわい」
昨日のnoteにハートマークを押してくださった方、ありがとうございました。
とても嬉しかったです。
飾らず、自分がいつも使う言葉のように、
綴ってゆきます。
昨日のnoteで書いたように、
私は、人がこわいと思う気持ちがあります。
「相手にどう思われているんだろうか」
「嫌われたくない」
という気持ちも人一倍強い方だと思います。
最近、色々な本を読み、
本を通じて、
たくさんの人の語りに耳を傾けます。
そうして、ひとつ疑問に思います、
「私は人がこわい理由は、人間が嫌いだからかな?」
私の場合、その答えは断然「ノー」です。
私は、「人がこわい」悩みがありながら、
「人、人間が好き」という気持ちも強くあるのです。
まず、色々な本を読んでたくさんの人の話を聴いていたい、という好奇心があるので、
自分以外の人の頭の中や感じていることに興味があるのは間違いないと思います。
対面で、色々な人と出会い交流する時もそうです。
「この人素敵だな」
「こんな大人になりたい」
「なんて面白くて豊かな人なんだろう」
と思えるような人が、何人かいます。
旅先で出会った人でも、職場で一緒に仕事をする人でも、
「この人のこんなところが好きだ」
「素敵な笑顔で迎えてくれる人だなぁ」
「こんな才能もあるんだ素晴らしいなぁ」
と、人に対して労りや感謝、見習いたい、と思う敬う気持ちが芽生えることが多いです。
今、思い浮かんだ何人かの人々も、
実際は、たくさん言葉を交わしたり、
たくさんの時間を一緒に過ごした、
というわけではないです。
それはひとえに、「人がこわい」という気持ちがあるから、なかなか踏み込んだ仲になれない、というのもあるのですが…。
ただ、少し静かに、
周りの人と接するその人を見つめていたりすると、
「素敵な人だな」と、あたたかい気持ちが芽生え、「この人が好きだな」という気持ちになります。
そして、そういう人と出会った日、
ひとりで過ごす帰り道には、
「私は人が好きだ。」というあたたかい感想に心が包まれます。
でもきっと、その帰り道、
独りの時間、
どこかで「さみしい」のも事実です。
「この人ともっと話したい」という純粋な欲望より、
「人がこわい」という恐怖が、
前に、前にせり出てきて、
なかなか勇気を持つことができません。
「でもしょうがない、自分にとっては、遠くからその人の素敵な場面を感じられただけで十分」と、自分を慰めるように総括し、どこか最大限にその人と生きられなかったさみしさが残ります。
読書を通じて人の語りを聴いたり、
なにかその人の活動や創作を鑑賞して、
その人の心うちに触れる。
間接的ですが、
「人がこわい」「人と接するのがこわい」
今の私にとって、
それが人と関わりを持つ手段になっているかもしれません。
対面で話すこと、
お茶や一緒に呑みながら語り合うこと、
その方法で人ともっと関わりたい欲望がありつつも、
今、「人がこわい でも人が好き」な私に出来る手段で、
静かに、人と人と、関わりを持ち、
色々な人の様々な素敵な部分を感じてゆきたいと思います。