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ピアニスト解剖(1)アレクシス・ワイセンベルク

僕は、ワイセンベルクが好きという人に出会ったことがあまりないし、このピアニストについて、一般の音楽ファンの間では「カラヤンといつも共演していたやたら上手い人」という程度の認識にとどまっていることが多いように思う。そして、早くにパーキンソン病を患って演奏活動を退いたために、華やかな活躍に比して、その活動期間は短かった。実際、僕は必ずしも彼の音楽に思い入れのあるファンではないのだが、彼がその演奏を通じてやろうとしていたことの特異性に気づいてからは、かなりの録音を聴き、その都度、面白いインスピレーションを受け取ってきた。彼の音楽づくりを貫くポリシーは、あのグレン・グールドに比肩するほど尖ったものだと思うし、その部分がもっと注目されてもいい。

まず、ワイセンベルクと言えば、「カラヤン御用達技巧派ピアニスト」の印象が強いが、彼の本領は紛れもなく古典派音楽にある。古楽の草分けワンダ・ランドフスカにも師事していた。カラヤンとの共演は、レガートで重厚なカラヤン・サウンドが前面に出て、ピアニストの持ち味が十全に発揮されているとは言い難いだけに、ワイセンベルクの弾くバッハやハイドンを聴かれると、そのイメージの違いに驚かれると思う。ワイセンベルクは、ランドフスカについてこんな風に語っている。

私がたびたびランドフスカの前で演奏し、アドバイスを求めたことを話すと、「しかし、彼女はチェンバリストではないか」と考える人がいる。(…)当然のことながらピアノの演奏を勉強するために、ランドフスカの門を叩いたのではない。私は彼女が音楽について何を語ろうとしているかを知りたかったのだ。
『ワイセンベルクの世界』から)

このように、ワイセンベルクは、ランドフスカからオーセンティックな考え方を吸収し、モダンピアノ上で実践した。彼がきわめてスタイリッシュな様式感の持ち主だったことは、古典的なレパートリーの録音を聴けば明らかだ。趣味のよい装飾やアーティキュレーションで音楽を彩りつつ、推進力あるインテンポで小気味よくまとめられている。

問題は、ロマン派へのアプローチである。グレン・グールドの言葉を紹介したい。

7、8年前のある晩、ラジオをつけて、ダイヤルをあちこちまわしていると、午前3時頃、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調が聞こえてきました。(…)通常の私がショパンに割り当てる時間は、1年間に25分か30分です。なのに、そのとき私が聴いた演奏は、非常に厳密で細かく、それまでに接したどのショパン演奏とも根本的に違うので、その後、問題のレコードを、続く12ヶ月のあいだに、少なくともさらに3回か4回も聴くことになりました。
そのピアニストの名前とは、もちろん、アレクシス・ワイセンベルクです。(…)彼はまずどんな曲でも私に聴く気にさせる。(…)ワイセンベルクの弾くロマン派がこれほどまでに卓越している理由のひとつには、このレパートリーを手掛けるほとんどのピアニストとは違って、本質的に古典派的な技巧を念頭に取り組んでいる点があると思います
『グレン・グールド発言集』から)

グレン・グールドは、点描的で無機的な音づかいをも駆使して、ポリフォニーや楽曲の構造美を抉り出そうとした人だが、ワイセンベルクも、グールドとは手法は異なるが、どんな曲でも刹那的なセンチメンタリズムから目を背け、その構築過程とか、構造に潜在する力を引き出そうとした。

グールドが絶賛するショパンのピアノ協奏曲など、装飾的なパッセージワークが時折モーツァルトのように端正に響く。モーツァルトは1756年生まれだから、世紀をまたいでお爺さんになるまで生きていたら、時代のトレンドに沿ってこんな曲を書いたかもしれない。また、ワイセンベルクは、自らも作曲をするだけあって、音楽の文脈の設定が抜群に上手い。感覚的には角ばっていてまるで肉感的でないが、これだけロジカルに合点のいくショパン演奏も珍しい。

