THINK TWICE 20220130-0205
2月1日(火) FRENCH DISPATCH
ウェス・アンダーソンのインタビューによると、雑誌『ニューヨーカー』へのオマージュがふんだんに詰め込まれているようだ。ビル・マーレイが演じている『フレンチ・ディスパッチ』の創設者&編集長は、妻とともに『ニューヨーカー』を立ち上げ、亡くなるまで編集長を務めたハロルド・ロスを、またオーウェン・ウィルソンが演じている自転車好きの旅行ライターは『ニューヨーカー』に数々の紀行文を寄稿した(韻、踏んじゃった)ジョゼフ・ミッチェルを……といった具合に。
編集部が入っているビルはジャック・タチ風、サウンドトラックは80年代に細野さんや教授がCMや無印良品のBGMとして作ってたような"PSEUDO SATIE"(疑似サティ)。オマージュと言ったって、あまりにも直接的すぎやしないか?
そのいっぽう、カンザス州のローカル新聞がフランスで創刊した雑誌というヒネった設定は、はたしてほんとうに必要だったのだろうか。*1
しかしながら『ニューヨーカー』誌に対する薀蓄も、次々と頭に浮かぶ素朴な疑問も、ぼくを含めた観客にとって、この映画を楽しむための助けにも障害にもならない。なにせ情報量はものすごく多いのに、見終わっても余韻はない。あのシーンはなになにのオマージュで……など、いつもならつい始めてしまう分析も、まったくする気が起きない。映画館を出た瞬間、ぱっと気持ちが切り替わって、次の目的にむかって心置きなく動き出せる。
───と、ここまでふりかえって悪口しか書いてないように見えるかもしれないが、ストーリー、役者の演技、カメラワーク、衣装やセットなどが渾然一体となり、一本の映画として組みあげられたとき、得も言われぬウェス・アンダーソンの世界として完成する。もちろんこれは皮肉でもなんでもなく、映画作家として、ひとつの素晴らしい達成だとぼくは思う。
2月2日(水) MY LIFE AS A GHOST DOG (1)
YURIKO TAIJUN HANA、重版出来。
再入荷を待っててくださった個人注文の方々、新規/追加注文してくれたお店に向けて、Amazonよりも迅速に梱包&発送。
そして、郵便局へ。この何週間かで幾度、郵便局に通い、ゆうパックを出し、スマートレターやレターパックの封筒を購入しただろうか(笑)。
夜、アマゾンプライムでひさしぶりに『ゴースト・ドッグ』を観る。彼が撮った長編映画では『ゴースト・ドッグ』が一番好きだ。
ジャームッシュの映画って、賛否両論というより、絶賛か、あるいは無視、という評価になることが多い。とりわけ『ゴースト・ドッグ』を取り巻く空気感はそういう匂いが強い。*1
ジャームッシュの持ち味は〈オフビート〉とよく表現される。むりやり日本語にすれば「拍が抜けている」、つまり〈マヌケ〉と訳すとわかりやすい。
とりわけ『ゴースト・ドッグ』はオフビート=マヌケな映画だ。ゴースト・ドッグは正体不明の殺し屋で、プライバシーを徹底的に秘匿し、依頼人との連絡手段も逆探知や証拠が残ることを避けるために伝書鳩を使っている。
それなのに、いったんマフィアに命をつけ狙われるようになると、あっさりアジトの場所は割れてしまう。そして、愛する鳩の小屋もろとも徹底的に破壊される。
他にもある。友達のいない孤独な男という設定だったはずだが、街を歩けば、そのへんをたむろってる若い黒人たちから「YO、ゴースト・ドッグ。元気か?」なんて声をかけられる。この矛盾はどう理解するべきだろう?
ポスターやサントラCD、DVDのジャケットにもあしらわれている日本刀───ゴースト・ドッグのトレードマークのはずだが、トレーニングシーンでたった一度きり振りまわしただけ。常日頃の殺しの道具はサイレンサー付きの銃だ。相手を倒した後、銃をホルスターに戻す時、侍が刀を鞘に収めるような所作をするのだが、クールというより、子供がチャンバラ遊びをしているように見える。
そもそもゴースト・ドッグは、ある日、半グレみたいな連中にボコられてるところを、偶然通りかかったイタリアンマフィアの幹部に命を救われたのがきっかけで、自らを鍛え上げ、そのマフィアお抱えの殺し屋になった。いっぺん死んだつもりで、彼に支えることを決めたのだ。生と死の間で漂うように生きている、生きながら死んでいる───妖怪やモノノケのたぐいとしてゴースト・ドッグは存在している。
ゴースト・ドッグに親しく声をかけるゲットーの黒人たちも、激しい暴力、麻薬、貧困といった命の危険に常にさらされて、死の世界に片足を突っ込んでいる。つまり彼らもモノノケ仲間だ。妖怪でありながら、人間のために戦うゴースト・ドッグは、つまり墓場鬼太郎なのである。
2月3日(木) MY LIFE AS A GHOST DOG (2)
ゴースト・ドッグが鬼太郎なら、『ゴースト・ドッグ』のサントラを担当し、劇中にも一瞬だけ「謎の通行人(役名:Samurai In Camouflage)」として登場するウータン・クランの首領、RZAはさしずめねずみ男だろう。顔もそっくりだしね。
犯罪者のように身を隠して、ピックアップ・トラックの車内で出来たばかりのトラックをジャームッシュに聞かせるRZA。まるで『ゴースト・ドッグ』の一部のようなエピソードだ。
