ショパン16歳 ひと夏の恋
ショパンの孫弟子のひとりに、ラウル・コチャルスキ(1885-1948、ポーランド)がいます。彼は、少年時代、ショパンの弟子で楽譜校訂者(ミクリ版)としても知られるカロル・ミクリ(1821-1897)のもとで、1892年から4年間教えを受けました。ミクリは7年間ショパンと密に交流し、直接のレッスンのみならず他の弟子へのレッスンも聴講を許されていた愛弟子。コチャルスキは、現在録音が残っているピアニストのなかで、ショパンの美学をもっとも濃厚に継承した、貴重な直系ピアニストと言えます。
そんなコチャルスキが、師ミクリから受けた教えを回想し、それに基づいてショパンの作品を解説した書物があります(『ショパン––研究、スケッチ、分析』未邦訳)。ここには、ミクリから聞いた話として、ショパンの名曲にまつわる未知のエピソードも登場してたいへん興味深く、今回はそのなかからひとつご紹介します。
ノクターン第5番 嬰ヘ長調 Op.15-2。出版は1834年ですが、着想のきっかけは1826年の夏にさかのぼります。
当時16歳のショパン少年は、結核を患った妹エミリアの湯治のため、家族で温泉町バート・ライネルツに滞在していました。
多感な年頃だったショパンは、温泉で温泉水を運ぶ係をしていたかわいい少女に心奪われます。2人の間には恋にも似た友情が芽生え、ショパンは彼女に会って言葉を交わすのを楽しみに温泉に通いました。そんな胸躍る日々も束の間、ある日を境に、少女は姿を見せなくなってしまいます。父親が亡くなり、その葬儀代も不足しているようだ、という話が聞こえてきました。そこで、ショパンはコンサートを開くと申し出て、その収益を全額、少女とその妹に寄付したのでした。
数週間の滞在後、ショパンがバート・ライネルツを発つ日が訪れます。
ノクターン第5番の終結部には、ホルンを思わせるモットーが現れます(58-59小節目の左手)。
ショパンの時代、主な移動手段は馬車であり、御者が出発の合図としてポストホルンを吹くという習慣がありました(動画は御者の吹くポストホルンの一例)。
ここでは、ポストホルンの合図とともに、ショパンを乗せた馬車が出発し、見送りに来てくれた温泉の少女の姿が遠ざかっていきます。少女は目に涙を浮かべています。
この少女とのひと夏の思い出と、名残惜しい別れが、ノクターン第5番として結実したのでした。
コチャルスキの演奏で、終結部の当該箇所は、淡々と、ペダルを抑え、いかにもポストホルンのシグナルを彷彿とさせるように弾かれます。ロマンティックな空気の中、ポストホルンの乾いた響きが、無情に別れを告げるのです。そして、流れるようなアルペジオとともに馬車が出発し、少女の姿が儚くsmorzando(消え入る)していく…。このひと夏の恋のエピソードと重ね合わせて味わってみると、なんとも甘酸っぱく切ない想いが去来し、お馴染みの名曲がまったく違って聴こえてきます。
初出
『音楽現代』2023年3月号 連載「名曲の向こう側」第67回(内藤 晃)
参考文献
Raoul Koczalski. Chopin-Betrachtungen, Skizzen, Analysen, Tisher & Jagenberg Ltd., Köln-Bayenthal, 1936