凄いのが、「幻想ポロネーズ」(1972年のライブ録音)。まるでベートーヴェンのような楷書でゴツゴツしたアプローチだが、このショパン晩年の捉えどころのない音楽に、確固たる「道」をひくことに成功している。澄んだ氷のようなタッチが、時々ゾッとするような寂寥感を漂わせる。ショパンは、フンメルやモシェレスと同様、オペラ的な声の技巧をピアノに持ち込もうとした人だが、人声のような揺らぎを排した純粋器楽的なアプローチをも包容する可能性を秘めていたことに驚かされるし、同時代の数多の作曲家のなかでのショパンの非凡さは、むしろそうした音楽としての構築にあるのではないかと、逆説的に気づかされる思いだ。

グールドが「我慢がならない作曲家だが、ワイセンベルクの手にかかると状況は一変する」と絶賛したラフマニノフの3番は、修行僧のように音を積み重ねていくワイセンベルクの映像が残っている。部分的に切り取ったら、冷たくゴツゴツした面白みのない演奏に聴こえるかもしれない。しかし、音楽全体としての構築的な説得力はすごい。純粋な運動能力的な技巧が図抜けているので、普通ならテンポを落とすようなところもそのまま行けてしまう。たとえば第1楽章のカデンツァ、音楽的な断絶をつくらず、それまでのテンポの延長で一筆書き的な流れで持っていくのは圧巻だ。ここに限らず、楽曲構造に寄り添った段階的なテンポ・チェンジで、構造的なセンテンスの切れ目を顕在化させるので、場面転換のコントラストが鮮やか。細かいアゴーギクやルバートを避ける禁欲的な姿勢が効いている。

ワイセンベルク自身は、自らの演奏ポリシーについてこんな風に語っている。

ーあなたはラフマニノフのように、ステージではにこりともしないことで知られていますが…
W:ピアノを弾くことはわたしにとってはきわめて重大なことです。わたしはにこにこ笑うためにステージにいるんじゃなくて、プログラムを生き返らせるためにいるんですーで、わたしは全力を尽くしてそれをやり、できるだけうまく弾きます。
ーできるだけうまく弾くとはどういう意味でしょうか?
W:できるだけ飾り気なく個性的に弾くということです。わたしは、曲の幅広い線と構造を妨げる異質な効果をすべて排除しなければ気がすまないんです。この種の論理は、曲の感情面での効果に非常に重要なものです。
『ピアニストとのひととき』から)

ワイセンベルクは、音楽の贅肉を削ぎ落とし、ひたすらその骨格を見つめようとしたピアニストであり、その徹底した姿勢が楽曲とうまく合致したとき、いくつかの演奏で驚くべき風景を見せてくれる。ワイセンベルクの音楽の魅力は、そこに一貫する求道的な精神のようなものにあるのかもしれない。

【その他のおすすめ演奏と、CDのリンク】

僕がこの人の音楽を知りたいと欲したきっかけは、Facebookで知人の秦氏が紹介されていたこのラヴェルを聴いて感銘を受けたことだった。ポーカーフェイスの「音の彫刻家」ワイセンベルクのピアニズムが、ラヴェルの音楽と見事なマリアージュを見せている。

当時19歳のムターと共演したブラームスのヴァイオリンソナタ。カラヤンお気に入りの2人の共演は、音色も驚異的に相性がいい。知的に音楽を彫琢していくワイセンベルクの美点がすごく発揮されている。(ちなみに、カラヤンと共演した一連の協奏曲録音は、カラヤン色が前面に出すぎている嫌いがある)

グールドが「私がこれまでに聴いたモーツァルトの協奏曲のうちで最高の解釈」と絶賛しているモーツァルトのピアノ協奏曲第9番(ジュノム)は、チェリビダッケと共演した映像が残っている。弛緩することのない集中力で、すばらしく充実した音楽体験をもたらしてくれる名演。

ワイセンベルクがMr.Nobody名義で発表した、シャルル・トレネのシャンソンのトランスクリプション(Mr.Nobody自身の演奏)。コンポーザー・ピアニスト、ワイセンベルクには、こんな洒落た一面も。筆者もアンコールピースとして愛奏している。楽譜はミューズ・プレスから出ている(こちら)。

ラヴェルが出色。プレートル指揮のラフマニノフはグールド絶賛の録音。

モーツァルト、ショパン、シューマンが聴きもの。

全盛期のライブ。ワイセンベルク特有の彫刻的なショパンを堪能できる。

筆者一押しの、ムターとの絶品ブラームス。



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内藤 晃
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