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「こだわりを捨てる」こと

しばらく文章を書く気が起きなかったので、noteにも投稿をしていなかった。

「どうしてだろう?」と考えてみると、理由はいろいろ思い浮かぶ。真っ先に頭に浮かんだのは、頭の中で鳴り響いている「書くことなんてない」という声だ。

地方のUber配達員にお金の余裕なんてものはないし、調べてみると売り上げも去年に比べて減っている。そもそも、依頼がこない。でも、通院のためにお金が必要になった。そういう文脈で文章が書けなくなった原因は、精神的な余裕のなさだと思っていた。


そんな矢先、普段とは違う経験をした。

いつも通り22時に配送業務を終えて帰り道。自転車を押しながら川沿いの暗い夜道を歩いているとき、思いついた。いつもは家の中でやっている閉めの作業を、外でやってみることにした。

配達員アプリの売り上げ履歴を見ながら、Googleカレンダーに売り上げ分布と売上金を入力する。単純な作業だけれど、外で行えばなんだか充実感を感じる。

それだけじゃない。
普段ならやらないようなこと、正確にはやりたいけどできなかったこと「今日はどんな1日だったか?」を振り返ってみる気分になれた。

同じくGoogleカレンダーに書いてみると、「今の悩み」と「今日の気づき」が面白いほど出てくる。家の書斎では眠気を我慢することで精いっぱいだった、あんなに上手くいかなかったことが、場所を変えるだけでこんなにスラスラ苦も無くこなせるなんて。

「気づき」というコンテンツがあれば、文章は書くことが出来る。散漫な気づきを書き起こして、肉付けして、編集すればいい。問題は精神的な余裕が無いことではなく、それを行う場所を間違えていたこと、だったらしい。


よくよく考えてみれば、自宅で閉めの作業をするということは、自宅をオフィスにしてしまうということだ。体は「ようやく寝床に着いた」と思っているのに、頭が「まだ仕事が残っている」と言うちぐはぐな状況を作っている。そのことに気づいていなかった。

仕事は仕事。
自宅に持ち帰らず、外で終わらせたほうが良い。


こだわりを捨てること

こだわりを捨てるというと、なんだか嫌な響きがある。自分を曲げて負けたような気がするし、「こだわり」という言葉は「自分らしさ」と同じくらい心地が良い。そんなものを捨てるのは忍びないし、他人に説得されるなんてもってのほかだ。

思うに、こだわりというのは再現性への執着だ。
似た状況で同じやり方をすれば、たいてい同じ結果が得られる。藪をつつかなければ、蛇が出てくることもない。

臆病な僕は、平穏を求めている。だから、よっぽどのことが無ければ藪をつつくことはしない。そう思っていた。

良い予想外を探す

平穏を求めるのは、別に悪いことじゃない。何より大事なのは自分の身を守ることだ。

ただ、何だって量を誤ると毒になる。平穏は無為の温床でもある。やるべきことのない、使命のない、やりがいのない人生を、死んだ魚のような眼をして日々を過ごすことになってしまう。せっかく魚じゃなく人として生んでもらえたのだから、それはできるだけ避けたい。

片足は平穏に突っ込んだままでもいいから、状況を変えて、いい意味での予想外を探すこと。能動的に平穏を守りながら、自分の意思で「知らない経験を探す」ことの意義を知った。


「こだわりを捨てること」と「良い予想外を探すこと」は違う。でも、そこまで明確に区別する理由は無いのかもしれない。


自分が知ってることは、誰だって知ってる

いわゆる知識の呪いと呼ばれるやつだ。

誰にだって起きる現象だけれど、これがあると、自分の考えを更新することが難しくなる。自分が知ってることは誰だって知ってる。そして、誰だって知ってる常識は何よりも正し見えてしまう。

要するに、こだわり、執着している自覚が無くなってしまう。執着しないため、停滞を避けるためには、積極的に「知識の呪い」を対策をしたほうが良い。

対策といっても難しいことじゃない。「脳が働いてる限り、自分は知識の呪いに罹っている」と考慮しておけば、自分の考えを変えるとっかかりになる。こだわりを保ちながら、新しい可能性を探す選択もできるようになる。

そうすればちょっと器用になれるし、生きやすくもなるだろう。もし道を間違えても、間違いを「呪い」のせいにして正当化すれば引き返すことができる。

この考えは、新しい発見を増やすごとに大きく育っていく。僕は種を撒くことが出来た。あとは、地道に育てていきたい。

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