THINK TWICE 20201108-1114
11月7日(土)から11日(水)まで4泊5日というスケジュールで、東京および富士山〜富士吉田周辺に行ってきました。7日は午前発の便で13時に羽田、11日同時刻発着の飛行機で松山に戻ったから、実質は丸4日。
前回、東京に行ったのは去年の11月7日以来───つまり、まったくの偶然だけど、きっかり1年ぶりでした。昨年は群馬と下北沢でトークイヴェント2デイズ、シモキタ翌日に富士吉田へ日帰りで行って『富士日記』について取材、東京に戻って、新木場のスタジオコーストで小沢健二さんのライヴ───って、濃密すぎますね。
今回はGO TOキャンペーンを利用しての上京。富士吉田の取材(一泊二日)、そして映画『TENET』を池袋のグランドシネマサンシャインのフルサイズIMAXで観るというふたつの目的に絞り、なるたけ人にも会わないようにして、感染予防対策に最大限務めた次第です。
ということで、以下、旅日記です。写真はクリックすると少し大きいサイズに開きます。
11月7日(土) DAY1
松山空港はいつもの週末に比べれば、人出はかなり少ない。空港内のショップも閉まったままのところが多いし、地上職員たちの顔つきもどことなく気が抜けている。機内の混雑ぶりは約6割、いや7割程度。赤ちゃん連れのお母さんの姿が目立つのと、キャビン・アテンダントがかなり高齢のチームだったのが印象的。定刻よりずいぶん早く羽田空港に着陸。どこの会社も便数を減らしているせいで、誘導がスムーズなのかも。
ほんとうは羽田で友人と待ち合わせいて、空港内でいっしょに昼食を取るつもりだったけれど、ぼくが早く着いた一方で、友人のスケジュールが押したせいで、待ち合わせ場所を新宿に変更。
ひとり3階のレストランフロアの『アカシア』へ。新宿アルタ裏にある『アカシア』の本店は上京直後からの行きつけ。それこそ何万回食べに行ったかわからないが、羽田空港店は初めて。10人ほど座れるカウンターと小さなテーブルが数台しかない狭い店内。どこもかしこもアクリル板とビニールシートで個別に仕切られ、ペットショップの犬猫のケージみたい。運良くカウンターがひと席だけ空いていたので、待たずに座れる。20年来の定番、ロールキャベツシチューとオイル焼きのセットを注文。
カウンターにいるのはぼく以外、全員女性の二人組。食事もそこそこにおしゃべりに夢中。中にはアクリル板そっちのけで、身を乗り出すようにして話し込んでいる人たちもいる。ロールキャベツシチューは相変わらず美味しかったけど、昔は同じ値段でロールキャベツが2個入ってたんだよなあ。
京急線で品川に向かって、山手線に乗り換え。かなり車内は混んでいる。布マスクの人がひとりもいないのが松山とは違う。わが町では市中感染が少ない分、予防というよりもエチケットでマスクしているような人が多い。忘れてスーパーマーケットなどに行っても、白い目で見られるようなことも松山ならまず無い。
新宿駅南口で友人と落ち合う。どこかでお茶でも───と、いつ行ってもだいたい座れる駅ナカの小さな喫茶店に移動してみたけれど、何組が行列で待っている。ただでさえ「密」な店なので、席数を減らして営業しているのかもしれない。
宿泊先のすぐ近くに気になるコーヒースタンド(COUNTERPART COFFEE GALLERY)があったので、荷物を置きがてら、そこへ向かうことにする。
チェックインするとき、今回の旅費に見合った額面の、地域共通クーポンを渡される。合計6,000円分。有効期限は明日までとのこと。滞在期間のあいだに使えばいい、と、のんびり考えていたのだが、明日から富士山へ向かうので今日中に使い切らなくてはいけない。使いみちはいくつか思い当たるけど、その店でクーポンが使えるかどうか。急いで調べなきゃ。
そういえば、2週間ほど前に東京出張をした友人が、やはり数千円分のクーポンの使いみちに困って、ドラッグストアに飛び込んで、普段よりちょっといい美容液を買ったところ、肌にまったく合わず、顔をまっかっかに腫らしていたのは気の毒だったな。
入店する際、地元では経験の無かった手順があった。注文したコーヒーをテイクアウトにするか、店内で飲むかまず尋ねられる。テイクアウトと答えた客はそのまま注文を聞かれるが、店内と答えると非接触型の体温計で額を検温され、両掌にアルコールを吹き付けられる。で、ようやく注文を取ってくれる。愛媛でこんな対策を取っている飲食店は無いと思う。
日暮れどき、友人と新宿駅まで歩く。新宿中央公園をつっきって、都庁の前に出る。壁に掲示された大きなオリンピック・パラリンピックのエンブレムがなんとも虚しい。こんなことならサノケン案のほうが今回の五輪のどたばたを象徴していた。頭上を大きな旅客機が横切っていく。いわゆる羽田空港新ルートってやつだ。肉眼で見てもかなり近い。地上からでもこの迫力だから、副都心の高層階ならぶつかりそうに見えるだろう。この航路はオリンピックに対応した計画だったはずだが、この状況下であえてここを通す意味ってあるのかな。エンブレムと同様、五輪の負の残滓。
友人と別れて、新南口のモンベルへ。ここ2シーズンくらい買おうか迷っていたインナーダウンを、さっきもらったクーポンを使って購入した。明日からすぐ着られるし、荷物にならないから良いチョイスだったと思う。袖を通しても、全身が赤く腫れ上がったりもしないはずだ。
ディスクユニオン、北村写真館、紀伊國屋書店、タワーレコードなどを巡る。特にこれと言った探しものがあったわけではないが、昔からの習慣みたいなコース。休日にしてはどこも客数は少ない気がする。コロナウィルスのせいか、単に需要減のせいかはわからない(おそらくその両方)。
先程のコーヒースタンドとは打って変わって、どの店、どのビルに入るときも、入口のアルコールボトルに手を伸ばす人が少ないこと。いちいち手に吹きかけてるのはぼくくらいだ。毎回やっても肌が荒れるだけ、と思うが、布マスク派の多い松山では逆に、入店時のアルコール除菌は欠かせない。お店や周囲の客の目も厳しい。些細な違いだけど、興味深い。
末広亭近くの「桂花」で太肉麺を食べてホテルに戻る。カーテンを開けると、部屋からの夜景がまるでゴッサムシティみたいだった。
明日に備えて早く眠っておきたかったが、火曜に池袋で『TENET』を観るなら、日が変わるタイミングでネット予約しておかなきゃ。『鬼滅の刃』に押し出されて『TENET』のIMAX上映が1日1回に減らされているから良席の競争率が高くなっているのだ。大浴場でひと風呂浴びて、1時間ほど仮眠。アラームで起床。無事に希望する席を購入。午前2時半、あらためて就寝。
11月8日(日) DAY2
午前5時起床。夜明け前で外はまっくらだ。カーテンを開くと、暖房は切っていたのに、ガラス窓は結露でびっしょり。
6時前にチェックアウトして、大江戸線で新宿へ。昨年と同じく富士山に同行する鷲尾圭くん(信濃川あひる)と小田急線の車内で合流。彼を笑わせるつもりで松山から持参してきたマウスシールドを付けてたら、表情ひとつ変えずに「マジですか?」と、ひとこと。すぐさま外す。
千歳船橋駅で下車。写真家の阿部健くんと駅近くのファミマの前で合流。あひるくんとも阿部くんとも会うのは1年ぶり。しかし今年に入って、あまりに変則的な時間が流れたせいか、ふたりの顔を見てもそんなに間が空いたと思えない。
