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山を放置するのはなぜいけないのか
いま、全国の山が荒れています。それは管理する人がいなくなり、放置されているからです。そんな状況を打開しようという人が話題提供者となるイベント(勉強会)が先日東京で開催されたので、オンラインで参加しました。
そこで、「山を放置するのはなぜいけないの?」「どうせ自然に戻るだけなんだから悪いことではないんじゃない?」という投げかけがありました。もちろん、この問いを発した人は心からそう思っているわけではなく、クリティカルシンキング、ラテラル思考を引き出すために、前提から問おうとする意図だったのだと思います。(オンラインだったからリアル参加の空気がよく分からなかった。)
私はそれらの議論を聞いて、(あぁ、東京の人って「山」に対する解像度が低いなぁ)とモヤモヤしました。
しかし、私も福島にUターンしてきて、ちゃんと山を管理している伯父から色々と聞いたから解像度が高くなったのです。 なので、“意地悪”な質問への回答を整理して言語化しておく必要があるなと思い、記事にします。
そもそも「山」ってなに?
そもそも、「山」ってなんでしょうか。おそらく東京の勉強会の人たちは身近な上高地や苗場等を連想していたのではないでしょうか。あるいは人気番組「ポツンと一軒家」に出てくるような限界集落をイメージしているのかもしれません。「管理できないなら自然に戻せばいいじゃん」という発想はそういう極端な環境を想定しているから出てくるんだと思います。
そうではなく、私がこれまで書いてきたnote記事で呼んでいる「山」は下の赤枠のような部分です。
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地理学でいうと、川が削ってできた「沖積平野」は田んぼとして使われ、ちょっと高いところは家や畑に使われていて、それよりも高い「洪積台地」が「山」と呼ばれます。
かつて山では、家の建築材や様々な用途のためにスギが育てられ、広葉樹が薪炭として使われ、落ち葉は肥やしにして畑に入れられ、きのこや山菜を採り、山は余すことなく利用されていました。里山はとてもサステナブルな生活をしていたのです。
なぜ放置されるようになったの?
戦後、住宅需要が増えたため、拡大造林政策で圧倒的にスギが植えられました。しかし、外国材の輸入解禁を皮切りに国産材が使われなくなり、材木価格が下落しました。ピーク時の4分の1ほどです。
また、1960年代の燃料革命により家庭にプロパンガスが普及し、薪炭が使われなくなりました。
これらにより、山を管理すると儲かるどころか赤字となってしまい、管理するインセンティブが無くなりました。その結果、山が放置されるのは至極当然のことなのです。
それでも、いまだに山を管理している私の伯父は稀有な存在です。伯父から聞いた話を記事にしています。
なぜ山を放置するのはいけないの?
前提を書いたところで、ようやく本論に入り、山を放置してはいけないかを書いていきます。
1.食べるものができなくなるよ
東京に住んでいる人はスーパーで食べ物を購入するので実感が湧きにくいですが、自分達が食べているものは田畑で作られています。そして、その田畑はだいたい↑の衛生写真のような里山で作られています。
山を放置すると土砂崩れや獣害につながり、農業生産に影響します。能登地震後に道路寸断が多発したことは記憶に新しいと思います。
さらに、NPO法人「森は海の恋人」の活動は有名ですが、山が荒れて痩せると、漁業にまで影響がでます。
つまり、山が荒れると食べ物が作れなくなります。
2.生活コストが上がるよ(下流地域も他人事じゃないよ)
大都市というのは基本的に海の近く、川の下流地域に形成されます。東京も荒川や多摩川の下流です。
山が荒れると土が痩せ、雨のたびに砂となって流出します。砂が流れ込むということは川の水量が増えるということです。ある研究では、管理されている山と管理されていない山で、雨の後の川の体積が数倍になっているという結果もあります。
そうすると、水害を防ぐためにより高い堤防を築く必要があり、莫大な公共工事が必要となります。
それらは税金となって自分達の生活コストに反映されてきます。
これらの理由から、「山が荒れようが、東京に住んでいる僕らには関係ないじゃん」という話ではないのです。
3.荒れた山は簡単に戻らないよ
ある日突然立ち入り禁止になってしまった地域が福島にはあります。それまで、先祖代々“までいに”(丁寧に)管理されてきた里山を放棄しなければならない事態となりました。その悔しさと辛さは想像を絶します。5年、10年が経ち人が住めるようになりましたが、元の美しい里山に戻すことはできません。自然の回復力はすさまじく、野生動物の楽園となっています。
私は(妻の故郷の)そういう事態を目の当たりにしているので、仮定の話としても、クリティカルシンキングのためだとしても、「放置すればいいじゃん」と軽々しく話さないでほしいと強く思います。
私がこの記事を書くきっかけとなった質問について、「社会を偏微分しているようだ」と書いた人がいました。経済学徒には通じる、言いえて妙な表現です。言い換えると、ルービックキューブのような社会現象に対して「この一面が揃ったとしたらどうか」と質問しているのと同じで、前提から問う良い質問に見えて、実は現実に起こり得ない仮定を置いているということです。
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うちのゲストハウスHPのトップ画像を見て「自然豊かなところですね」とよく言われますが、違います。里山は極めて「人工」的な風景なのです。田んぼも畑も山も人が丁寧に手入れをして管理をしているから、この風景が生み出されています。スーパーでたったの2,000円程度で売られているお米は、農家さんたちの不断の努力によって作られているということを理解してほしい。
私の散文的な文章になりましたが、少しでも都会の人たちの「山」への解像度が高まればと思います。