【アーカイヴ】 武田百合子『富士日記(上巻)』をじっくり読みながら美しい文章とはなにか、について語り合いたい。
文章を書いたり、書籍を企画/編集してお金をいただくようになってから、十五年くらいの月日が経つ。子どもの頃から作文や読書感想文を褒められることは多かったし、大好きだったとは言えないまでも、苦手と意識したことは無かったので、あるとき、期せずしてプロの編集者から原稿仕事を頼まれたときも、まったく臆することはなかった。期せずして始めた仕事ではないからポリシーだってないし、余程のことがないかぎり依頼を断ったりはしない。原稿料の大小も(ほとんど)考慮しない。かえって不相応に大きな報酬をいただける仕事には警戒しますが。
ただ、多くのプロの物書きがそうであるように、ぼく自身もどこかで特別な修行をしたわけじゃない。与えられた実践のなかで、無数のトライ・アンド・エラーがあり、そこからなにかを学び、なにかを失いながら、どうにか独力でやってきたつもりだ。もちろん依頼主の期待に応えられた仕事ばかりではないし、たとえ相手が満足してくれても、自分が満足できないまま原稿を渡したことだって少なからずある。そういう原稿にかぎって評判が良かったりする。努力や修練だけが、評価の尺度にならないのは、表現をなりわいとする仕事の怖いところだろう。
いや、ほんとうに怖いのは、いざ原稿を書き始めてから、こういうことが書きたいと最初にぼんやりイメージしていたことが、自分の能力ではうまく伝えられないと見切ってしまった時だ。そのショックの大きさといったらない。それでも刻一刻と迫ってくる締切を前に、冷や汗をかくこともしばしばだが、そんなとき頼る道具もなければ、助けてくれる人もいない。
長い期間にわたる集中を必要とするような大きな仕事と向い合う前には、庭の草木をすべて植え替えてしまうように、他人の書いた美しい文章を自分の中に取り込みたくなる。それはたいてい抱えている仕事と直接むすびつくことのないタイプの文章であり(この頃は日本の近代文学がほとんどだ)他者からの影響を無意識に避けようとする、書き手としての、小さなプライドが働くせいだろうか。
そんななか最近、偶然手にした一冊が、武田百合子の『富士日記』だった。夫である作家・武田泰淳とひとり娘の花(成長して写真家となった武田花)と共に、昭和三十九年からおもに夏の間だけ暮らした富士山麓の別荘生活を、十三年間にわたって記録したものだ。自宅のある東京を離れ、新生活をスタートするにあたり、泰淳の強い勧めによって、しぶしぶ彼女は日記をつけ始めた。
「どんな風につけてもいい。なにも書くことがなかったら、その日に買ったものと天気だけでもいい。面白かったことやしたことがあったら書けばいい。日記の中で述懐や反省はしなくてもいい。反省の似合わない女なんだから。反省するときゃ、必ずずるいことを考えているんだからな」
これは泰淳が百合子に与えたアドバイスの抜粋だが、〈日記〉という部分を、たとえばブログやツイッターに置き換えるだけで、今のあなたにとっても、非常に身近な指針にならないだろうか?
夫に対する愛情に溢れ、仔犬のように従順な百合子は、このアドバイスに従って、琴線に触れた出来事を毎日せっせと掬い取り、細密に記録していく、ただそれだけ……いや、もちろんそれだけではない。本来、他人の目に触れない「日記」という形式で書かれた文章だからこそ(けしかけた泰淳さえほとんど読み返さなかったという)そのあたたかさはとても深いところまで届く。その反面、ときに容赦ない鋭さで心を削ぐ。生きるために出ていく金とその行き先についての細かな出納簿であり、本格的な作品に取り掛かる前に画家が描くエスキースのようでもある。夫の死後、この『富士日記』が出版されたことによって、文壇に〈再発見〉された、超一流の文章家の成長日誌として読むこともできる。
彼女は言葉にならぬほどの絶景を目にしたとき、単にそれを「美しい」という一言で片付けてしまうことを許さない。美意識にそまないのだ。感情の源を探り、原型をとどめぬほどバラバラに分け、彼女自身の言葉でもういちど構築したときには、もはや美しいということではなくなることさえあった。
ぼくはそんな彼女の文章をほんとうに美しいと思う。その美しさを知っていた人だけでなく、知らなかった人とも分かち合いたくてしかたがないくらいハマっているのだ。なぜ彼女の文章がこんなにぼくたちを惹きつけるのか、たくさんの人と徹底的に話し合ってみたくてしかたない。
そんな機会を誰もが街で浮かれる十二月の平日の夜にレイニーデイで持ちたいと思っている。なにしろたくさんの方に読んでもらいたい本だから。
ミズモトアキラ
*2011年11月ごろに書いた文章です