日帰りだった前回と違って、今回は富士吉田市内にホテルを取った。今回、旅費は往復の航空券+4泊分の宿泊料金で25,000円ほど。で、クーポンが6,000円ほど還元されているので、実質2万円を切っている。
中央道の流れはしごく順調。都内を出たときは快晴だったが、富士山に近づくにつれ、霧が濃くなる。紅葉のシーズンということもあり、早朝にもかかわらず、車はけっこう多いが、渋滞するほどではない。何台もの大型バイクがドリブルで出し抜こうとするバスケットボール選手のように、狭い車間を縫って走っていく。助手席のぼくはヒヤヒヤしていたが、阿部くんは慣れているのか、いっこうに気にする様子もない。談合坂でトイレ休憩。なんだったら朝ごはんでも───という話にしていたのだが、3人とも気が乗らず、コンビニで珈琲を買ったのみ。
河口湖ICを降りると、車やバイクはそれぞれの目的地へと散っていく。ぼくらが向かっているスバルライン方面に進む車はまったくいなくなってしまった。富士山に向かって真っすぐ伸びるスバルライン。紅葉で黄色くなった森を切り開くように車は進んでいく。
ぼくも阿部くんもあひるくんも富士山に登るのは初めて。3合目の樹海台駐車場に差し掛かったところで、驚くような光景が広がっていて、誰からともなく「車を停めよう」と声が出る。
林の向こう側は、本来、富士吉田市内が一望できるはずなのに、ぶあつい雲の下に隠れて見えない。いわゆる雲海だ。まだ富士山も序盤だというのに、シャッターを押す手が止まらない。あまりに興奮したせいと、風が予想以上に冷たく、おまけに強く吹くので、日が陰るととんでもない寒さだということ、そして差し迫った尿意のせいで、この駐車場のすぐ近くにあった富士の聖母像(百合子が花を伴って何度か訪れた場所。上巻に出てくる)見物をうっかり忘れてしまった。駐車場のトイレは凍結防止のため閉鎖されていたので、次の大沢駐車場で用を足す。
朝9時、目的地に設定していた奥庭に到着。『富士日記』には出てこないが、同じ駐車場からスバルラインを挟んで富士山側に、御庭という場所があって、百合子は泰淳と何度かそこに足を運んでいる。以前はそちらにも山小屋があったが、現在は廃墟。しかし奥庭側では茶屋が営業中なので、今回はそちらへ向かう。
奥庭は遊歩道も整備され、散策やバードウォッチングや富士山を撮影するにはもってこいの場所。標高は2,200メートル。西日本最高峰の山、石鎚山の高さ(1,982メートル)を超えている。あきらかに空気が薄いのがわかるし、最初に停まった樹海台よりもさらに数段寒い。駐車場から約300メートルほど下ると茶屋があるが、道はかなりの急坂だ。帰りに登ることを想像するだけで、ちょっと嫌な気持ちになる。
山荘へ続く道は車1台分くらいの広さがあり、両サイドには寒々とした針葉樹の林が広がっている。スバルラインのゲートあたりの道に生えている樹木はせいぜい3メートルほど。過酷な環境のせいで樹が大きく成長しないのだろうか。機械の配線のように複雑に入り組んだ無数の白い根っこが地面を這いまわり、羊歯や苔以外の草花はほとんど見えない。
5分ほどで食堂とお土産屋を兼ねた「奥庭荘」に到着。休憩処には350人も収容可能で、100人近く宿泊もできる立派な山小屋(これはさっき調べて知った)。オフシーズンなので、お客さんの姿もなく、まだ入り口のガラス扉も閉まっていて、スタッフの人たちが中でのんびりと開店準備をしているのが見える。
あまりに景色がいいので天狗が遊んだ庭という由来から天狗の庭(奥庭)といわれ、深山幽谷の地として朝は御来光を拝み、夕には夕日を眺めて優雅に暮らしていたといわれ、今でも天狗が山頂から岩を小脇に抱えて持ち帰り天に昇る時の台石としていたという「天狗岩」を祭っており、この岩を信仰すると道の守護猛獣怪奇の無難を願い男女の仲が開け夫婦円満になると里人は伝えている。
奥庭地域は大小の噴火口が多くみられますが、この奥庭は富士山最后の寄生火山跡地として代表的なものです。風雪に耐えた樹齢700年以上のカラマツ・コメヅカ・シラビソ等が矮正化して自然庭園化をなおしており展望のきく一地点に立つと植物群落の移り変わりのすべての過程が一望できる。特に野鳥・植物観察に最適の地域として知られる。
奥庭自然公園の由来「奥庭荘」HPより
山荘に向かって左手にある〈天狗の庭〉へ行くつもりが、看板の表示が曖昧だったため、うっかり建物の右手側にある険しい道のほうへと進んでしまった。駐車場からの道よりはるかに狭く、でこぼこした坂道が下っている。
庭どころか天狗の棲家に踏み込んだような薄暗い道を3人でしばらく歩く。雪かな、と思って近づくと、思ったより硬くざらざらした手触りの植物があった。苔? いったいなんだろう? もちろん植物園ではないので、なんの標識も立っていないので、正体は不明。
富士山からどんどん遠ざかり、開けた場所もまったく無さそうなので、引き返すことにする。山荘まで戻って、立て札を確かめ直し、今度こそ天狗の庭へ向かう。強烈な山風で樹木という樹木が幹や枝を捻じ曲げられ、ほとんどなぎ倒されたように生えている。その様子を見て、あひるくんは「ギャラリーに並べれば、ほとんどモダンアートですね」と言った。地面にはこぶしくらいの大きさの軽石がそこらじゅうに落ちている。硫黄らしきものが岩のあちこちに付着しているが、これも300年以上前に起きた最後の噴火(宝永大噴火)の痕跡だろうか。
そういえば最近、山中湖や富士スピードウェイにほど近い須走で、宝永大噴火によって埋没した村の痕跡が発掘された。
山荘に戻ると、すっかり商売の準備が整っていた。元気のいい60代くらいのお母さん、30代の若い奥さん、そしておじいちゃん、おばあちゃんの四人で切り盛りしていた。若奥さんには小学校低学年くらいの女の子と、まだ幼稚園にも行ってなさそうな小さな娘がお母さんにかまってほしくて、デニムスカートの裾にしがみついている。われわれが食事をしたいと言うと、お母さんはけんちん汁を熱心に勧めるが、阿部くんはきのこそば、あひるくんは力そば、ぼくは牛丼を注文する。ちょっと残念そうだった。2,500円の松茸定食、2,800円の天ぷらの付いた鰻重定食、気になる。
カウンター前に甘辛く煮付けたキクラゲ、しいたけ、花豆(そらまめのような形をした濃い紫色の大きな豆)などを盛った椀が置いてあり、袋詰めされたきのこも並べられている。試食して気に入ったら買っていけ、ということ。小皿に各自好きなだけ盛って食べていいらしい。特にキクラゲがおいしかった。街の中華屋の八宝菜に入っているのとはまったく別物。真っ黒で歯ごたえがヒゴヒゴしていて、噛んでいると心地いい。
阿部くんのきのこそば以外も、ぼくらが頼んだ料理にはどのみちきのこがてんこ盛りで入っていた。ぼくの牛丼にもきのこの入ったけんちん汁が付いていた。キクラゲをお土産に買いたかったが、松山に戻るまでの残り日数と道のりを考えて断念する。
食堂にテレビはなく、NHKラジオが大音量で流されていた。大統領選で勝利を確実にしたバイデンの演説を中継している。予定時間を過ぎても、なかなか主役が登場しないらしい。放送が間延びしないようにアナウンサーが必死で言葉を繋いでいた。富士山の中腹にある鄙びた山荘の食堂で、こういう世界的な出来事に耳を傾けているのは、映画の上映中にフィルムが切れて、まっしろな光だけが映るスクリーンを眺めているような気分。
