[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] FDR in Trinidad(2)
FDRってどんな人?
FDRことフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、1933年3月14日に大統領に就任し、在任期間中だった1945年4月12日に亡くなるまで、連続4選を果たしている。4422日という在位日数はアメリカ大統領として最長。
これは今後、アメリカの憲法が修正されないかぎり、決して抜かれることのない記録である。そもそも、初代のジョージ・ワシントン以来、大統領職は最大2期までという慣例があった。ルーズベルト亡き後の1951年、憲法で正式に2期までと規定された。ルーズベルトだけ特例が許された理由はもちろん第二次世界大戦が理由だった。
1882年、資産家の息子としてニューヨークで生まれたFDRは、ハーバード大学とコロンビア大学で法律を学び、その後、民主党の政治家へ転身する。1911年に上院議員に初当選。1913年、海軍の事務次官に任命された。
とりわけ当時の最新兵器だった潜水艦や航空機の導入を推進し、アメリカ海軍の軍事力を強化した。
1920年に副大統領候補となるが、指名争いに敗れて、いったん政界を引退。その後、1929年にニューヨーク州知事としてカムバックする。映画『市民ケーン』のモデルになった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストらの支援を受け、1933年の大統領選に勝利した。
ルーズベルトはメッセージを国民に伝えるために、ラジオを効果的に活用した。世界恐慌に対して、彼が打ち出した経済政策「ニューディール」を浸透させるため、ルーズベルトはラジオ番組「炉辺談話」(Fireside Chat)を始める。
この番組では家族や友人同士が暖炉の火を囲みながら語らうような、気さくな雰囲気を演出したと言われている。政治家の演説がヒトラーのように観衆の前で口角泡を飛ばす時代から、マイクを通して語りかけるスタイルに変化したことは、ビング・クロスビーやルディ・ヴァリーのような歌手がクルーニングによって人気を博したことに通じる手法だ。
おおむね30分程度の「炉辺談話」は、1933年3月12日から1944年6月12日まで全30回放送された。ニューディールのような経済政策だけでなく、ヨーロッパ戦線の戦況や日本との開戦についても、ルーズベルトはこの番組を使って、アメリカ国民の耳に直接届けた。
かたやナチスもプロパガンダの道具として、ラジオに着目していた。宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスは全ラジオ局を掌握し、庶民にも購入しやすい安価な受信機「国民ラジオ」を普及した。
そして、ルーズベルトの「炉辺談話」よりわずかひと月前の1933年2月1日、ヒトラーの初めてのラジオ演説は放送された。当時のアメリカとドイツが大西洋を挟んで、電波上でも火花を散らしていたことがよく分かるエピソードだ。
ルーズベルトのトリニダード訪問の背景
歴代大統領の動静をまとめたアメリカ国務省歴史課のデータベースによれば、ルーズベルトは1936年11月30日から12月2日の間、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた「米州平和維持会議(Inter-American Conference for the Maintenance of Peace)」に出席している。これは「on a visit to Brazil and the Argentine」という「FDR in Trinidad」の歌詞と符合する。
11月末の感謝祭シーズンは、毎年、温泉療養をするのが、ルーズベルトの恒例行事だった。1921年にポリオ(ギラン・バレー症候群説もあり)を患い、下半身不随になったルーズベルトは、長年、車椅子生活を余儀なくされていた。しかし、南米との関係を強化し、汎アメリカ主義を浸透させることは、自分の健康問題よりはるかに優先すべき課題だった。
この南米への船旅は「グッド・ネイバー・クルーズ(Good Neighbor Cruise)」と銘打たれた。アルゼンチン以外に、トリニダード、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイをまわる約1ヶ月の長旅だった。
重巡洋艦インディアナポリスに乗り込んだ大統領一行は、11月17日にサウスカロライナ州チャールストンを出港。最初の寄港地に選ばれたのが、トリニダード島のポート・オブ・スペインだった。
