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忘れられた人々。

僕の行動の源泉は、「あの山の向こうには、いったい何があるんだろう?」という好奇心です。
この動機は、ポジティブに発揮される時もあれば、ネガティブに発揮される時もあります。

子供の頃、「この階段を自転車で下りたらどうなるだろう?」とやってみて、手首を骨折しました。
大人になった今でも、「この凍った池の氷の上に乗ったらどうなるだろう?」とやってみて、池に落ちました。

仕事の場面では、「この取組をこの人たちとしたらどうなるだろう?」と試行錯誤を楽しみます。
「戦争から避難した人たちの日常と、それを支えているのはどんな人なんだろう?」という好奇心から、昨年の初夏に続き、冬のウクライナを訪れました。

東京で日・ウクライナ経済復興推進会議が行われている最中、前回に続き戦災復興支援センター(WDRAC)が支援するActions Beyond Wordsボランティアプログラムに自費参加しました。
毎日のようにポーランドからウクライナを往復、主にリヴィウ近郊の避難所に支援物資を送り届ける仕事です。

あれから9ヶ月、変わったのは季節だけで、他は何も変わっていないように見えました。

変わらなかったこと。
公共施設で避難生活を強いられる家族。
「普通の生活」を送るリヴィウの街並み。
郊外のホームセンターに並ぶ豊富な商品。
突如として響くミサイル警報と、頻繁に鳴るスマホアプリからのサイレン。
人道支援団体からの食糧援助が命綱の高齢者たち。
夫や息子が兵士として前線に送られたまま、連絡が取れずにいる女性たちとその子供たち。
メディカの国境近く、凍えそうな夜にポーランドで軍事訓練を終えウクライナに入国する兵士に、ウォッカと煙草を売ることで日々の糧を得る難民の女性たち。

唯一、変わった(ように見えた)ことは、メディカ(ポーランドーウクライナ国境)のUNCHRのプレハブ事務所が撤去されていたこと。
状況は好転しているようには見えませんでした。

この2年で、僕にとっての「ウクライナ戦争」はとても身近なことになりました。
キーウに住む友人、ハルキウに住む友人。
キーウの孤児院のドクターとスタッフたち。
彼らに物資を送り届けるABWのメンバーたち。
ABWを通じて関わりが生まれたPARACREWのメンバーたち。

そうは言っても、「戦争」に実感がない人が多数なんだろうな、とも思います。
冷めた表現ですが、ウクライナで、パレスチナで、シリアで、アフガニスタンで、イエメンで、リビアで起きている紛争・戦争は、日本で暮らしている僕たちには直接に関係があることじゃないし、間接的にも生活に影響を受けることはほぼありません。
残念だけれど、そういうものですよね、きっと。

それでも、戦争に巻き込まれた「普通の人たち」を忘れないで、今日も彼らのもとに生きていくために必要なものを送り届ける人たちがいます。

この世界で私たちがお互いに安心して暮らしていくために、何ができるでしょうか?

僕ができることは、こうして「現地」に足を運ぶこと、忘れられた人々のことを伝えること、人と人、そして人と事を繋ぐことです。

自分には関係ないことだから、と距離を置くこともできます。
この記事を読んだ以上、自分とは無関係とは言えないと距離を縮めることだってできます。
日本で暮らす私たちは、幸いにもこのようにいくつもの選択をすることができます。

どうぞ、遠い国で戦争に巻き込まれて、選択することすらできずに、たった今のこのときも、明日の食べ物に窮する人たちがいること、その人たちに食糧を届け続ける「普通の人」がいることを知っていてほしいです。

僕は彼らのことを「アンサングヒーロー(称賛されない、知られざる英雄)」と呼んでいます。

避難を強いられ精一杯の暮らしを送っている人たちのこと、その人たちをささやかに強かに支え続けているアンサングヒーローたちを忘れないでほしいのです。
そして、アンサングヒーローたちを支えたいと願う僕のことも、どうか忘れないでください。

メディカ(ウクライナの国境にあるポーランドの街)にある、Actions Beyond Wordsの拠点。国境まで歩いて300mの場所に倉庫を借り、WDRACの寄付により事務所兼ボランティアの宿泊場所として活用しています。国を越えてボランティアが集まり、ウクライナ国内での支援活動の準備をしています。
ウクライナ西部の街にある、閉校になった学校を活用した避難所。ここには侵攻が始まって2年、常に10家族50人ほどが身を寄せています。この地域に住んでいる人たちが、ランチルームの厨房を使って食事を提供しています。言葉でのコミュニケーションは十分ではありませんが、満面の笑みで私たちを迎え入れ、表情と仕草でありったけの感謝を伝えてくれました。
避難所の厨房。この御夫婦が避難所の「マネージャー」として、ボランティア団体との折衝や暮らしに必要な物資を調達し続けています。  言葉の壁は翻訳アプリを使って乗り越えます。私たちが日本から訪れたことを知ると、力いっぱいのハグと握手で喜びを伝えてくれました。
古い病院を避難所として用いています。
6部屋ある病室を、家族で使えるように改修しています。子供からお年寄りまで、5組の家族が避難生活を続けています。この避難所には、食料(小麦粉、乾麺、缶詰)と衛生用品(成人用おむつ、生理用ナプキン、シャンプー)を届けました。
ウクライナ西部の都市、リヴィウ(人口72万人)の町中に、物資の中継拠点となる倉庫があります。メディカで物資を積み込み、避難所からのニーズに応じて荷物を積み替えます。この拠点は複数のボランティアで共用されていて、物資を効率的に届けるための工夫が随所に見られました。
今回の活動は、アメリカ・ノルウェー・フィンランド、そして日本の4カ国、4つの団体での合同オペレーションでした。NADA(フィンランド)の寄付により調達した物資を、3つのチーム、4台の車で4日間で延べ10箇所の避難所に届けるという活動でした。この写真を撮影している間、防空警報のサイレンが街中に響いていました。
ウクライナ国内の中部・西部の街には、日本のように大型のスーパーマーケットや食料品の現金問屋があり、国内で生産された農産物や加工食品は豊富に流通しています。避難所で暮らす人の多くが車を持たず、収入もままなりません。生鮮食品は避難者からのニーズが多く、ボランティアたちが寄付金を使って購入し、「ラストワンマイル」を担っています。
戦災復興支援センターからActions Beyond Wordsへの寄付は、メディカ(ポーランド)の拠点からウクライナの全土に散らばる避難所への物資輸送車(3台)に活用されています。寄付をしてくださった方たちのお名前が、今日も避難生活を強いられる方たちの元に物資とともに届けられています。
早朝から深夜までの活動を終え、メディカ(ポーランド)の拠点に戻り、翌日の活動に向けたミーティングと準備を進めます。ようやくひといき、夜食を食べながらアメリカ・イギリス・フィンランド・カナダにおける夜食事情というテーマで賑やかな「国際交流」が自然と発生します。
戦災復興支援センターへの寄付の一部は、首都キーウ近郊の乳幼児を対象とした大規模な孤児院に届けられています。紙おむつをはじめとした衛生用品、粉ミルクや離乳食などの食料品、そして予防接種のためのワクチンや医療用品が届けられています。武力衝突による戦争遺児が増えたことで、キーウ近郊の孤児院では対応に追われています。


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