ぼくらが食事をしているあいだ、山荘の前にある天狗岩の鳥居のあたりで神主姿の男性と山荘のおじいさんがせわしなく準備を整えていた。若奥さんに聞くと、年に一度ここで執り行っている祭礼とのこと。なんとも貴重な日に巡り合ったものだ。三方の上にはお神酒(甲斐の開運 富士山の湧水仕込み)、林檎とみかん各3個、鯵の干物2匹、キャベツ1個、人参3本、かぼちゃ1個、そして野菜の上に袋のままの昆布が神饌として供えられていた。
さっきより青空が広がってきたので、奥庭をもうひと回りし、各自写真を少し撮り足したあと、駐車場までの急坂を登りかえした。機材を多めに担いでいる阿部くんだけでなく、軽装のぼくとあひるくんもあっという間に酸欠気味になって、意識が朦朧とする。やっとのことで車にたどり着いてもなかなか呼吸は整わない。「四合目の駐車場までの道でこれなんだから、山頂まで登るのは不可能だと思うな」とぼくが口に出すと、ふたりも同調する。
せっかくここまで来たのだから、と一応、五合目まで登ってみた。広々とした駐車場には関東近郊だけでなく、大阪や九州のナンバーをつけた車も停まっている。ヨーロッパの山小屋に見立てた大きな土産屋から、やや時代遅れの店まで、ちょうど松竹梅のような感じで三軒並んでいる。どこもそれなりに人は入っている。全部の店に検温や手のアルコール除菌をして、わざわざ入ってみたが、商品を買うどころか、手に取る気もおきなかった。店の外に出ると阿部くんが富士山の湧水で淹れたというコーヒーを買って飲んでいた。冨士山小御嶽神社には参拝せず。30分ほどで下山する。
次の目的地は武田山荘の跡地。去年に続いて2回目の訪問。建物自体は花さんの意思で10年以上前にとり壊されてしまって、跡形も残ってないが、敷地はそのまま借りられることなく放置されている。地元の職人たちに依頼して作らせた溶岩積みの石垣、門柱のあとなどもそのまま残っている。
現在、富士桜高原別荘地は第15次分譲まで進んでいて、百合子の山荘は第2次分譲地にあった。別荘を建てると富士レイクサイドカントリー倶楽部の会員権が付いてきたので、ゴルフ場や富士山に近いエリアのほうにニーズが高かったはずだ。泰淳と百合子はゴルフにまったく興味がなかったので、会員権を放棄していた(会費を払わなかった)。周囲の人からもったいない、と言われるシーンが『富士日記』に出てくる。今は東京からのアクセスがよく、町に近いエリアが好まれているので、わざわざ古い分譲地を選ぶ人が少ないのだと思う。
去年は日暮れ間際に到着したので、別荘の場所を突き止めたあとも、あまり長居しなかった。いや、厳密に言えば、なんとなくその場の雰囲気に気圧されて、長居する気が起きなかったのだ。その反省もあって、今回は山荘周辺にできるかぎりゆっくり滞在し、百合子たちが通ったであろう近所の道を散策しながら、武田一家の過ごした時間を追体験したいと考えていた───。
この"聖地巡礼"については、いずれまとめて書くので、ここでは割愛。
河口湖方面にしばらく車を走らせ、もうひとつの"聖地"に向かう。『富士日記』読者なら誰も一度は訪れてみたいと考えるだろう、例のガソリンスタンドだ。昨年、給油ついでにおじゃましたときもおじさんの娘さんたちに大歓迎していただき、武田山荘とは対称的に小一時間も滞在することになった。
じつはそのとき、ぼくは娘さんたちにある約束をした。昔、山梨放送で放送された『1億人の富士山』という番組で、作家の村松友視さんが『富士日記』ゆかりの場所を訪ね歩いたのだが、もちろんこのスタンドも登場する。まだお元気だった〈おじさん〉と娘さんたちのインタビューもあって、同録を持っていらっしゃらないということだったから、ぼくが保存していた番組データをDVDに焼き、プレゼントすると約束していたのだ。ほんとうは今年のゴールデンウィークあたりに再訪するつもりで準備していたのだが、ようやく半年遅れで念願を果たせた。
ぼくたちのことはよく覚えていらっしゃらなかったのだが、相変わらず熱烈に歓待してくれて、DVDの御礼と言って、お煎餅やらプリンやらペットボトルのお茶やらを大量にいただく。百合子が給油にいって、おでんやアイスクリームやらを持たされる───例のアレの令和版だ。
山荘の前に、どのへんを回ってきたのか、と娘さんに聞かれたので、四合目の奥庭へ行ってきた、とぼくは答えた。天狗の岩にお供えものがしてあって、神主さんが祈祷をしていた、と話すと、そんな行事は今までに聞いたことがない、それは大変貴重な体験をした、きっとご利益がある、と娘さんは言った。そして、別の誰かがスタンドの休憩所に来るたび、ぼくらを指差して、この人たちは百合子さんの《富士山日記》(娘さんはこう言っていた)の大ファンで、奥庭に行ったら天狗の岩でご祈祷をやっていたそうだ、あんたはそんな行事があることを知っているか、とたずねて、たずねられた全員が「知らない」と答えた。そしてまたDVDの話をして、話が終わるたびに煎餅の袋をぼくらに持たせようとするのだった。
車の中から振り返ると、娘さんたちをはじめ、そこに居合わせた人たち全員が横一列に並び、ぼくたちに向かって手を振っていた。お客さんまで手を振っていた。ちょっと泣きそうになる。
河口湖周辺は紅葉にちなんだイヴェントをあちこちでやっていて、車は思うように進まなかった。なんとか北畔まで辿り着き、やはり行列ができていたパン屋に車を停めて、夜食になりそうなものを各自購入。
そのあと青木ヶ原樹海を抜けて、西湖へ。紅葉目当ての客が押し寄せていた河口湖の周辺と打って変わって、このあたりはまるでひと気がない。『富士日記』でも昭和39年7月23日の日記に「五湖の中では西湖が一番静かだといっていた(河口のガソリンスタンドの話)」と書いてあるが、今も昔も変わらないようだ。
同じ日の日記に、花が西湖で遊泳を試みるも水が冷たくてすぐに岸へ上がってしまう記述もあった。現在は湖畔に看板が立っていて、正式に遊泳は禁止されていた。富士山からの伏流水が流れ込んでいるので、夏でも水温が低いのだ。猛暑だった今年7月でも水温は22〜23度。一般的なプールが26度以上に設定されているそうなので、ちょっと冷たすぎる。ちなみにこの日の水温は11度。
客は私たちのほか誰もいない。主人がボートを頼むと、西湖荘の主人がオールとオールの金具を家の中から持ち出してきて、ボート置場までついてくる。西湖荘のボートはどれも雨水が一杯溜っているので、主人と西湖荘のおじさんが二人でひっくり返して水をあけ、捨ててあった週刊誌を敷いて腰かけることにする。おじさんは「一時間より、もっとずっと乗っていてもいい」と言う。風波が立っている。まんなかへんまで漕ぎ出る。湖のまわりの道をダンプや生コンの車が走っている。ぴかぴかに磨きたてた赤い消防車が走って行く。ボート一時間二百円。(昭和42年10月12日)
3時半を過ぎ、撮影には光量が物足りなくなってきたこと、また河口湖周辺の道路の混雑を見越して、この日の遊覧は切り上げる。予約していた富士山駅前のビジネスホテルへ向かう。
