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[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] G-Man Hoover(2)

フィル・オクスは二度死ぬ

 ヴァン・ダイク・パークスがこの曲をアルバムで取り上げた動機は、フーヴァーに対する個人的な〝恨み〟だったことを彼自身がXにポストしていた。

1895年1月1日生まれのFBI長官・Gママ・エドガー・フーバーが私の電話回線を盗聴したのは、私がフィル・オクスをよく知っていたからに他ありません。そして、情報自由法がわれわれの直感を裏付けてくれました。この出来事を記念して、古いカリプソの歌「Gマン・フーヴァー」を私はレコーディングしたのです。

2020年1月2日午前0時39分

 フィル・オクスは60年代の一時期、ボブ・ディランのライバル───あるいはそれ以上の存在とも言われていたフォークシンガーだ。ディランより半年ほど早く、またジョン・レノンから2ヶ月ほど遅い、1940年12月19日にテキサス州エルパソで生まれた。オハイオ州立大学でジャーナリズムを学んでいたが、友人の影響でウディ・ガスリーやピート・シーガーらを知り、フォーク歌手になることを決意。

 1962年、フォークシーンのメッカであるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに飛び込んだ。オクスはSinging Journalistを自称して、ベトナム戦争を真正面から批判した「Vietnam Talking Blues」、徴兵逃れ(ドラフト・ドッジ)を歌った「Draft Dodger Rag」、射殺された公民権運動の活動家に捧げた「Too Many Martyrs」といったトピカルソング、抑圧される社会的弱者に光を当てたプロテストソングを生涯で200曲ほど作った。

 政治的左派の主張と重なる内容の歌詞が多かったため、左翼運動の象徴的存在になったオクスは、政治集会やデモにも積極的に参加し、平和や社会正義を歌で訴えた。そのため彼は「市民の敵」とみなされ、FBIの監視対象となる。

 しかし、彼がデビューした1964年はビートルズがアメリカを席巻した年だった。〝死んだ〟と見なされていたロックが息を吹き返し、伝統的なフォーク・ソングのスタイルはあっという間に時代遅れになってしまう。型を破りつづけ、時々刻々と表現を変化させていたディラン、フォークのハーモニーにロックのイディオムを融合したバーズバッファロー・スプリングフィールドといった〝ローレル・キャニオンの住人たち〟と違って、オクスはこれまでどおりのやり方に固執した。というより、音楽的な引き出しに乏しく、固執せざるを得なかったのかもしれない。結局、レコードセールスにも恵まれず、デビュー以来、3年近く所属していたエレクトラを1966年に辞めて、心機一転、ロサンゼルスに移住。新たにA&Mレコードと契約する。

 いっぽうでヴァン・ダイクもカーネギー工科大学を2年でドロップアウトし、1963年にロスへ移住する。兄のカーソンが組んでいたフォークデュオThe Steeltown Two」(のちにThreeに参加して、南カリフォルニアのフォークシーンで活動を始めた。

 ぼくたちはあらゆるヒップな店で演奏したよ。サンディエゴからサンタバーバラまで、海岸沿いのあらゆる場所でね。そんな生活は2年ほど続いたかな。最初の頃は、スーパーマーケットの裏からかっぱらってきた萎びた野菜を兄と奪い合うような生活だった。あるイヴェントでは一晩で7ドル50セントぽっちしか稼げなかった。しばらくそんな状態が続いていたけど、スタンドアップベースのプレイヤーがメンバーに加わってからは20ドル稼げるようになった。1963年にかの有名なウエストハリウッドのナイトクラブ「トルバドール」で演奏したときなんて、1週間で750ドルも稼ぐことができたんだ。

Richard Henderson "Van Dyke Parks' Song Cycle"
Greenwood County Singers "Have You Heard" (KAPP)

 その後、The Steeltown Twoは「The Southcoasters」「Greenwood County Singers」というグループに発展。中でもGreenwood County Singersは男女混声7人組のモダン・フォークグループで、KAPP Recordsと契約。4枚のアルバムとシングル数枚をリリースし、日本盤のシングルも発売されている。貧しいながらも、こうした音楽活動をとおして、ヴァン・ダイクの西海岸での人脈は徐々に広がっていく。

 例えば西海岸フォークの重鎮テリー・ギルキソンもそのひとりだ。The Easy Ridersのメンバーとして50年代から活動していた彼は1960年にグループを脱退した後、ディズニーで音楽を手掛け始める。彼の代表曲のひとつが『ジャングル・ブック』(1967年)の挿入歌The Bare Necessities。主人公である人間の子、モーグリに親友のクマのバルーが〈本当に大事なもの〉とは何かを諭すメッセージソングで、アカデミー賞オリジナル歌曲賞にノミネートされた。パークス兄弟に目をかけていたギルキソンは「The Bare Necessities」のアレンジをヴァン・ダイク・パークスに任せる。これが彼のプロとしての初仕事だった。

 その出来事はまるで〝燃える茂み〟のように、ぼくの人生を劇的に変えてくれた。それ以来、カリフォルニアにしっかり腰を据えることになったんだ。そして、音楽家としての道を歩む決心を固め、一生涯をかけて音楽を追求し続ける覚悟ができた。初めてのまとまった収入をもたらしてくれた小切手には、親しげに手を振るミッキーマウスが描かれていて、それを換金するのは本当に愉快だったね。

https://laist.com/news/kpcc-archive/van-dyke-parks-50-year-song-cycle

 "燃える茂み"は旧約聖書の「出エジプト記」に登場するキーワードだ。イスラエル人がエジプトで奴隷生活を送っていた頃、モーセがシナイ山で羊を連れているとき、燃える茂みの中から神の声を聞く。神はモーセに直接語りかけ、イスラエル人をエジプトから解放し、約束の地へ導くように命じた……という逸話からの引用だ。ユダヤ教やキリスト教において、神と人間との出会いという重大な出来事を象徴する言葉で、ヴァン・ダイクも自分の運命を変えた出会いという意味で引き合いに出している。

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水本アキラ
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