昭和の山田公園
下町に住んでいた私の遊び場は山田公園だった。
昭和真っ盛り、山田公園は子供の楽園だった。平成令和と、もうふた昔の昭和の公園では、今の子供達が体験できない、沢山のイベントで溢れていた。
今では伝統芸能になってしまった飴細工は、おじさんが自転車に飴細工の材料を乗せて、公園で実演販売していた。
当時、駄菓子屋に20円も持っていけは、10円でライスチョコを買って、5円で紐飴のクジがひけ、さらに5円で何が当たるかわからない、ハズレは一口ガムのワクワクするようなクジがひけた。
飴細工は20円で、ストローについた水飴を買って、破裂させないで、膨らませることができたら飴細工が貰える仕組みだ。
しかし、たいていの子供は破裂させて、穴のあいた水飴を食べる羽目になる。私はどうしても、飴細工が欲しくて、お小遣いをためて、成功させる日を夢見ていた。
一度目は失敗した。二度目は慎重に丁寧に、破裂するギリギリのところまで膨らませ、おじさんに渡した。
私が欲しかったのは猫だったのだが、大きさが足らなくて、フラミンゴになってしまった。鶴かオウムか、鳥しかダメらしい。それでも、私は嬉しくて、家まで大切に持ち帰って、ゆっくり食べようとしたのが、今思い返すと間違いだった。
母から、その飴細工を買うためにいくらお金を使ったのか責めたてられた挙句、飴細工を作る時に、おじさんの汚い唾や手垢がついていて、きっとおまえはお腹を壊すに違いない、食べるのはやめて、飾っておくだけにしなさい、と言われてしまった。
ピンクの綺麗なフラミンゴの飴は、いつのまにか母に捨てられていて、大人になってからも、飴細工は汚いから食べられないというトラウマになってしまった。
あと山田公園では、カタヤ、と子供達から呼ばれる不思議なおじさんもいた。
レンガ色の型は、怪獣、五重の塔、動物など、いろいろな型があって、おじさんから、好きな型を借りる。
そして、次にその型に入れる粘土を買う。型に入れた粘土、これが泥粘土みたいなんだけど、その型抜きした怪獣とかに、おじさんから着色料を買って、綺麗に仕上げるという、なにやら芸術的な遊びだった。
キラキラする着色料を沢山使って、豪華に仕上げると、さらに立派な型が貸し出されたりする。あと着色料が包んである紙に、点数が書いてあって、集めると点数に応じた型を貸してくれるわけだ。
作品が大きくて、さらにカラフルに仕上げることができる子供は、公園で遊ぶ子供達にとって、憧れの的だったのは間違いない。
定期的におじさんは子供達の作品の品評会を行い、作品の優劣を決めたりしていた。今思い返すと、あのおじさんは子供の小遣いで、よく商売ができていたものだと感心してしまう。
他にも、ソース煎餅10円、オプションで杏ジャム10円とかで、紙芝居をするおじさんもいたな…
けれど、おじさんも商売だから、絶対にソース煎餅を買わないで見ようとする子供は、激しく追い払っていたから、昭和の子供達はこんな事からも世の中の仕組みを学んでいたのかもしれない。
鉄棒にぶら下がって、写真を撮らせてくれたら50円くれるカメラおじさんもいた。
妹と一緒に鉄棒にぶら下がって、仲良くパンツを出してる写真がある。まだロリコンという言葉を知らなかった、可愛い子供時代の話だ。