昨年は月江寺駅に車を置き、街を散策したのだが、富士山駅までは足を伸ばさなかった。駅舎は地上6階建ての立派なショッピングビル(キュースタ)になっていて、もともとはイトーヨーカドーだったらしい。線路がここから先、伸びていないので一見、終点のようだが、Y字型の線路でスイッチバックし、終点の河口湖駅まで電車(河口湖線)は伸びている。
ホテルの部屋で荷解きをしていたら夕焼けが見えたので、カメラをつかんで駅まで猛ダッシュする。北斎の赤富士のように高く盛り上がった真っ赤な雲。横には本物の富士山。
夕飯は歩いて15分程のところにある『カレーと地酒の店 糸力』に出かけた。昨年、昼ごはんを食べに行ったが、定休日じゃないのになぜか閉まっていて空振りした店。今回はわざわざ予約して行ったが、ぼくら以外にカップルが一組いるだけだった。
壁には鶏唐揚やアジフライや刺し身といった居酒屋の定番メニューと、30種類以上の日本酒の銘柄が張り出されている。しかし、なんと言っても異質なのはテーブルに置かれたカレーのメニューだ。
〈表面〉
ココナツカレー(やや辛)糸井重里 お奨め
キーマカレー(辛口)当店 お奨め
インドカレー(辛口)
ビーフカレー(甘口)
〈裏面〉
カシミールカレー(大辛)
マドラスカレー(辛口)おやじ お奨め
マトンカレー(辛口)笑点司会 春風亭昇太 お奨め
最後のマトンカレーは「当分の間お休み致します」と紙が貼ってある。
25年ほど前の話だが、ブラックバス釣りの帰り道、山梨の温泉施設で提供されていた糸力のカレーを気に入って、冷凍ルーを取り寄せていた糸井さんは、より本物の味に近いレトルト化を思いつく。『通販生活』に声をかけ、商品開発し、ビーフ、インド、ココナツの3種類を販売した。ところが、のちの腹巻きや手帳のように爆発的ヒットとはいかず、むしろ大不評だった。
詳しい顛末はここに書いてある。今では自分が開発した「カレーの恩返し」というスパイスミックスやレトルトカレーをほぼ日で販売している。しっかりと、きっちりと《失敗》を物語化するあたりはさすがだ。
ぼくはココナツ、阿部くんはマドラス、あひるくんはキーマをそれぞれ注文。ひとくち食べてすぐに分かったけれど、今ではすっかり市民権を得た、いわゆるスパイスカレーの走り、だったんだと思う。20世紀の終わりには、まだこの手のカレーは馴染みが無く、シャバシャバのルーと剥き出しのスパイス感に日本人の舌が追いついていなかったのだ。それが今となっては、もっとスパイシーでソリッドなスパイスカレーが巷にあふれているので、糸力のカレーはそれと比較して、ややマイルドな味に感じてしまう。時代を一歩、いや、三歩くらい早いと得てしてこういう結果になる。
とはいえ、ぼくらは糸力が気に入らなかったかというとそうではなく、むしろ大変気に入ったのだ。日本酒を30種類もラインアップしているのに、山梨の地酒は1種類も置いてないところもよかったし、芋焼酎(鹿児島の「なかむら」)がめっぽう美味しくて、お湯割りやソーダ割りで何杯も飲んだ。
昼間は平野だと20度近かった富士吉田も帰り道は10度以下(正確には7.5度)と寒暖差が激しい。でも知らない街を友だちと歩くのは楽しいものだ。キュースタを目印に適当な道を歩いているうち、違う道から駅前を通りかかった。日曜日の夜9時過ぎだというのに、まだ一軒の喫茶店が煌々と灯りをつけている。
前まで行くと、中から楽しそうな話し声が聞こえてくる。カラオケの音が聞こえないので、スナックではなさそうだ。3人でしばし様子を伺っていたのだが、せっかくなので入店してみることに。
店名は『ププリエ』。60代とおぼしき老婦人がひとりでやっているお店だった。カウンターに店主と同年代の女性がいて、黒い大きなビニール皮のかばんを斜めがけにしたまま、悠然と煙草を吸っていた。そして、30代くらいの似たような太りの男女が座っている。ぼくたちも狭いテーブル席にまとまって座った。
店主が「〇〇ちゃん(客のおばあさんのこと)良かったね。今夜は△△くんが車で家まで送ってくれるってよ」と話しかけていたので、3人はグループのようだが、どういう知り合いなのかはまったくわからない。ただ、小太りの女性がぼくたちのこともやたら気を配ってくれて、コップやおしぼり、珈琲をテーブルまで甲斐甲斐しく配膳してくれたので、接客に関係した仕事をしているのかな、と想像した。
店の隅に置かれたテレビから、Eテレの『クラシック音楽館』がけっこうな音量で流されていた。2020年9月に高崎のコンサートホールで有観客で収録された、高関健の指揮、群馬交響楽団が演奏するベートーベンの「英雄」と、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」から「終曲」。女主人はときどき手を休めて、画面に見入っている。カウンター奥の棚には、アナログレコードが100枚以上ストックしてあった。音楽好きの旦那さんがこの店やレコードを遺して先に亡くなり、奥さんがひとりでここを守っているのかもしれない。
ちなみに『ププリエ』という耳慣れない店名はフランス語でポプラという意味。河口湖周辺を走っているとき、ポプラ並木をよく見かけた。この地で長く根付いている喫茶店の名前としてぴったりだ。午後10時に退店し、部屋に戻る。頭を斧でかち割られたような速度で就寝。
11月9日(月) DAY3
朝7時半、起床。カーテンを開くと、外はまずまず晴れている。昨日、河口湖畔のパン屋で買ったピザパンとスタンドでいただいたプリン、緑茶で朝食。朝9時にロビー集合。あひるくんはホテルの無料朝食をちゃんと食べ、阿部くんも駅周辺を少し散策したそう。都内組、元気。
昨日の『ププリエ』帰りに目をつけていた別の喫茶店『みつい』へ行く。石油ストーブがもう焚かれていた。手書きのメニューは日本語、英語のバイリンガル表記。トースト、ナポリタン、ドリアにポテトグラタン、カレーにカツライス。モーニングは700円、ランチはホットコーヒーが付いて900円。ぼくはブレンド、阿部くんとあひるくんはモーニング。都内組、元気。
2日目は本栖湖方面に行くことだけ決めていたのだけれど、富士吉田の街をブラブラしてみたい、という阿部くんのリクエストで、午前中は三人三様で動くことにした。
阿部くんとあひるくんは昨日夜ご飯を食べに行った『糸力』のある北側へ、ぼくは百合子が初詣に出かけていた北口本宮冨士淺間神社を仮の目的地として、逆に富士山側へ歩いてみることにした。
───と、その前に目の前にある富士山駅の駅ビルが気になった。富士山の真正面に建っているくらいだから、展望台が無いわけない、と予想した。入口横の案内板を見てみると、6階建てのビルの屋上に展望デッキがあった。開店時間より前だったが、屋上までエレベーターは動いているみたいなので、さっそく上がってみた。
雲はやや引っかかってるけれど、なかなかの光景。二人にも声をかければよかったな、と思ったが、まあ仕方ない。
キュースタを出て、金鳥居のある国道139号線まで出る。ここから約2キロほど、富士山に向かってゆるやかな坂道───いわゆる富士みちを上がっていくと目指す神社があるはず。道の左右には酒屋、和菓子屋、洋品店、ふとん屋が並ぶ。中にはきっと百合子たちが立ち寄ったことある店もあるだろう。かつては御師と呼ばれる富士山の案内人たちの家が道沿いにあり、山に登る人たちが水で身を清めたり、宿泊できる施設があったことを、何年か前、ブラタモリが紹介していたことを思い出した。
