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[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] FDR inTrinidad (4)

奴らか?俺たちか?

1971年、アメリカ国防総省からある極秘書類がひそかに持ち出され、ニューヨーク・ポストとワシントン・ポストにリークされた。アメリカ政府による長年にわたる隠蔽工作が2紙の報道によって国民へ詳らかになり、その書類は「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれた。

ペンタゴン・ペーパーズには1945年から1967年までの、アメリカとベトナムの関係が詳細に記録されていた。そこにはベトナム戦争へのアメリカの関与が、国民に伝えられていたよりもはるかに根深く、かつ失敗に終わる可能性が高いことが示唆されていた。

ペンタゴン・ペーパーズ───事件の顛末は2017年、スティーブン・スピルバーグ監督、メリル・ストリーブ主演でで映画化(『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』)された。

ルーズベルトが大統領だった頃のベトナム(フランス領インドシナ時代)からの記録が「ペンタゴン・ペーパーズ」には残っていたが、ルーズベルトの時代は権力者に都合よくあらゆる情報が統制できた。地面に落としたハンカチを拾うために腰をかがめることもできない、重いハンディキャップさえ、何十年も秘匿できたのは、メディアの忖度の力のおかげばかりではないだろう。

ハイド・パーク内にあった彼の秘密のコテージで公園の管理人の娘、
そして愛犬のスコッチテリアと撮影された車椅子上のルーズベルト。

やがて、公民権運動や反戦運動が盛り上がり、カウンターカルチャーの風がアメリカに吹きはじめると、大統領や合衆国政府に対する猜疑心は日に日に高まっていった。隠匿されていた秘密が次々と漏れ出し、『ディスカヴァー・アメリカ』の発売翌月には、かの有名な「ウォーターゲート事件」が起きて、ニクソンが大統領の職を辞した。

ウォーターゲート事件───1972年の大統領選挙中、民主党本部が入居するウォーターゲートビルに元CIA職員の男5人が侵入。これが発端となり、ニクソン大統領の側近による違法行為が発覚。大統領自身の関与も疑われた。最終的にニクソン大統領は弾劾の危機に瀕し、辞任に追い込まれた。アメリカ政治史における最大の政治スキャンダルのひとつ。1976年、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード共演の映画『大統領の陰謀』が作られ、アカデミー賞4部門を受賞した。

戦争と残虐行為を止めるため/民主主義のため/世界の安全をもたらすため/尊厳を迫害されている人々のため……トリニダードの人々を魅了したルーズベルトの〝かの有名な笑顔〟の裏にも、大国の思惑や資本家の利益のために設計された、壮大かつ巧妙な計画が組み込まれていた。

強者はやすやすと世論を誘導し、これまで手酷く扱ってきた弱者にさえ好感を抱かせようとする。そして、新しい利潤のために善き隣人のような顔つきで彼らの肩に手を回す───だが、これはアメリカとトリニダードだけの問題でもないし、ましてや昔話でもない。

ナチスの宣伝相だったゲッベルスは「戦時下において、ラジオは国民に真実を伝える道具ではなく国民を再教育する道具」であり「嘘を何度も繰り返せば、やがて真実として伝わる」と発言した。

先に紹介した演説〝庶民の世紀〟でヘンリー・A・ウォレスはこう言っている。

読み書きの能力が最近になって獲得された国や、国民が自らの考えに基づいて、自らを統治する経験を長く積んでいない国では、デマゴーグが現れて、一般人の心を卑劣な目的のために利用することは容易です。そのようなデマゴーグは、自分たちの振る舞いがどういう結果を招くかということに対して、無頓着な富裕層から資金援助を受けるかもしれません。この支援があれば、デマゴーグは人々の心を支配し、個々人が持つ自由の程度にかかわらず、彼らを奴隷状態に逆戻りさせることができます。

民衆煽動家デマゴーグたちが跋扈するSNSを眺めていると、どれだけの時が経ち、さまざまな経験を積もうとも、人類はすすんで奴隷化への道を歩んでいるのではないか、と思えてならない。

