THINK TWICE 20200719-0725
7月19日(日) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(SUNDAY)
昔むかし、ぼくが13歳の頃。
高橋幸宏さんのインタビューが目当てで購入した、雑誌『宝島』(1982年9月号)に「午後の最後の芝生」という短編小説が掲載されていました。
作家の名前は村上春樹。
見出しに〈宝島サマー・プレゼント 読み切り小説〉という文言が踊り、扉のイラストはHi-Dell Tsuchiyaこと土屋ヒデルさんが担当していました。
表紙のクレジットもジョン・ライドン→村上春樹→高橋幸宏という並びになっていて、少なくとも『宝島』の読者層には彼がすでに大変な人気作家だったことがわかります。*1
「午後の最後の芝生」は、書き手である現在の「僕」が、14、5年前に経験した芝刈りのアルバイトのときに経験した出来事を振り返る、回想形式で書かれています。
村上さんが妻と一緒に経営していた喫茶店「ピーターキャット」を他人に譲って、専業作家になったのはこの前年。村上さんは33歳で、1968年か69年頃の、つまり自分が『宝島』の読者と同じ年代───18歳か19歳を思い出す───というのが、この小説の基本構成です。
遠距離恋愛中の恋人との旅行資金を貯めるべく、アルバイトに精を出していた大学生の「僕」が、突然、彼女に振られたことがきっかけで労働にいっさいの価値を見いだせなくなり、仕事を辞めることを社長に告げます。
しかし、仕事ぶりが丁寧で、依頼先での評判も上々だった彼は引き止められて、一週間だけ勤務期間を伸ばします。そして最後の仕事に選んだ住宅の、女主人とささやかな心の交流があり、ビールとサンドイッチをご馳走され、芝刈りを終えてその家を後にする───ただこれだけの話です。
しかし、その物語は13歳になりたてのぼくの心をがっちりと捉えて離さず、それ以来、村上さんは作家として特別な存在でありつづけました。
7月20日(月) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(MONDAY)
お年玉や小遣いをなんとかやりくりしていたぼくにとって、レコードや月々発売される『宝島』のような雑誌、コミック本以外にお金を回すのはとても難しく、小説は母との外出のときにねだって買ってもらうか、図書館で借りるか、自分で買うときにはもっぱら文庫本で、ハードカバーを買うことはありませんでした。
当時、文庫化されていたのは、羊三部作をはじめ、「午後の最後の芝生」も収録された最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』、2冊目の短編集『カンガルー日和』でしたが、どれもページ数はさほど多くなかったので、値段も安くて、わりと躊躇なく買うことが出来たのです。*1
しかし、村上さんは4作目の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で本格的な長編作家に変貌しました。ハードカバーは必然的に分厚くなり、立派な函入で定価も高かかった(1,800円)。まだ高校に入学したてだったぼくにはおいそれと手が出るものではありませんでした。
次の『ノルウェイの森』が出たときは高校3年生でした。受験を半年後に控えた1987年の秋、街の本屋に行くと例のクリスマスカラーの上下巻が店頭に山と積まれていました。これは1冊1,000円でしたが、2冊買うと2,000円です。激しい性描写も話題になっていたので、とても欲しかったのだけど(笑)もちろん指をくわえて見ているだけでした。
1988年になってようやく『世界の終り〜』が、1991年に『ノルウェイ〜』も文庫化されました。その頃はすでに東京で新生活を始めていて、一人暮らし、大学の授業や課題、アルバイトやデートやコンサートやレコード屋通いや展覧会など、生で体験できるものにすっかり心を奪われており、ぼくの人生の中でもっとも本から距離が遠かった時期になっていました。
90年代に入ってから出た新刊小説『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』もお金を払って、自宅に持ち帰りたいという気持ちは起きずじまいでした。
7月21日(火) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(TUESDAY)
DJで全国を飛び回るようになった90年代の後半、年間50本以上のパーティをこなしていたため、ほとんどの週末が旅の生活でした。長距離移動が多くなり、必然的に本を読む機会が増えたのです。
特に理由は思い出せないのだけど、その頃からまた村上さんの本───特にエッセイ集を買うようになりました。大学に入って、彼の本を買わなくなってから、その時期までの約10年間で、10冊以上のエッセイや紀行本が出版されていました。旅先の古本屋などで持ってない文庫本を見つけると、それを買って(高くても300円を超えることはなかった)、帰りの飛行機や新幹線の中で読む───というパターンが定番化したのです。*1
特に衝撃を受けた一冊が、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』でした。これを東海道新幹線の車中で読んでるとき、涙が止まらなくなっただけでなく、嗚咽まではじめたので、一緒に移動していた友人がすごく動揺していたのを、今でも思い出します。そりゃそうですよね。さっきまで馬鹿話していた相手が急に泣き始めたら。