日差しが強くなってきたので、右の歩道から左の歩道へ渡った……その瞬間、鐘の音が聞こえ、正面から消防車両の隊列がやってきた。「本日、11月9日から秋の火災予防週間です。『その火事を防ぐあなたに金メダル』をキャッチフレーズに───」と、スピーカーから女性のアナウンス。車列のスピードは遅かったが、車間が狭くて、渡り直すこともできない。もうあと30秒ほど右側にいたら、富士山と消防車をもっといい画角で収められたのにな。
国道と横町バイパスがぶつかるT字路を左折。この先は山中湖に通じているはずだ。交通量がずいぶん多く、大型のトラックやダンプなどがひっきりなしに走っている。1963年に開業したという旧・上吉田郵便局の前を通って、5分ほど歩くと、神社の入口に到着。薄暗い参道を200メートルほど行くと、大きな鳥居が目に入る。日本一、と神社が謳っている大鳥居だ。三島由紀夫の『豊饒の海』のなかに主人公たちがこの参道を歩く場面もあった。百合子らがここに参詣したシーンも『富士日記』に出てくる。
吉田の浅間神社へ。大鳥居をくぐった少し上で、パトカーが交通整理をしている。坂の下りを五台が玉つき追突している事故。
浅間神社の境内には雪がそのまま残り、小暗い参道を白装束の富士講が七、八人帰ってくる。鈴の音がひびく。御札所に人がいなかったので左の詰所に行く。神主さんは一升瓶を二本しばった奉納のお酒をぶら下げて、札所まできてくれ、お札を売ってくれる。あれこれと考えて、交通安全百円、お守り札三十円。花子、自分のお財布からお金を出そうとして、なかなか財布のロがあかない。神主さんもわれわれも待っている。やっとチャックがあけられてお金を出し、自分のお札を頂く。神主さんは白い袖の手をのばして「いい子だなあ。いい子だなあ」と言って花子の頭を無でた。(昭和41年1月3日)
いちばん大きな東本宮は武田信玄が建立したもの。江戸時代には吉田口の起点として栄え、かつては神社周辺に宿坊が100軒以上も立ち並んでいた。その名残は今は無く、神社正面にあるのは芝刈り機や発電機を扱っている古い農機具屋である。
浅問神社には、コノハナサクヤヒメが祀られている。イワナガヒメは祀られていないが、溶岩地帯を歩いていると、彼女も存在しているような気がする。コノハナさんは、安産と、火の女神だそうである。富士山がもし噴火爆発したら、この姉妹のどっちの怒りだろうか。(武田泰淳「富士での生活」)
泰淳が1971年に発表した随筆「富士の生活」の冒頭でも触れているが、ここのご祭神は木花開耶姫命(このやさくやひめ)と夫の彦火瓊瓊杵命、そして父親の大山祇神。そのため恋愛に効くパワースポットと現地では喧伝されているようだったが、ぼくが参拝したとき、境内を歩いていたのは年寄りか、家族連ればかりだった。また、夏になると、百合子たちがたびたび足を運んだ「吉田の火祭り」も毎年8月26日と27日に行われている。
主人留守番するというので、花子と二人、晩ごはん後、吉田の火祭りを見に下る。七時半ごろ、河口湖駅前の原っぱに車を置いて、山麓電車に乗って吉田へ。セーターを着ていると、大たいまつの火に焙られて暑い。どの家も道に面した硝子戸や障子を開け放って、奥の奥の方までみえる。座敷にはビールが並んで、おさしみや南京豆やのしいかを食べながら、にこにこしたり、死にそうに真赤に酔払ってしまったりしている。どこの家にも必ずおさしみがある。綿菓子とぶどうを買う。
十時半の電車で帰る。大たいまつの火の燃える坂道を歩いていたら、管理所の若い男の子が声をかけてきた。男の子は女の子を連れていた。電車に乗ると、着物をきた女の人がおじぎをして笑っている。いつもビールなど買いに行く食料品屋の娘だった。(昭和39年8月26日)
百合子が山麓電車と書いているのは富士山麓電気鉄道……つまり現在の富士急行。到着したのはかつての富士吉田駅……すなわちキュースタのある富士山駅のことだ。
神様に手を合わせたあと、お守りを買う。恋愛成就───ではなく、厄除け開運のもの。ふりかえると小さな子どもたちが、保母さんに手を引かれ、カルガモのようになって散歩している。近所にある保育園から来たのだろう。時々こちらも足を止めて、いろんな場所を撮影しつつ歩いていると、よちよち歩く彼らの歩調と妙に合ってしまい、子どもたちをつき纏うような感じになったせいで、保母さんからあからさまに警戒の目を向けられた。
集合時間ぎりぎりになりそうだったので、あひるくんと阿部くんにメールをして、事前に決めていた11時半から15分ほど遅らせてもらう。ふたりから快諾の返信すぐくる。
違う道で戻ろうと、グーグルマップで調べてみる。もう一本、東側の通りがおもしろそうだ。現在の上吉田郵便局のある角から道を折れるとすぐに、西光寺という大きなお寺がある。外壁に園児募集のポスターが貼ってあったので、さっきいたのはここの子どもたちだろう。表通りに面した部分から母屋までのストロークがおそろしく長い建物が多いことに気づく。この道沿いにもかつては宿坊など、御師たちが旅人を迎えるための施設が立ち並んでいたはずだ。しかし、こういう土地は再活用しようとすると導線の確保が難しい。半分に分割して使うわけにいかないから、土地の形状とニーズが合致した宗教関連の施設(バプテスト教会、神社、墓地)がやたら多くなったのだろう。透明な糸でできた繭が街をすっぽりと覆っているような、しかしそれはさし迫ったヒリヒリとした感じではなく、どこか間が抜けたような、かゆみに近い何か、だ。
11時45分にホテルの駐車場で阿部くんとあひるくんと合流。すかいらーく系列の東京にもお店がたくさんある回転寿司『魚屋路』で昼食。握りランチに加えて、あひるくんだけ税抜420円もする〈島根県産・天然真ふぐの握り〉を別注。
すっかり正午ごえしてしまったので、温泉(富士眺望の湯ゆらり)に行くのはあきらめ、西湖の南側にある紅葉台レストハウス展望台へ向かう。『富士日記』にも紅葉台を訪れた時の様子が何度か書かれている。
紅葉台へ車で登った。すごい急でこわいぐらいだ。カーブがはげしい。母はあとで「きもをひやした」といっていた。頂上までは車ではいけず、途中まで乗っていった。途中から歩いてどんどんのぼった。ほかに人はあまりいなかった。母はカーシューズなので、すべってなかなかのぼれない。父はあとからゆっくりのぼってくる。やっと頂上についた。左に西湖、右に富士山、そして富士山は、はじからはじまで不思ぎなぐらいによく見える。西湖はとても細長い。父は「筆で書いたようだ」と言っていた。富士山には右の方に三つのこぶがあり、あたまには大きな白い帽子、足は見えず、ペタンとすわった人のようだ。なんとなくそう考えると、かわいい感じがする。下の方に飛行場がある。すごく小さい。また紅葉台へ行きたい。こんどはきょう登ったとなりの山まで行ってみたい。(-花書く- 昭和41年10月25日)
紅葉見物に、コンビーフ入りサンドイッチを作って、紅茶を水筒に入れ、十一時半ごろ出かける。大岡さんの家へ誘いに行くと、雨戸が閉まっていた。
道ばたの野菜売りは、大根、やまいもを売るようになった。