中村とうようは『ディスカヴァー・アメリカ』のライナーノーツでこう指摘している。

「その質素なスタイルに打たれ、有名なスマイルにひきつけられたよ。ほんとにみんなルーズベルトを大歓迎している」という「FDR……」の歌詞も、それがウィットに富んだ巻舌のカリプソ独特の歌い方で歌われると、けっして額面どおりには受取れなくなるのだが、アメリカに依存しなければ生きていけない、しかしけっしてアメリカを好きでないトリニダードの黒人たちのアンビヴァランス(反対感情併存)が、どのカリプソにも表れている。そういう、アメリカの植民地状態にある第3世界の視点を借りてアメリカを見るのが、ヴァン・ダイク・パークスの意図だとぼくは思うのだが(後略)

中村の考察とぼくの考えはやや違う。

「FDR in Trinidad」が作られた1930年代のトリニダードは、まだ〝国民が自らの考えに基づいて、自らを統治する経験を長く積んでいない〟地域の代表格だったはず。庶民(The Common Man)がルーズベルトの訪問で感じた喜びも屈託ないもので、それを素直にカリプソにしたのだと思う。

しかし、この歌が発表されてから数年後の1941年、米軍基地がチャガラマスに誕生し、1万人もの米兵がトリニダードに駐留する。それ以降、アメリカ経済や文化からの影響が自らの生活圏にじかに入り込んでくると、アメリカに対する〝アンビヴァランス〟な思いを強く滲ませたカリプソがたくさん歌われるようになる。

〝アンビヴァランス〟な思いを強く滲ませたカリプソ───アンドリュース・シスターズが1944年に歌ってアメリカでも大ヒットした「Rum & Coca-Cola」もアメリカ人の兵士にのぼせあがるトリニダードの若い女性たちや、米ドルを稼ぐために家族全員があくせくと働く様子を風刺的に描いたカリプソナンバー。もちろん『ディスカヴァー・アメリカ』1曲目の「Jack Palance」も同様である。

もちろん、ヴァン・ダイク・パークスやライ・クーダーがこの曲を70年代に蘇らせた理由については中村と同感だ。

アメリカ政府が発信した〝善き隣人〟というメッセージが、為政者の欺瞞に満ちたものだったことが晒されて、この歌の持つ意味は一変した。ヴァン・ダイク・パークスやライの「FDR in Trinidad」は、為政者に対して、皮肉や風刺で致命的クリティカルな打撃を加えたカリプソニアン、あるいはカリプソのルーツである西アフリカのグリオが持っていた批評性クリティズムを継承しようとする作品なのだ。

 ただ、どれほど批評的な歌を耳にしようとも、人間が〝奴隷的世界〟に歩み寄ってしまうのはなぜだろうか。マザーズ・オブ・インヴェンショ《32》のリーダーだったフランク・ザッパがこんな指摘をしている。

政治面のリーダーが誠実さを実際に証明しないとき、人々が絶えずで嘘をついているとき───誰もが〝大ウソ〟を生活の方法として慣れてしまう。この時点で誠実さは風変わりな流行遅れの概念となってしまう───もはや誰も誠実でいようなんて思わないんだ。だってもし誠実でいたら。ビリになってしまうかもしれないからさ。今では不誠実なことが習慣になってしまって、誠実なのは例外だって思うよ。統計的にみれば、不誠実な人間よりも誠実な人間の方が多いかもしれないが、物事を本当に支配している少数の奴らが誠実じゃなくて、しかもそいつらの方へバランスが傾いているってことなのかもな。

フランク・ザッパ『リアル・フランク・ザッパブック』(1991年・白夜書房)

そして、ザッパは政治家だけでなく、庶民の側に釘を刺すことも忘れない。

俺たちの大統領が誠実だとは思わないし、彼の周囲に誠実な人々がいるとも思っていない。下院とか上院とかにいるほとんどの連中は誠実だとは思えない。ビジネスの先頭に立ってひっぱっている連中の大部分が誠実だとも思わない。俺たちは、奴らを咎めることもなく、やるままにさせてきているのさ。だって俺たちは一塊の心底悪い奴らに〝所有され、動かさせている〟っていう事実に、真向から立ち向かうに足るほど誠実じゃないものな。

フランク・ザッパ『リアル・フランク・ザッパブック』(1991年・白夜書房)

舌鋒鋭く権力を批判し、運良く相手を打ち負かせたとしても、そのあと鏡に映っているのは返り血を浴びた自分たちの姿なのである。

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水本アキラ
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