エッセイをほぼ読み尽くしたぼくは、読んでいなかった小説にも取り掛かりました。ちょうどその頃、ひさびさに新しい長編(『海辺のカフカ』)が発売されたので、それ以降は出たその日にハードカバーで新刊を買うという行為があたりまえの行事になったのです。
特に『海辺のカフカ』『アフターダーク』『1Q84』は、第二の黄金時代といってもいいくらいの傑作ぞろいだったし、世界中のどんな村上ファンよりも早く、しかも翻訳という言語的な皮膜無しで───つまり、本人の綴った言葉そのものを隅から隅まで味わい尽くせるということにも、大きな優越感を感じていました。
7月22日(水) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(WEDNESDAY)
村上さんの小説の主人公である「僕」たちは、おおむねどの作品も30歳前後に設定されていました。ぼくが村上さんの熱心な読者として"復活"したのは、ちょうど30代になったばかりの頃で、ティーンエイジャーだった自分にはサイズオーヴァーだった服が、その頃になると、まるで自分のために特注で仕立てられたように、村上さんが書く「僕」の姿を、身体や心にしっかりと重ねて読むことができました。
いまにして思うことだけど、それは作家と読者という関係性において、もっとも幸せな時期だったのです。
13歳で知った村上春樹という名前───それは純文学の作家というよりも、山下達郎や大滝詠一、あるいは角松敏生とか南佳孝とか山本達彦といった、ミュージシャンたちに似た響きを感じました。
ときおり雑誌などで見かける写真の印象も、線が細くて子供っぽい……いわゆるトッチャン坊やみたいだったし(笑)、作家というよりも椎名誠さんや糸井重里さんのようなエッセイストやコピーライター……当時主流の、文章が上手なお兄ちゃんという一群の中に、村上さんのことも親しみを込めて捉えていた気がします。*1
あの頃、テレビや雑誌に出ていた作家───五木寛之、松本清張、野坂昭如、遠藤周作、開高健……まあ、枚挙にいとまはないけれど、そういう流行作家たちと違って、村上さんは声すらずいぶん長いこと聞いたことがなかった。そういった意味では小説にしろ、エッセイにしろ、それが唯一の彼の"ヴォイス"を聞く方法だったのです。
声だけでなく、本のカヴァーの見返しに書かれたプロフィール以上の素性も知りませんでした。早稲田大学在学中に結婚し、生活のためにジャズ喫茶を経営し、神宮球場でヤクルトスワローズの試合を見ているときに小説を書こうと決意し、いったん英語で書いた小説を日本語に翻訳したこと───そういった作家デビュー前の〈伝説〉はずいぶん後になってから知りました。*2
7月23日(木) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(THURSDAY)
村上さんたち団塊の世代はいわゆるベビーブームの申し子で、突出して人口も多く、ひとクラスが50人、60人という状況も少なくありませんでした。
大学進学率も2割に満たないほどでしたので、ほとんどの若者は高校卒業後、「金の卵」ともてはやされ、働き手として社会に早々と吸収されていきました。大学に進んだら進んだで、学生運動が活発だった時代なので、学校に通おうともキャンパスはバリケードで封鎖され、授業もまともに受けられない状態です。
16日に出たばかりの雑誌『Number』に掲載されているインタビュー「走ること、書くこと、大きなヤカンについて」で、こんなことを語ってます。
村上さんの若い頃は、「僕」が「僕」のままで生きることに今では考えられないほどのエネルギーが必要でした。
若者たちは強大な社会権力と対峙するために、個ではなく、集団(セクト)で対抗し、そこに入らなければ「ノンポリ(ポリシーがない)」と叩かれます。
山下達郎さんも、いわゆる60年代後半から70年代初頭の〈政治の季節〉に、シュガーベイブのようなポップス指向の音楽をやることがどれほどパンクで、どれほど根性が必要だったか───という話をよく口にしますね。頭脳警察と対バンして、観客から瓶を投げられたエピソードなんか、ラジオで何度聴いたことか(笑)。
1969年生まれのぼくも、団塊の世代ほどではありませんが、クラスメイトが40人以上、ひと学年13クラス、14クラスあたりまえ、という学生時代を送りました。中学校に入れば、無条件に丸刈りを強いられましたし、軍服のような詰め襟を着て登校し、教師の号令でうさぎ跳びや組体操をし、体罰を当たり前のように受け入れていました。
いまにして思えば、村上さんの小説の「僕」は、それまでの自分が読んだどんな物語に出てくる「僕」よりも軽やかで、自由でした。それゆえ心惹かれるものがあったのだと思います。
7月24日(金) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(FRIDAY)
人間の自由にはさまざまなタイプの自由があり、さまざまな理由でそれは阻害されます。特に、縛られているのはお金で、それを稼ぐために捧げている時間やエネルギーは莫大なものがあります。しかし「午後の最後の芝生」の「僕」は生活のための労働……ではなく、好きな女性と計画した旅行のためだけに働いています。だからといって、仕事は一切手を抜かず、労働の意味が消滅すればあっさりとそれを放棄してしまう。