紅葉台のふもとに車をとめ、登る。この前きたときより、店が何軒もふえている。木で作ったサルの人形をどこの店でも売っている。登り坂も道幅をひろげた。展望台から西湖をみる。湖水はもとの通りに濃く澄んでいる。ただ、根場村の、ひな壇のように浜から山の中腹まできれいに並んでいた茅葺屋根や、コバルト色のトタン屋根の農家は、すっかりこそぎ落されて何もない。赤土になっている。みんな湖水に流されてしまったらしい。学校とユースホステルと魚眠荘が残っている。樹海は、ところどころ赤く紅葉している。(昭和41年10月25日)
ぼくたちは麓の駐車場には目もくれず、展望台まで車で上がることにした。軽装の人たちは車と同じ舗装された道を、トレッキングシューズを履き、ストックを持った人たちは道の途中にある分岐で曲がって、でこぼこした山道へと進んでいく。このあたりは東海自然歩道(東京〜大阪間を1都2府8県にまたがる全長1,697km の自然歩道)の一部で、有名なトレッキングスポットだ。
百合子が「きもをひやした」と言っていた登山道はすれちがうのもやっとで、ちょっとタイヤを踏み外せば崖の下、というなかなか過酷な道だった。これでも道幅は広げられたということなので、元の道はどれだけ険しかったのだろう。ひやひやしながら10分ほどで頂上に到着。道幅とほとんど同じくらいある車幅の自衛隊のトラックが広場に停まっていた。
1階の受付で、顔全体を覆うタイプのフェイスガードをつけたおばあさんに200円払うと、手描きの見取り図が貼られたダンボールが貸し出され、それを持って屋上の展望台に上がるように言われた。地図をあひるくんに手渡している受付のおばあさんの手元にカメラを向けたら「風景以外のものを撮らないで! 建物のあちらこちら傷んでるところも撮影されたら困る」とものすごい剣幕で怒られた(もちろん建物はこっそり撮った)。
展望台に出る。悪名高き青木ヶ原樹海は富士山の右側にある大室山から西湖のあいだに広がっている森を指す───ことを『ブラタモリ』で見て知っていた。それだけでも途方も無い広さだが、360度見渡すかぎり青木ヶ原樹海とまったく区別のつかない広大な森になっていて、あらゆる場所を赤や黄色、赤みがかった濃緑色の背の高い針葉樹で覆い尽くしている。富士山はあいにく五合目辺りまで雲で隠れていた。じっと観察していても雲は微動だにしない。奇跡を信じて、ぼくたちも展望台から動かない。風はやや冷たいが震えるほどではない。ここにきて『富士日記』を持ってこなかったことを後悔した。建物や道路が変わっても、富士山や樹海は昭和40年代からそう大きく変わっていないはずだから。今、ぼくの眼前にあるこの風景を、百合子がどう日記の中に活写したか、ここに座って読むことが出来たら、どんなに楽しかっただろう。阿部くんは持ってきているカメラ数台を使い分けながら、時々シャッターを押している。あひるくんはほとんど景色を見ずに、スマホで何か打っている。それでもぼくたちは小一時間、展望台にとどまった。山裾を眺め、文字どおり海原のように広がる樹海を見ていると、日本でいちばん巨大な山が隠れているとはまったく思えない。コロナウィルスも大統領選挙も、芸能人の不倫もプレイステーション5も、ぼくがここに座っているかぎり、自分とそれらを繋ぐ線はぷっつりと切られたままだ。14時まで粘ったけれど、状況はいっさい好転せず諦めて下山。麓の駐車場で小休止する。
駐車場の目の前にある、古ぼけた食堂兼土産物屋でミネラルウォーターを買う。厨房で静かにうどんを茹でていたぼくと同世代くらいの主人が調理の手を止めて会計してくれる。客の姿が見えなかったので、まかないでも作っているのかと思ったら、広いホールの隅に黄色いウィンドブレーカーを着た青年がひとりぽつんと座っていた。土産を物色していると展望台で買ったばかりのキーホルダーが50円安くて悔しくなる。
店を出ると、あひるくんは相変わらず神妙な顔つきをして、車のそばでスマホを覗き込んでいる。かたや阿部くんの姿は食堂の隣りにある乗馬クラブにあった。
看板に「紅葉台木曽馬牧場」と書いてある。たまたまステイホーム期間中に、蒲池明弘という歴史ライターが書いた『「馬」が動かした日本史』という新書を友人から強力に薦められて読んだばかり。ここ山梨も有名な馬産地だ。聖徳太子が各国から献上された馬のなかから「甲斐の黒駒」を〈神から授かった馬〉としてえらび、それにまたがって富士山をとび越えた、なんていう伝説も残っている。木曽馬というのはその名のとおり、隣の長野県に由来する馬で、本州に唯一のこる在来馬だ。平安時代、朝廷の命によって作られた牧場(勅旨牧)の数は長野が16、山梨が3。牧場といってもかんたんな水飲み場だけがつくられた仕切りもない自然の牧草地で、半野生の馬がそこに放し飼いされていた。労働力や武力として馬が必要になったとき、飼部(みまかい)によって出荷された。長野県の16か所というのは全国1位だが、これは地形的な事情によるものだ。長野がけわしい山岳地域であることから広い敷地が確保できなかったため、いずれの牧も小規模だった。その影響で馬を必要とする武士団が小分けされてしまい、一国を代表する大名が育たず、群雄割拠という状態になった。かたや山梨県は県北に八ヶ岳、南に富士山がつくり出した広大な牧草地がある。そこを武田氏ががっちり押さえたのだ。
サラブレッドと比較すると断然小さいが、それでも木曽馬は在来馬のなかでは大きい方だ。同じ種類の動物は北に行くほどからだのサイズが大きくなることが知られていて(ベルクマンの法則)、日本なら岩手の南部馬が最大級。木曽馬もDNA検査の結果、同じ系統であることがわかっている。
近世以降の記録だが、木曾馬の産地では、女性の労働力が大きな比重を占めていたという。木曾馬の気性が良く、温厚な馬が多いのは、女性たちに優しく育てられるからという説もあるほどだ。木曾地方には女性が馬を乗りまわす風土があり、巴御前の伝説を生んだのかもしれない。(蒲池明弘『「馬」が動かした日本史』より)
女性に育てられたから温厚という説はかなり乱暴な気がするけれど、たしかに木曽馬は見るからにとても温厚そうだ。ここの馬を世話をしているのも若い女性の飼育員が中心のようで、そのなかのひとりが客でもないぼくたちに馬のことをていねいに説明をしてくれた。触ってもいいですよ、と言ってくれたので、彼女がブラシをかけていたみどりちゃん(写真の白い馬)の鼻先あたりを撫でてみた。思った以上に毛は堅く、オノマトペにするなら「ゾザゾザ」といった感じ。首まわりを撫でるとよろこぶというので、恋人をよろこばせるつもりような、やさしい気持ちになって撫でてやる。「女性」をこんな気持ちで撫でるのはいつ以来だろうか。
カメラをかついで敷地のだいぶ奥の方へ行ってしまった阿部くんを置いて牧場を出ると、小屋から顔をつき出している馬のそばであひるくんが佇んでいた。すっかり馬に馴れたぼくは鼻や首まわりを撫でてやった。毛並みや顔つきからして、みどりちゃんよりもだいぶ高齢の馬だ。あひるくんが全然近づいてこないので理由を聞くと、動物が大の苦手らしい。あひるなんて名乗ってるくせにへんだな。