1993年にリリースしたファーストアルバム『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』でセンセーショナルなデビューを飾り、1997年に出したセカンド『Wu-Tang Forever』で全米1位に輝く。
しかし、ウータンの主要なメンバーはそれぞれソロとして人気になり、グループとしての求心力を『ゴースト・ドッグ』の頃には失っていた印象がある。なぜ、RZAが逃げ回るように暮らしていたのかはわからないけれど、タランティーノの『キル・ビル』のサントラ仕事といった、その後の彼の〈再生〉に大きな貢献をしたのはまちがいない。
ゴースト・ドッグと敵対するイタリアンマフィアのリーダーたちは歩くのもままならないような老人ばかりだ。したがって子分たちもみんないい歳である。中華料理店の厨房の奥にある薄汚いアジト(しかも家賃を滞納していて追い出される寸前)に集まり、日がな一日、フライシャー兄弟が手掛けた古いアニメ───ベティ・ブープやフェリックス・ザ・キャットをずっと観ている。どこからどう見ても、極道として時代遅れの存在になっていて、ゴースト・ドッグとの戦いは謂わば八つ当たりだった。
フェリックス・ザ・キャットやバッグス・バニーなど、アメリカのアニメの登場人物たちも、身なりは動物だが、人間の言葉をしゃべり、人間同様の文化的な暮らしをしている。つまり、妖怪やモノノケの西洋版だ。
かくもこのように、ツッコミどころは満載な作品なのに、観るたびに泣けてきてしかたない。ゴースト・ドッグの抱えている孤独感というものに、強いシンパシーを感じてしまうからだ。孤独というのは他者との関係のなかの孤独ではない。魂の置きどころの問題だ。孤独というより、孤立と言ったほうが正しいかもしれない。
死にゆくゴースト・ドッグがどこか幸せそうな顔を表情なのは、ようやく自分の居場所を定められた安堵感の現れだろう。人間社会からも妖怪社会からもアウトサイダー視される鬼太郎同様に、生者の世界からも死者の世界からもハミ出して、幽霊のようにふわふわと生きていたゴースト・ドッグ。彼にとって、名誉ある死は魂の救済にほかならない。
2月4日(金) Laugh at Me
最近観た映画の話をもう一本。
アマゾンプライムに上がっている『グッド・ヴァイブレーションズ』。
北アイルランドでは1960年代後半から宗教問題に端を発した対立が起きていた。やがてそれぞれの派閥のなかで、さらに分派が進み、たがいに血で血を洗うような抗争を繰り返していた。ぼくが子供の頃は、よくニュースで爆弾テロや銃撃戦のニュースが流れていた。マイアミ・ショーバンドのことも、虐殺事件のこともまったく知らなかったけれど、2年くらい前、ネットフリックスでこの事件を取り扱ったドキュメンタリー映画をたまたま見ていた。
虐殺事件の影響から、北アイルランドにやってくるバンドもいなくなった。爆弾テロや過激派の目を避けて、夜遊びする人も消えた。首都ベルファストの音楽シーンは壊滅的状況だった。DJとして活動していたテリー・フーリーは「俺がどげんかせんといかん!」と一念発起。銀行の融資を受けて〈爆弾ストリート(しょっちゅう爆弾テロが起きるから)〉のド真ん中にレコード店「GOOD VIBRATIONS」を開店する。
フーリーは1948年生まれで、開店時には30歳だった。彼のアイドルはザ・シャングリラス。Don't Trust Over Thirtyの時代において、立派なロックおじさんである。
ある日、ひとりのパンク少年がライブイヴェントのチラシを張ってくれないか、とやってくる。出演するのは地元のパンクバンド。興味本位でライブハウスに顔を出したフーリーは、稚拙ながらエネルギッシュな楽曲、観客たちの熱に感化されて、若いバンドを世に出すため、レーベル設立を決意する。
フーリーはレゲエも好きだった。政治や宗教といったシリアスなイシューを、あえて素朴に歌うレゲエと、北アイルランドのパンクスたちの音楽に、ある種の共通性を見出したのかもしれない。
いつまでたってもコドオジのフーリーと、第一子妊娠をきっかけに奥さんと一触即発になる、とか、理解の無い親との軋轢、とか、どこかで見たような展開はあるけれど、ぼく自身、ベルファストのパンクシーンにいっさい関心を向けたことがなかったので(劇中、永遠のパンク・クラシックとして紹介される「Teenage Kicks」さえ聴いたことなかった)、事実と照らし合わせて、あそこが違うとかここが違う、とか細かいところを気にせずに観られたのもよかった。
自分とこからリリースする新しい7インチシングルのジャケットを、フーリーが「ここの線に沿って、折り曲げて、こっちの紙をこう持ってきて……」と指示し、バンドメンバーや仲間たち総出で折るシーンが最高だったな。
赤字覚悟でぶち上げた巨大イヴェントで、主人公のフーリーが歌い上げるのが、ソニー&シェールの「Laugh at Me(俺を笑えよ)」。
劇中ラストに出てくるアルスターホールの記録映像が無料公開されてたので、興味ある方はぜひ。本物のテリー・フーリーも出てくる。
ベルファストのパンクシーンについて、より広い視野で紹介した記事がこちら。とても勉強になった。
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