第一印象
海士町に来て半年経つ最近、よく言ってもらえること
「慧、最初に比べて落ち着いたね」
たしかに4月はなんともいえない高揚感のある中、ふわふわエンジン全開でだった。止め方わからないレベルで。
そこから半年、自分でもそう思うし、気づいてそう言ってくれる人が周りにいてくれる幸せ。
日々たくさん関わる慧の大好きな人たちと、喜怒哀楽の感情の動きや悩みをたくさん共有できたり、なんでも言い合える関係を築いてこれている実感があって嬉しい。嬉しいって言葉でしか表せない自分が悔しいほどに、ものすごく嬉しい。愛が溢れてくる。
でもその一方で、自分の中で処理しきれない悩みがふつふつと目をそむけられなくなってきた。
慧という自分・人について。そして慧の地元・東京について。
慧は変わっていると思う。
はたから見たらどうやらだいぶ変わっているみたい。
その変わっているを慧はずっとポジティブに捉えてきた。
自分はユニークで唯一無二で、でもそれは慧だけじゃなくて、人はみんなユニークで唯一無二。だから人と出会うのはおもしろい。
海士町に来て、慧のはじめましての好感度がよくないことが度々あることは感じていた。「何この子、すごく変わってる」っていうあまりよくない雰囲気。
自分の最初の印象がわるいって、海士町に来るまで感じたことがなかったから、なんでこう思われてたんだろうって思う。
もうすぐ四半世紀を生きるのに一人称が私ではなく「慧」だし、目上の人にも敬語は使わない。こういうところかな。
慧の中でそうする理由ははっきりある。
慧の名前を覚えてない忘れた人とお話しているときに、
一人称が私だと、頭の片隅で「この人、名前なんだっけ」と思いながらでは会話に没頭できないけれど、「慧ね〜」って話すだけで、会話を純粋に楽しめるまでのハードルがすぐに1つなくなる。しかも名前を覚えてもらえる可能性が高まる。一石二鳥。ラッキー:)
敬語も同じ。敬語を使うことによって、方言が出ないってよく聞くのとも似ていると思う。自分らしさを表現できる言葉の面白さが敬語を使うことによってなくなってしまうから。言葉を大事にしたいからこそ、敬語を使わず自分の言葉を使いたい。その結果、心の距離の縮まるスピードも敬語を使わない方が早いと思う。ただ、丁寧に心を込めて話したいときに丁寧語は使う!
こういうところかな。変わっているところ。もっと他にも心あたりもある。
東京に対しての印象もそう。
あまり行ったことがないのに東京=こわいって思う人が多い。
慧が東京で生まれ育ったからわからないというわけではない。慧だって満員電車は一生慣れないし慣れたくもない。渋谷や新宿行ったら人が多いなって感じる。でも毎日そんな大きな街に行くわけではない。
東京以外に暮らしてはじめて、満員電車や大きな街のイメージが先行しすぎて、東京にもあるいいところが見えづらくなっていることに気づいた。
「地域創生」ってイイと思ってた。みんながいろんな地域の魅力に気づく機会として。
でも、最近は地域創生は「アンチ都会」「アンチ東京」の上に成り立つのではないかと思うときがあって悲しくなることも。
海士町に来て、出身を聞かれることが増えた。東京出身っていうと、「そんな大きなところから!ここはぜんぜんちがうでしょ〜」という反応が多い。
もちろんちがう。人の多さも公共交通機関も建物も。でもそのちがいって東京出身じゃなくてもわかるちがい。海士町に来る前から、わかっているちがい。
慧は、そんな環境のちがいがある上で、東京にいる自分にも海士町にいる自分にも違和感がない。だから、そんなちがいは自分の中で大事ではない。
最近の想いの源には、おもしろがることが好きで、やってみたいの芽が出たらすぐにやってみようって風土がある一方で、ちがうものや新しいものに対して、第一印象がじゃまをして、受け入れるのに時間がかかる時と人がいるという海士町に対する気づき。
慧のこの想いを肯定して、海士町を否定したいわけではない。
東京や都会の否定の上でなくとも、地域の魅力はあるじゃん。
そしてみんなの地域創生の「地域」に東京も仲間入りしたいという想いが芽生えてきた。
慧にとっても、より生きやすいように、誤解を招かないように、身につけるべき良識や態度、姿勢があることも身に沁みて感じてます。
だけど、慧の変わっているところは慧の個性でもあるから、それをすべてなくしたら慧でなくなる。そのバランスをうまくとりながら、大好きな海士町での暮らしを思う存分たのしんでいく。
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