国道139号線を青木ヶ原樹海のあいだを抜けるように走り、本栖湖へ向かう。紅葉台から眺める樹海とは趣が異なり、木々のあいだから見える岩だらけ樹木だらけの世界は怖いようで不思議でおもわず誘い込まれそうだ。でも、いったん足を踏み入れたら最後、待っているのは途方もない広さの森。浮き輪も付けずに大海のど真ん中に落っことされるのと変わりはない。
途中、工事渋滞などにひっかかりつつ、約20分のドライブで本栖湖の浩庵キャンプ場の上にある展望公園に到着。雲さえ無ければとんでもない絶景のはずだが、プーマのマークのような雲が山頂にかかっていて、富士山の姿はほとんど見えない。岸辺には2メートルも間を置かずに何十基ものテントが立ち並んでいて、夏の湘南海岸を思わせる。それくらいこの景観はすばらしい。湖面にはちりめん生地のようなさざ波が立ち、ところどころ皺のように黒い波の筋がすっと浮き立っている。空に浮かんでいる雲が反射している部分は鏡のようにひかり輝き、山の影が反射している部分はオイルでも浮かべたように重く光っている。全体としてぴかぴかに磨かれた一枚のぶあつい金属板のようでもある。ぼくの隣でサングラスをかけた背の高い初老の男性が、同じく背の高い白人の婦人を本栖湖をバックに立たせて、記念撮影にいそしんでいた。よければ一緒にどうですか、とぼくが声をかけると、ほとんど同タイミングで男性は「いえいえ、大丈夫」と言い、女性は「はい、おねがいします」と言った。女性がにらみつけると、男性は苦笑いを浮かべながら、ぼくにスマートホンを差し出した。
阿部くんたちが貰ったクーポン券でお土産を買いに、トイレ休憩を兼ねて「道の駅なりさわ」に立ち寄ったあと、ぼくが見つけたキュースタの展望台で日没の富士山を狙うことになる。
がんばってはみたものの、残念ながら日没は5分前に過ぎていた。雲もやや少なくなっていたものの、あいかわらずてっぺんに居座っている。地元の高校生カップルが毛布とポット持参でベンチに座っていたが、カメラを下げたへんな中年3人組と、下のおもちゃ屋で買ったカードを交換する子どもたちの一群にムードを台無しにされ、あっというまにいなくなってしまった。
昨年の富士行の帰り、偶然立ち寄った横町バイパス沿いの中華料理店『大黒天』。予約もしていないぼくたちがホール係の店員に入店をやんわり断られようとしているところに、マダムが颯爽と現れて、こちらの席でよければ、とちょうど三人がけ横並びの補助席のようなテーブルに案内され、喜んでそこに座って食べた。しかも頼んだものすべてが美味しくて、良い思い出しか無い店だった。今回の富士吉田の締めもそこで食べることにする。「今回は頼みすぎないようにしないといけないですね」と阿部くんが言う。うれしくなったぼくたちが空腹に任せてあれもこれも頼んだら、狭いテーブルいっぱいに料理が並び、おなか裂けそうになるくらい満腹になったんだ。平日の夕方、しかも開店直後の17時だったので、スムーズに入店できたのだが、結局、われわれは自分の食べたいメイン+おかず(棒々鶏、麻婆豆腐、唐揚げ、蟹肉入りチャーハン、天津飯、中華粥)を一人ずつオーダーし、結局のところ、また下腹をさすりながら店を出た。
ロードサイドの建物が縦にも横にも大きくなっていくと、あっというまに都内だ。富士吉田の道路は富士山に向かって大きなのぼり坂になっているとはいえ、逆に言えば、それ以外の細かい上り下りがとても少ない。しかし、東京は急な坂があり谷があり、線路や高速道路やトンネルをくぐり……と、人工/自然問わず、地形の変化がとてもあわただしい。単純に比較すべきではないが、富士吉田周辺で接点を持った人から受ける印象は地形と同じで、悠然とし、寛容でおおらかだ。もちろん何度行っても富士山はとても神秘的で興味深くて、まだまだいろいろ知りたいと思うけれど、結局のところ、心に残るのはあのガソリンスタンドのみなさんと過ごした時間だ。千歳船橋に到着。ぼくとあひるくんは小田急線で新宿駅へ向かい、自宅のある阿佐ヶ谷へさらに乗り換えるあひるくんと別れる。次に会えるのはいつになるだろう。去年別れたときには、それが一年後になるなんて想像してなかった。ぼくは新宿駅から甲州街道を15分ほど歩いて、残りの2日間連泊する京王プレッソインへ向かった。
11月10日(火) DAY4
午前7時半起床。暖房をつけずに寝たのだが、富士吉田とは起きたときの室温がまったく違う。カーテンを開くと、ホテルの目の前をとおる甲州街道はもうすでにかなりの交通量。客を拾ったタクシーが強引に車線へ割り込もうとして、進路を塞がれたトラックが甲高いクラクションを鳴らしている東京の朝。
松山から買付旅行に昨日から来ている生活雑貨店「BRIDGE」の大塚夫妻、そして阿部くんと奥さんのシホさん、4月に生まれたばかりの息子ウイくんと朝ごはんを食べることになっていて、朝9時にキラー通りの「J-COOK」に集合することになっていたが、ウイくんの支度が整わず、30分ほど遅れて到着する。ロックダウンと子育てデビューが重なった阿部くんたちの苦労話をコーヒーなど飲みながら聞く。まだちょっと抱き方にぎこちなさがある新米父母に比べ、特にふだんからジムでフィットネスにいそしんでいるBRIDGEのカナコさんがウイくんを抱くと、小さな動く米俵をかついでいるように堂々としていて、ついカメラを向けてしまった。同じ県内なら比較的移動の自由があって、場合によっては祖父母の生活圏が近所にあることも多い愛媛の人たちと、特にコロナ禍での出産を強いられたシホさんにはまったく異なる覚悟が必要だっただろう。それでも彼は無事に生まれてきた。彼の目に映るのは顔半分を白い布で覆った大人たち。でも、今日ここにいるのは、君の命をつくった人、君の誕生を心から祝福する人、これから先の君を助ける人たちばかりだよ、と目を口ほどにものを言わせ、新しい小さい友だちに伝えたかった。ウイくんはぼくの顔をしげしげとのぞきこんでいた。
友人一行と別れ、原宿駅近くのオーバカナルでランチを、と思ったら、調査不足で原宿店はランチの提供なし。しかたなく表参道のラ・ボエムでパスタランチ。昔はここのカルボナーラがぼくの《ボナーランキング》の3本の指に入っていた。ひさしぶりに食べたら、いつのまにかぼくの作るカルボナーラの味が追い越してしまっていた。
キャットストリートを抜け、明治通りの信号を小走りで渡り、元電力館のシダックス、隣のニトリはなんだったっけ……と考えながら、タワーレコードの四つ角を右に折れ、坂(フィンガーアベニューって言うんだって)を早足で登り、渋谷パルコの前に出る。リニューアル後、初入館。目的はほぼ日のギャラリーで和田誠さんの原画展を見ること。
