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THINK TWICE 20211031-1106

10月31日(日) LIFE GOES ON

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定期的に行われる《自分が多数派じゃないことを確認させられるだけの行事》が終了。生活を土台から揺さぶられるような重大事が起きようと、5,800万人の票がゴミとなり、大事な書類がシュレッダー行きになる社会がこれからまたしばらく続く。まあ、それが今の日本の民意というなら仕方ない。諦めず、地道に暮らしていこう。


11月1日(月) Uh-Oh

Spotifyから毎週末に届くおすすめ曲に、トーキング・ヘッズの「Uh-Oh Love Comes To Town」のライヴ・ヴァージョンが混じってた。

知らないアルバムだけど、なぜか聞き覚えはある。ジャケットをじっくり眺めてみたら《LIVE CHICAGO '78 WXRT BROADCAST》というクレジットがあった。つまり、シカゴのWXRTというFM局で放送された音源ということ。

むくむくと記憶が蘇り、同じ音源が収録された海賊盤CDを、大昔に西新宿で買ったことを思い出した(今はもう手放してしまった)。放送用に録音されたものだから、音質には問題がない。ジャケットもなかなか気の利いたデザイン。でも、こんなタイミングで正式に発売されるのは変な話だな……と睨んで調べたら、やっぱり海賊盤だった。

どこかのブートレガーがアップしたみたいで(ちなみにApple Musicには見当たらなかった)、もちろん楽曲の使用料はアーティスト側に入る。海賊盤業者には一円のメリットも無いはずだ。むしろ、こういったサブスクへの登録にはいくばくかのお金がかかる。どういうことなんだろうね……。

ところで「Uh-Oh Love Comes To Town」はファーストアルバム『サイコ・キラー'77』に入っている。このアルバムで一番好きな曲だ。間奏に入っているごきげんなスティール・パンが聞きどころで、歌詞も最高だ。

訳してみたので、聴きながら読んでみて。

ヤバっ、愛が街にやってきた

待て! その瞬間が来るのを待つんだ
立て! 立ち上がって、ぼくの手をとるんだ
信じて! 神秘を信じてよ
愛、愛は1、2、3みたいにシンプルなのさ

ぼくはぜんぶ知ってるよ
なんせここらじゃいちばん頭が切れる男なんだ
きみがすんなりわかってくれるなら
この町でいちばんかしこい女の子ということさ
そら、なぞなぞだ
ほら、ヒントをあげる
きみがほんとにかしこい子なら
何をしたらいいかわかるはずさ
ぼくがそう言ったらば……

飛んで! しゃがんで!
うしろに下がって!
リラックスして!
うん、オッケー
今日は仕事をさぼりたくって
病気で休みます、って電話した
愛する存在と一緒にいるほうがいいから
やるべきことをほっぽらかして
ああ、でも、面倒が起こるかもね

大学に通って
ずっと学校に通ってて
君が本で読んだような人たちにも会ったことがあるよ
そら、なぞなぞだ
ほら、ヒントをあげる
きみがほんとにかしこい子なら
何をしたらいいのかわかるはずさ
ジェット機乗りは制御不能
船頭は陸に上がり
株式仲買人が投資に失敗したときは
愛が街へやってきたんだよ

いったいどこに
ぼくの良識はどこにいった?
どうしてこんなふうになっちまったんだ?
信じよう、ぼくは神秘を信じてる
愛、愛は1、2、3みたいにシンプルなのさ

そら、なぞなぞだ
ほら、ヒントをあげる
きみがほんとにかしこい子なら
何をしたらいいか、わかるはずさ
どうして頭から離れないんだ?
君がそばにいるときはいつだって
答えはかんたんさ
愛が街にやってきたんだ

ややヒネクレてるけど、わりとストレートな性愛についての曲なんだ。今日はこういう音楽を聞いて、ささくれた心を鎮めたいなと思う。


11月3日(火) X-GIRL

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先日、noteに書いた三津浜の「日下鮮魚」が閉店してしまったらしい。