グッド・ネイバー(=善き隣人)とは、同年8月14日にニューヨーク州シャトークアで行なった演説でルーズベルトが使ったフレーズである。
社会主義体制下で計画的な経済活動を行なっていたことから、ソビエトは世界恐慌の影響をあまり受けておらず、自由主義国は動向を注視していた。
かたや、植民地を持つ国々はブロック経済で不況を乗り切ろうとしていたが、第一次世界大戦に敗けたドイツは植民地を取り上げられていた。
ヒトラーは巻き返しを狙い、ヴェルサイユ条約を無視。虎視眈々と軍備を増強していた。だが、英米仏はその動きをあえて黙認する。いざという時に、ドイツをソ連のあて馬にしようと目論でいたからだ。
また、先ほどのルーズベルトの演説が行われた8月14日は〈ヒトラーのオリンピック〉と呼ばれたベルリンオリンピックの開催期間にあたる。アメリカは欧州の戦火が自分の庭に飛び火してくる前に、南米諸国との友好関係を強固にするためのアピールが不可欠だった。
先程の動静記録には、トリニダードに到着した日付(11月21日)だけが記録され、ポート・オブ・スペインから次の寄港地であるブラジルにいつ向かったのかは記載されていない。正式な訪問ではなく、燃料や食料補給が主な目的だとすれば、長くても2日間くらいの滞在だろう。帰国の際もふたたびポート・オブ・スペインに寄港したが(12月11日)、こちらも島を離れた日時の記述は無い。別の記録によれば、アメリカに一行が戻ったのは同月15日のこと。トリニダードに滞在したのはトータルで3日間か、4日間程度と推測できる。
もちろん、ポート・オブ・スペインが寄港地として選ばれたのは航海上の理由もあったはずだ。しかし、独立も果たしていない小さな植民地と超大国アメリカが〝善き隣人〟として手を取り合うことは、少なくともトリニダードの人々にとって、カリプソを作りたくなるほど自尊心が充たされる出来事だったのだろう。
世界に広げよう友だちの輪
もし、ヒトラーがヨーロッパを蹂躙したら、次の目標を南北アメリカに定めるはずだ、とアメリカ国民のほとんどが考えていた。
トリニダード・トバゴを含む西インド諸島、および南米諸国を〝善き隣人〟として抱きこんでおきたい理由がこの潜在意識にあった。
また、ルーズベルトのトリニダード訪問の前年には、トリニダードにとってもおだやかではない事件が起きていた。ドイツと同じく持たざる国だったイタリアがエチオピアに侵攻し、強引に併合してしまった。
特にアルゼンチン、ブラジル、チリにはイタリア系、ドイツ系の移民も多く、ルーズベルトが南米を訪問した頃に、ブラジルを統治していたジェトゥリオ・ヴァルガス大統領は、ヒトラーやムッソリーニと非常に近しく、ヴァルガス自身も独裁体制を築いていた。
フォードやGMなど、アメリカの自動車業界を代表する大企業も、この期に及んでまだドイツとの付き合いを続けていて(何しろナチスは軍備をせっせと増強していたので、不況のアメリカ国内よりも軍用車などが確実に売れていたからだ)、ナチズムやファシズムの影響が、国の内外から広がっていくことにアメリカ政府は神経を尖らせていた。
言うまでもなく、コロンブスによってサトウキビがカリブ海に持ち込まれて以来、トリニダードも三角貿易の拠点のひとつだった。20世紀初頭には商業ベースの原油生産が始まり、シェルなどの大手企業が島に進出していた。それぞれ産業として堅調だったが、利潤は欧米の企業が独占し、現地の人々に対して十分な還元がなかった。溜まり続けていた労働者の不満が爆発した結果、1937年に大規模なストライキが発生した。ブラック・パワー運動も世界的な広がりを見せており、カリブ海の国々や地域でも宗主国からの独立の機運は徐々に高まっていた。
しかし、トリニダードの人々もドイツやイタリアに蹂躙されることは避けたかった。ルーズベルトの来島後の1940年、駆逐艦50隻をイギリスに提供した見返りとして、トリニダード島の北西部にあるチャガラマスが99年間にわたってアメリカに貸与され、海軍基地が置かれることが決まった。
ルーズベルトは外交だけでなく、アメリカ国民がラテン・アメリカに対して抱いている差別意識、偏見の芽を取り除くことも、グッドネイバー政策の大事な課題だと考えていた。大統領とそのチームは一般の米国人の心を動かし、怠惰でうたぐり深く、野蛮だと描かれがちなラテンアメリカ人に対するネガティヴな固定観念を改めるように促す必要があることも理解していた。試行錯誤を重ねた想像力のツール……芸術とレジャーをとおしてその課題に着手した。
南米に対するアメリカ人のステレオタイプを変えると同時に、汎アメリカ主義を南米に拡げるにはどうすればいいか───プロパガンダの道具として選ばれたのが芸術とレジャーだった。つまり、エンターテインメントによってアメリカ国民の関心を南米に惹き、実際に南米やカリブ海を体験させることで親近感を持たせようという作戦だ。