平日の昼間という時間帯のせいか、渋谷パルコのマーケティングでは絶対に重要視されていないであろう年配の客(ぼくも含めて)ばかり。40点ほどのコンパクトな展示ながら、やはり原画はいい。特に本の表紙や映画のポスターなどを写し取った図柄の、レタリング部分の美しさに魅入ってしまう。定規をあてたようなぴしゃりとしたシャープさではなく、それでいてフリーハンドの適当な線ではなく───いったいどういう訓練をしたらこういう線が描けるのか───いや、描けないのだ。何年か前、イラストレーターの長崎訓子さんと対談したとき、描線の話になった。いっしょうけんめい訓練をすれば、どんな線でも自在に描けるようになるのか? というぼくの質問に対し、ある程度までは反復トレーニングで描けるようになるけれど、結局は、自分の線でしかない、というような答えを長崎さんはされたように記憶している。ぼくは自分の書く字や絵の線があまり好きではない。ときどきそれを好きだと言ってくれる人がいて、ありがとうと答えるのだが、心のどこかではその評価を信じきれないぼくがいる。声の評価なんかも同じで、子どものときから声が低かったので、たとえ好きな人にほめられても、もっと高くて、中性的な声に憧れている自分が抜けない。和田さんの線にはそうした苦悩が無い。自分の線が好きで、自分の塗る色がきっと大好きだったはずだ。この点、去年見に行った原田治さんの展覧会ではまったく逆の印象を持った。いわゆるOSAMU GOODSに代表されるようなポップなイラストレーションを近くに寄ってじっくり見ていたら、自分の描いた線に納得がいかず、何度も描き直したようなあとが至るところにあった。どこにも発表せず、自分のために描いていたという晩年の抽象画や小さいオブジェが飾られていたけれど、まるでその鬱憤をぶつけるような自由で解放的な作品だったのが、今も強く心に残っている。
8階のギャラリーから地下までエスカレーターで降りながら、各フロアをひとまわりしたのだが、客の姿もまばらでうすら寂しい気分になる。地下のユニオンレコードでは、もう絶対に見つかりっこないと思っていた細野さんの『オムニ・サイト・シーイング』のアナログを発見。うれしさより売れ残っていたという驚きのほうが勝ってしまったが、坂本慎太郎の新譜シングルといっしょに買ってしまった。
夜6時からの『テネット』までまだ3時間くらいあったので、いったんホテルに戻って荷物を置き、あらためて出直した。西口の郵便局から小田急ハルクの前を通って、大ガード方面へ抜け、小滝橋通りへ。建て替えられて、すっかり様子が変わってしまったような一画もあれば、20年くらい前に友だちとよく通ったタリーズがまったく同じ場所でがんばっていたりするのがおもしろい。大久保の中古楽器屋などをひやかしたあと、山手線で池袋へ。旅の準備のとき、計算違いで不足していた下着を無印良品で補充。そのあと前から一度行ってみたかった「古書往来座」へ。特に映画、芸能、詩歌などの在庫が厚く、値段も手頃。たまたま欲しい本があまり見つからなかったけれど、上京時のルーティンにしてもいいくらいのお店。ちょうどさっき見てきたばかりの和田誠『新人監督日記』400円を求める。
戦利品の古本1冊(とパンツと靴下)を携えて、南池袋公園の横にある「COFFEE VALLEY」へ。制服姿の女子高生二人組がカウンターに横並びで座って、部活(弓道部)のことを熱心に話し込んでいた。秋の大会がコロナで中止になり、モチベーションが下がってしかたない、云々。友だちと他愛もない話をしながら、学校帰りに飲む一杯が500円で飲めるスペシャリティコーヒーだなんてほんとにいい時代。若いうちに本物を知るのは大事なこと。ただ、自分が今、口にしているコーヒーが本物だと知って飲むことがもっと大事なのだけれど。
ということで、今回の旅のふたつめの大きな目的である「グランドシネマサンシャイン」にやってきた。サンシャイン60のすぐ近くに昨年できた新しい15階建ての商業施設「キュープラザ池袋」の述べ10フロアを使った巨大シネコンがグランドシネマサンシャインだ。運営しているのは愛媛県の会社、佐々木興業。この会社が松山の中心地に作った「国際ビル」には小学生時代から高校卒業時まで熱心に通ったし、また大学時代に帰省しているときもガールフレンドとのデートでお世話になった思い出深い映画館だ。深夜から朝まで数本立てで見られる「フィルムマラソン」という企画で、松山ではロードショーがなかった『ブレードランナー』やニール・ジョーダンの『モナリザ』などを見た。今は取り壊され、敷地には高層マンションが建ち、代わりにできたシネマサンシャイン大街道という小規模な映画施設も、来年1月で閉館が決まっている。
ここのIMAXシアターはそのうち4フロア分を占めていて、フルサイズのIMAX映像を体験できる日本最大のスクリーンが設置してある。幅25.8メートル、縦18.9メートルというサイズ感は6階建てのマンションの壁面に相当し、ふつうのIMAXシアターが1.9:1という画角なのに対し、1.43:1───要するにきわめて正方形に近い。人間の視界は基本的に球形だが、この正方形という画角で上映されると視覚いっぱいに映像が覆い尽くすことになる。クリストファー・ノーランはこのIMAXのフルサイズ上映にフィットする《65mm/15パーフォレーション》のフィルム撮影にこだわっていて、その威力を堪能できるスクリーンはグランドシネマサンシャインと大阪のエキスポシティにある109シネマズのたった2ヶ所しかない。
最新作の『テネット』はすでに2回見ていた。両方とも佐々木興業が松山で経営しているIMAXシアターだ。ノーラン作品のベストなのはまちがいなく、生涯のベストフィルムの中に入れてもいいくらい大好きな作品になってしまった。これまでフルサイズIMAXで彼の映画を見たことはなく、このままじゃ死んでも死にきれない。なんとしても上映が終わらないうちに駆けつけたかった。鬼滅フィーバーのせいで、一日の上映回数がたった1回に減らされてたから、良席を押さえるのは大変かと思ったけど、平日18時からという中途半端さのせいか、案外スムーズに取れた。
スクリーンの巨大さは筆舌に尽くし難く、役者たちが身に纏っているスーツの縫い糸まで確認できる高精細さに眼を見張る。これが地元のなんちゃってIMAXと同じ料金で観られるなんて差別だ。
新宿に戻ってきたのが午後9時半で、この時間から気の利いた食事ができるはずもなく、できれば足を踏み入れたくなかったけれど歌舞伎町に向かう。ノーマスクで大声で笑いながら肩を組んで歩く男たち。早足で下向き加減に歩く若い女性をしつこく追いかけまわすスカウトたち。店じまいした靴屋のシャッターにもたれかかりながら、地べたに座ってスマホをいじっている上下ジャージの女の子。喜多方ラーメン『坂内』で冷やしラーメン。
11月11日(水) DAY5
朝、食べるものを調達してなかったので、新宿パークタワーの地下にあるサブウェイでサンドイッチを購入。この一年間で愛媛から消えたもののひとつがサブウェイ。
荷物をまとめて新宿のホテルを出る。最初の3日分の汚れ物が入ったトートバッグを富士吉田のホテルに忘れてきてしまったので、その分、荷物が軽くなったのは不幸中の幸い(先方には連絡済みで、ぼくより早く自宅に届いてしまいそう)。大江戸線で大門駅、羽田モノレールに乗り換えて、空港へ。機内は行きの便とほとんど同じ6割くらいの混み具合。やはり赤ちゃん連れの女性の姿が目立つ。違うのはキャビン・アテンダントが若くて美しい女性たちばかりだったこと。
1時間ほどのフライトで到着。松山空港は出発ゲートも到着ロビーもほとんどひと気がない。空港内のレストランでランチ。白身魚と唐揚げ、サラダに味噌汁がついて550円。自分が東京から乗ってきた飛行機を眺めながら、空港職員と同じ空間で食べる。市駅までシャトルバスで移動。路線バスに乗り換える。富士山の凛とした空気がすでに懐かしい。午後2時半、自宅着。