[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] G-Man Hoover(3)
初めてぼくが映画館で観たディズニー映画が『ジャングル・ブック』だった。小学校に上がるか上がらないかくらいの頃で、普段はポルノがかかっている「大劇」という映画館が正月や夏休みの昼間だけ、子供向けの映画が上映されており、親にねだって連れて行ってもらったのだ。川面に浮かんだバルーの、ふかふかしたおなかの上にモーグリが乗り、一緒に川下りする描写がある。幼少期にプールで溺れて以来、水に対する恐怖心があったぼくには、怖いような、それでいて憧れるような場面が一番印象に残っていて、そのシーンで流れていたのが「The Bare Necessities」だった。だった。ずいぶんあとで「The Bare Necessities」がヴァン・ダイク・パークスの仕事だと知ったときにはすごく嬉しかった。
フィル・オクスとヴァン・ダイクがどういういきさつで知り合ったのか、詳細はわからない。ただ、ヴァン・ダイクのXによれば、オクスがグリニッジ・ヴィレッジにいた頃からすでに友人だったようだ。。
オクスとパークスが参加したのは「1967 Century City anti-Vietnam War March」と呼ばれるデモだ。その日、ロサンゼルスのホテル「センチュリーシティー」でリンドン・ジョンソン大統領の資金集めパーティが開かれていた。市内の別の場所に集結したデモ隊はホテルまで平和的に行進する予定だった。1000人規模のデモと警察は予想していた。
ところが、オクスをはじめ、モハメド・アリやベンジャミン・スポックといった著名人もデモに加わり、参加者は1万人以上に膨れ上がった。事態を収拾出来ず、パニックになった警察はデモ隊を解散させるために無差別攻撃を開始。多数の死傷者が出る惨事となった。この最中にパークスも警官に殴られたのだろう。
オクスの代表曲のひとつ「War is Over」はこの日が初披露。翌年リリースのアルバム『Tape From California』に収録される。アルバムの表題曲にはパークスも参加し、エレクトリック・ピアノとチェンバロを弾いている。
1968年8月、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くで、ベトナム戦争に反対する大勢の活動家、市民グループや学生たちが集結した。この集会も平和的に実施されるはずで、オクスも会場で歌うためにシカゴにいた。しかし、デモは予想を超えて激化する。警察との間で激しい衝突が起き、アビー・ホフマンやジェリー・ルービンら名だたる活動家7人(シカゴ7)にブラックパンサー党のボビー・シールを加えた8名が、暴動を扇動した容疑で逮捕され、共謀罪で起訴される。裁判は陪審員の買収、盗聴が横行する不当なもので、是が非でも彼らを叩きのめしたいという当局の思惑が垣間見えた。被告や証人たちも自らの無罪を証明し、主張をアピールするために結束。法廷侮辱罪に問われかねないパフォーマンスを繰り広げる。
オクスは逮捕されたメンバーたちと活動を共にすることが多く(オクス自身もこの衝突の際に逮捕されていた)、アレン・ギンズバーグやアーロ・ガスリーらと共に証人として出廷。証言台で自作の歌「I Ain't Marching Anymore」の歌詞を朗読した。
この裁判直後、オクスは『Rehearsals For Retirement』というアルバムを発表する。自らも関わったシカゴ7裁判や、立て続けに起きたマーティン・ルーサー・キング牧師とケネディ大統領の暗殺などにショックを受け、アメリカ社会に幻滅し、彼はレコードジャケットには自らの墓石をあしらう。アメリカ国旗を背に、ライフル銃を肩に載せている自分の肖像写真と、〈フィル・オクス(アメリカ人)、1940年 、テキサス州エルパソ生まれ、1968年、イリノイ州シカゴで死す〉と墓石に刻んであった。このレコードは彼のディスコグラフィで最低の売上を記録し、A&Mはあっという間に廃盤にした。
しかし、オクスは次のアルバムで大胆な方針転換を試みた。自分の問題意識をストレートに歌っても聞き手に届かないなら、自分がティーンエイジャーの時に熱狂したエルヴィスのように歌ってみたい、と彼は考えたのだ。そんな野心作『Greatest Hits』(1970年)のためにオクスがプロデューサーとして抜擢したのが、ヴァン・ダイク・パークスだった。エルヴィスのギタリストを務めていたジェームス・バートンに加え、ライ・クーダー、クラレンス・ホワイト、ジーン・パーソンズなどお馴染みのメンバーを招集し、カントリー・ロックや初期のロックンロールにオマージュした、明るく軽快なサウンドをヴァン・ダイクは作り上げる。
オクスはアルバムジャケットのために、エルヴィスと同じドレスメーカーに金色のスーツを仕立てさせ、それに身を包んでツアーにも出かけた。〝歌うジャーナリスト〟のイメージで集まった観客たちは困惑したが、「以前のぼくはシカゴの暴動で死んだ。そして、神様が誰にでも生まれ変わっていいよと言ってくれたので、ぼくはエルヴィスを選んだ」と説明したという。
生まれ変わったはずのオクスだったが、それでも人生は好転しなかった。ドラッグに手を染め、アルコール中毒になり、旅先のアフリカで強盗に襲われ、首を絞められたことが原因で商売道具の喉を潰してしまう。また、鬱病や双極性障害に苦しみ、一時は自宅を失って、路上生活を送った。そして1976年、35歳の若さでとうとう自殺してしまう。
オクスの死後、500ページに及ぶ膨大な調査ファイルをFBIが残していたことが明らかになる。そのファイルには、著名人、抗議活動の主催者、ミュージシャン、その他FBIが〝破壊的〟と見倣していた人々、カウンターカルチャーとの関わりに関する情報が仔細に記録されていた。そこにはヴァン・ダイク・パークスの名もあったに違いない。
ヴァン・ダイクは今でもオクスのことを親友(A Close Personal Friend of Mine)と呼び、アメリカンドリームから目覚めた悲運のフォークシンガー(The Doomed Folk Singer Who Woke Up From The American Dream)と称し、堕落することなく死んだ(Died As An Uncorrupted Man)と悲嘆に暮れている。
そして政治や社会に対して何か物申したいとき、しばしばオクスのこの言葉をXのポストで引用している。