シューマンとショパン
「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」といってオイゼビウスが楽譜を一つ見せた。表題は見えなかったけれども、僕はなにげなくばらばらとめくってみた。この音のない音楽の、ひそかな楽しみというものには、何かこう、魔法のような魅力がある。それに僕は、どんな作曲家もそれぞれみるからに独特な譜面の形をもっていると思う。ちょうどジャン・パウルの散文がゲーテのそれと違うように、ベートーヴェンは譜面からしてモーツァルトと違う。しかし、この時はまるで見覚えのない眼、何というか、花の眼、怪蛇の眼、孔雀の眼、乙女の眼が妖しく僕をみつめているような気がした。
シューマンがショパンと出会ったのは、17歳のショパンが書いた《〈ドン・ジョヴァンニ〉の主題による変奏曲》作品2の楽譜ごしであった。シューマンは、フロレスタンとオイゼビウスという架空の人物の対話で独自の音楽評論を展開したが、1832年にライプツィヒの「一般音楽新聞」に寄稿したこの評論は、彼の音楽評論の記念すべき第一号となった。
この評論でもシューマンの空想癖は全開で、変奏ひとつひとつに《ドン・ジョヴァンニ》の登場人物の仕草を思い浮かべる。
最初の変奏は、ドン・ジョヴァンニがツェルリーナに愛嬌良くもちかけるとこだ。第2変奏では、2人の恋人はさかんに追いかけあっては、高笑いに興ずる…(略)
これに対しショパンは、
カッセルにいるドイツ人から10ページもある評論がとどいた。長い序論のあとで彼は1小節1小節を分析して、これはただ普通にある変奏曲ではない、幻想的な絵画的な描写だといっています。(…略…)アダージョの第5小節ではD♭音がドン・ジョヴァンニとツェルリーナが口づけするのをあらわしていると言うのです。このドイツ人の空想にはほんとうに死ぬほど笑った。(ショパンが親友ティトゥスに宛てた1831年12月12日の手紙)
と苦笑。的外れの批評に「ありがた迷惑」すら感じていたようだ。
このような温度差にもかかわらず、シューマンはこの同い年のポーランド人作曲家の音楽に魅せられ、たびたび批評を書き、《謝肉祭》(1834-35年)では、音楽中の登場人物としてパロディの音楽を忍ばせたりもした。
そして、1835年ライプツィヒ、この2人はメンデルスゾーンの紹介でついに対面を果たす。初めてショパンの生演奏に接したシューマンの感激は相当なもの。
彼の演奏ぶりは、風に鳴るというエオルスの琴(ハープ)があらゆる音階を奏でるところへ、芸術家の手がありとあらゆる幻想的な装飾を織り込むので、低い方の根音と柔らかに歌ってゆく高声部がたえず聞こえてくる…(略)
このシューマンの文章がエチュード 変イ長調 Op.25-1の「エオリアン・ハープ」の通称を生んだのは、みなさんご存じの通りである。
シューマンは、1838年、クララを想って書いた大作《クライスレリアーナ》Op.16をショパンに献呈する。何か返礼をと思ったショパンは、新曲から、友人プレイエルに選んでもらった後の「残りもの」のバラード第2番 Op.38をシューマンに贈ったが、あろうことか、献辞に記すシューマン(Schumann)の綴りをシュゥーマン(Schuhmann)と誤記し、さらに、地名のライプツィヒ(Leipzig)をライプスィク(Leipsic)と誤記してしまう有様。なんともお粗末である。
シューマンは、同い年のショパンに強い共感と仲間意識を感じていたようだが、ショパンの方はそうでもないようだ。このように、2人の関係は、人間的にも音楽的にも、シューマンの片想い。その微妙な関係を実際の音で味わえるのが、シューマンによる未完の《ショパンのノクターン ト短調 Op.15-3による変奏曲》(1835年)。この内省的でとらえどころのないOp.15-3をチョイスしているあたりもシューマンらしいが、ここでは、徹底的に「シューマン化(Schumannize)されたショパン」の居心地の悪さと、そこに横溢するシューマンのショパン愛を楽しんでいただきたい。1992年に日の目を見たばかりで、録音もほとんどなされていないこの激レア曲を、筆者が音にしてみました。
参考
シューマンの音楽評論集。ショパン、ベルリオーズ、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスらへの批評の数々から、書き手としてのシューマンの感性が見える。
残念ながら絶版で古本の価格が高騰している。復刊希望。
初出 月刊音楽現代2019年10月号 内藤晃「名曲の向こう側」