[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] G-Man Hoover(2)
フィル・オクスは二度死ぬ
ヴァン・ダイク・パークスがこの曲をアルバムで取り上げた動機は、フーヴァーに対する個人的な〝恨み〟だったことを彼自身がXにポストしていた。
フィル・オクスは60年代の一時期、ボブ・ディランのライバル───あるいはそれ以上の存在とも言われていたフォークシンガーだ。ディランより半年ほど早く、またジョン・レノンから2ヶ月ほど遅い、1940年12月19日にテキサス州エルパソで生まれた。オハイオ州立大学でジャーナリズムを学んでいたが、友人の影響でウディ・ガスリーやピート・シーガーらを知り、フォーク歌手になることを決意。
1962年、フォークシーンのメッカであるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに飛び込んだ。オクスは〝Singing Journalist〟を自称して、ベトナム戦争を真正面から批判した「Vietnam Talking Blues」、徴兵逃れ(ドラフト・ドッジ)を歌った「Draft Dodger Rag」、射殺された公民権運動の活動家に捧げた「Too Many Martyrs」といったトピカルソング、抑圧される社会的弱者に光を当てたプロテストソングを生涯で200曲ほど作った。
政治的左派の主張と重なる内容の歌詞が多かったため、左翼運動の象徴的存在になったオクスは、政治集会やデモにも積極的に参加し、平和や社会正義を歌で訴えた。そのため彼は「市民の敵」とみなされ、FBIの監視対象となる。
しかし、彼がデビューした1964年はビートルズがアメリカを席巻した年だった。〝死んだ〟と見なされていたロックが息を吹き返し、伝統的なフォーク・ソングのスタイルはあっという間に時代遅れになってしまう。型を破りつづけ、時々刻々と表現を変化させていたディラン、フォークのハーモニーにロックのイディオムを融合したバーズやバッファロー・スプリングフィールドといった〝ローレル・キャニオンの住人たち〟と違って、オクスはこれまでどおりのやり方に固執した。というより、音楽的な引き出しに乏しく、固執せざるを得なかったのかもしれない。結局、レコードセールスにも恵まれず、デビュー以来、3年近く所属していたエレクトラを1966年に辞めて、心機一転、ロサンゼルスに移住。新たにA&Mレコードと契約する。
いっぽうでヴァン・ダイクもカーネギー工科大学を2年でドロップアウトし、1963年にロスへ移住する。兄のカーソンが組んでいたフォークデュオ「The Steeltown Two」(のちにThree)に参加して、南カリフォルニアのフォークシーンで活動を始めた。
その後、The Steeltown Twoは「The Southcoasters」「Greenwood County Singers」というグループに発展。中でもGreenwood County Singersは男女混声7人組のモダン・フォークグループで、KAPP Recordsと契約。4枚のアルバムとシングル数枚をリリースし、日本盤のシングルも発売されている。貧しいながらも、こうした音楽活動をとおして、ヴァン・ダイクの西海岸での人脈は徐々に広がっていく。
例えば西海岸フォークの重鎮テリー・ギルキソンもそのひとりだ。「The Easy Riders」のメンバーとして50年代から活動していた彼は1960年にグループを脱退した後、ディズニーで音楽を手掛け始める。彼の代表曲のひとつが『ジャングル・ブック』(1967年)の挿入歌「The Bare Necessities」。主人公である人間の子、モーグリに親友のクマのバルーが〈本当に大事なもの〉とは何かを諭すメッセージソングで、アカデミー賞オリジナル歌曲賞にノミネートされた。パークス兄弟に目をかけていたギルキソンは「The Bare Necessities」のアレンジをヴァン・ダイク・パークスに任せる。これが彼のプロとしての初仕事だった。
"燃える茂み"は旧約聖書の「出エジプト記」に登場するキーワードだ。イスラエル人がエジプトで奴隷生活を送っていた頃、モーセがシナイ山で羊を連れているとき、燃える茂みの中から神の声を聞く。神はモーセに直接語りかけ、イスラエル人をエジプトから解放し、約束の地へ導くように命じた……という逸話からの引用だ。ユダヤ教やキリスト教において、神と人間との出会いという重大な出来事を象徴する言葉で、ヴァン・ダイクも自分の運命を変えた出会いという意味で引き合いに出している。