もちろんアキラ少年は「午後の最後の芝生」の中に出てくる、「やわらかいワギナ」の感触も、スリー・ドッグ・ナイトの「ママ・トールド・ミー」も、レモン抜きのウォッカ・トニックの味も知りません。
騙されることの苦しさも、誰かを騙すことの苦しさも、かけがえのない存在を永遠に失ったあとの埋めようのない喪失感もまだ知りません。
そして今、ぼくは芝を刈っていた「僕」の年齢はおろか、「午後の最後の芝生」を村上さんが書いた年齢も通過し、芝刈りを依頼した背の高い寡婦の年齢とちょうど同じくらいになってしまいました。
しかし、自分がいくつになって、何度この小説を読み直しても、ここに描かれている風景、特によみうりランド近くの丘の中腹にある、黄色いモルタル住宅の六十坪ほどの真夏の芝生はとても魅力的で、今でもそれは変わることがありません。
13歳のぼくが小説のなかで出会った、芝を刈る「僕」の軽やかで自立したイメージに対して強い憧憬の念を抱きながら、50代になった自分が(ある程度)自由な生活を営めていることに対して、村上さんの強い影響を感じずにはいられません。
だからきっと、ぼくは51歳になっても、13歳の心に戻って、村上春樹が書く「僕」の小説を求めてしまうのです。
7月25日(土) なぜ71歳の村上春樹は十代の「僕」の物語を書き続けるのだろうか(SATURDAY)
そんなわけで、今回の『一人称単数』も発売日当日に買い求めました。
『回転木馬のデッド・ヒート』のように、わざわざ前置きこそされていないけど、すべて事実に即したように見せかけた小説という体裁がとられており、エッセイ風の小説もあれば(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ヤクルト・スワローズ詩集」)、短歌というこれまでにない小道具が飛び出す「石のまくらに」や、『東京奇譚集』の「品川猿」の続編「品川猿の告白」など、一貫性がありつつも、バラエティに富んだ8つの短編が収録されています。
タイトルが物語るように、収められている作品はすべて一人称───17歳の「僕」、浪人生の「僕」、大学生の「僕」、30代の「僕」、50代の「僕」、60代の「僕」、そしておそらくは最近の「私」の視点、で書かれています。
そして、よくも悪くも「僕」や「私」の向こう側に、以前のどんな小説集よりも、はるかにくっきりと村上春樹その人の声や顔が浮かびあがってきます。
購入して、一日半くらいかけて読み終えたのですが、村上さんが書いた文章なら、たとえの説明書でもいいとさえ思っているくらい楽しく読む自信があるぼくが、それでもなお幾ばくかの物足りなさ、あるいは着心地の悪い服を一日中着ていたような違和感を読後に感じたことも否めません。
そしてこの「物足りなさ」「着心地の悪さ」というのは『一人称単数』にかぎったことではなく、2013年の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』あたりからはじまり、『女のいない男たち』『騎士団長殺し』などの近作ほぼすべてで感じてきた気がします。
簡単に言ってしまえば、村上さんが作家になってから40年という長い年月が過ぎ、さまざまなことをあまりにも上手く書けすぎてしまうのでしょうね。
それはたとえば、いわゆる名優と呼ばれる役者が、青年期からその死まで、人生の一代記をひとりで演じるようなお芝居ってあるじゃないですか。森光子の『放浪記』みたいな。それと似ている気がします。
17歳の「僕」が同級生の女の子と口づけを交わし、ブラジャーの上から胸を触るシーンを、70歳を過ぎた作家が描いていること。78歳のサー・ポール・マッカートニーもいまだにライヴで「When I'm 64」を歌い、同い年のブライアン・ウィルソンもぬいぐるみのような無表情で「Do You Wanna Dance?」と歌い、今でも客を大いに沸かせています。それとこれのどこが違うのかな、と思うのですが、やっぱり全然違いますよね。
ぼくが大好きな作家、コーマック・マッカーシー。1937年生まれなので、現在87歳。あまりに高齢になり、ここ数年、新作も途絶えていますが、コーエン兄弟の撮った映画『ノーカントリー』の原作として有名な『血と暴力の国』は、彼が今の村上さんと同じ71歳の時に執筆され、73歳のときに出版した『ザ・ロード』も大好きな小説です。人知を超えた絶対悪、自分が生存するために相手の生命さえ無情に奪いあう地獄のような世界など、優れた作家でなければ絶対に描き出せない作品に、彼は挑んできました。
村上さんに残された時間、文学的エネルギーをそういった根源的なテーマに向けてほしいと願うのは、贅沢な望みなんでしょうか。
これは「午後の最後の芝生」の冒頭の一文です。
デビューしたての青年作家、村上春樹が訴えている切実な実感や恥ずかしさ───積み重ねられた子猫たちのように生暖かく、不安定な「小説」というものを「商品」に変えることが、70歳を過ぎた今となっては、昔ほど恥ずかしくなくなってしまったのでしょうね。良くも悪くも。
そんな事を言いつつも、また新しい本が出れば、いそいそと書店に足を運ぶことになるのですが。
やれやれ。
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