ルーズベルトの勅命でこうした工作を指揮していたのが、石油長者のネルソン・ロックフェラー。ロックフェラーは枢軸国との戦争にアメリカが勝利したあかつきには、南米や西インド諸島がアメリカ製の商品のための大きな市場になるだろう、と踏んでいた。それを見越して、〝Good Neighbor Fleet〟と呼ばれるニューヨーク〜ブエノスアイレス間の航路を開き、旅客輸送だけでなく、貨物船も増やして物流力を増強した。
ロックフェラーは名門ホイットニー家の一員、ジョン・ヘイ・ホイットニーを映画部門の責任者に据えて、汎アメリカ的なメッセージを含んだ映画を作らせたり、撮影スタジオに働きかけて、ラテン・アメリカ系の人々をスタッフとして大量に雇用させた。
プロパガンダ映画の先鞭をつけたのが『ラテン・アメリカの旅』である。製作を担ったのは、あのウォルト・ディズニーだった。ディズニーの作るアニメーションは北米だけでなく、南米でも人気が高かった。彼はグッドネイバー政策に則った国策映画をこの時期に何本か作っている。1941年、『ラテン・アメリカ〜』を作るにあたって、総勢20名のクルーを同行し、ウォルトは南米各地を旅行する。そして、現地で撮影した実写とアニメーションを融合した。
当時のウォルトは政府からの依頼を拒めない事情を抱えていた。世界初の長編カラーアニメ『白雪姫』(1937年)で大ヒットを飛ばしたものの、アニメーターたちと賃金を巡って対立。また『白雪姫』以降に作った『ピノキオ』『ファンタジア』『バンビ』も興行的に失敗していた影響で、会社の資金繰りも悪化していた。苦境に陥っていた彼に救いの手を差し伸べたのが米国政府だったわけだ。ウォルトはこの提案に飛びつく。上映時間わずか43分というディズニー史上最短の長編アニメだったが、映画は大ヒット。アカデミー賞にも3部門でノミネートされ、1945年には続編の『三人の騎士』が製作された。
カリプソもこうしたグッドネイバーズ政策の追い風を受けたのだろうか。
ルーズベルトが先だってのトリニダード訪問をきっかけに、カリプソのファンになった……と、ウィルモス・フーディーニの「Calypso Way」(1945年)で触れられている
All Americans should understand
President Roosevelt is a calypso fan
When he visited the West Indies
He fell in love with the calypso melodies
すべてのアメリカ国民は知っておくべきだよ
ルーズベルトはカリプソファン
西インド諸島を訪れたときに
彼はカリプソのメロディと恋に落ちたのさ
アメリカ本土でのカリプソ受容の波は何度か起きている。その先鞭を切った歌手が、ウィルモス・フーディーニだった。1895年生まれの彼は地元のカーニヴァルバンドで歌い始め、不良の音楽とみなされていたカリプソに没頭。やがて、トリニダードからアメリカに渡った。初録音は1927年のビクター。その後、オッケーなどからも多数のレコードをリリースし、日本でも戦前に78回転盤が発売されている。
1934年、トリニダードでレコード店を経営していたエドゥアルド・デ・サ・ゴメスが、ブランズウィックに新しいカリプソのレコード制作を依頼。アッティラ・ザ・フンとロアリング・ライオンのふたりが渡米し、レコーディングに挑んだ。
ブランズウィックではすでにフーディーニの78回転盤を発売していたが、サ・ゴメスはアメリカ本土というより、カリブ海一帯をマーケットにしたレコードを作りたいと考えていた。それゆえ、長くアメリカで歌ってきたフーディーニではなく、本場のトリニダードで活躍している〝旬〟のカリプソニアンで……という狙いがあり、アッティラたちに白羽の矢を立てた。
このとき、ブランズウィック側でディレクターを務めたのが、のちにデッカを設立するジャック・キャップ。彼は仕事仲間であり、友人でもあったビング・クロスビーとルディ・ヴァリーを録音現場に招いていた。
とりわけヴァリーはふたりの歌を気に入り、自分がホストを務めていたラジオ番組「Fleischmann Hour」にライオンを出演させて、「Ugly Woman」を歌わせた。
そして、ニューヨークのウォルドルフ・アストリアで公演を行ない、ルーズベルトが彼らの歌を聞いたという。
アッティラとライオンはヴァリーの番組に出演した喜びを後日、こんな歌にした。
1934年のアメリカでの録音と公演、そして、1936年のルーズベルトの訪問をとおして、トリニダードにおけるルーズベルト人気の一端が醸成されたことは容易に想像できる。
その3へ続く