いつなんどき無くなってもおかしくない雰囲気は、ぼくらが取材した2016年の時点でも漂っていたけど……残念。

ちなみにこの写真は阿部くんが車の通過待ちをしてるあいだに、ぼくが撮影したおばちゃんたち。これはこれで気に入っている。


11月4日(木) UTOPIA

デヴィッド・バーン『アメリカン・ユートピア』が、約2年ぶりにブロードウェイで復活───という話題はどこかで見たっきりすっかり忘れていた。
しかし、公演は無事に再開された模様。

プロモーションを兼ねて、スティーブン・コルベアのナイトショウで「I Zimbra」をパフォーマンスする映像がYouTubeに上がっていた。

メンバーは映画に出演している人たちとまったく同じ。導入部分のトークもそのまま。ただし撮影時は67歳だったバーンもあれから2年経って69歳。ぜんぜん声は出てるし、動きにヨボヨボしたところがないのはさすが。

新しいことを産み出すエネルギーもすごい。でも、同じことを何百回、何千回と繰り返しパフォームできることへの尊敬は、若いときよりも今のほうが何十倍も強い。どちらもできているバーンはほんとうに偉い人。


11月5日(金) FIRST LINE

大学で知り合った友人たちは、とびきり音楽に詳しい連中だった。それまで出会えなかった魅力的な音楽を教えられ、あるいは教え合うような環境にあって、実際のところ、教師から学んだこと以上にぼくの血肉になっている。

特にその時期に大好きになったのが、ニューオーリンズの黒人音楽───俗に《セカンド・ライン》と呼ばれる音楽だった。

ニューオーリンズでは誰かが亡くなったとき、最初の弔いを教会で行ったあと、棺を運ぶ際にブラスバンドの隊列(ライン)が組まれる。彼らは葬送曲を演奏しながら墓地に向かい(ファースト・ライン)、埋葬を終えてからの帰路では、打って変わって賑やかでスウィンギーな音楽を演奏し、参列者だけでなく、沿道の人たちまで巻き込んで歌い踊る。つまりそれが第2の隊列=セカンド・ラインの始まりとなった。*1

*1 ニュー・オーリンズにはリオのカーニバルに匹敵する、マルディグラという大きなお祭りもある。その2つのムードが溶け合ったものが、セカンド・ラインやニュー・オーリンズファンクと呼ばれる音楽の源流だ。

そんないきさつで誕生したセカンド・ラインは、独特のシンコペーションが特徴で、いかにも黒人っぽく、弾むように歩くときにぴったりだ。そのファンキーなリズムがジャズ、ブルーズ、ソウルやブギウギとごった煮されることで、セカンド・ラインはニューオーリンズで誕生した新しい黒人音楽として、次第に認知されていった。

ニューオーリンズ出身の白人ミュージシャン、ドクター・ジョンが登場し、『ガンボ』『イン・ザ・ライト・プレイス』といった傑作アルバムを発表する。アメリカやヨーロッパはもとより、ここ日本でも細野晴臣さんや大瀧詠一さんらに多大なる影響を与えた。そして、セカンド・ラインを取り入れた「ルーチューガンボ」(細野)や「福生ストラット」(大瀧)などが作られる。

当時のニューオーリンズの音楽シーンで八面六臂の大活躍をしていたのが、プロデューサー、ピアニスト、作曲家のアラン・トゥーサン、そして4人組のファンクバンド、ミーターズだ。

ミーターズは自分たちの活動と並行して、おもにトゥーサンがプロデュースした歌手たちのシングルやアルバムに数え切れないほどの演奏を残した。松任谷正隆、細野晴臣、林立夫、鈴木茂がやっていたティン・パン・アレーを想像してもらうと、ちょうどイメージが合うと思う(活動時期的にはミーターズがティン・パンより先輩だが)。

ぼくがセカンド・ラインを好きになった頃(90年代のはじめ)、日本ではP-VINEがその周辺の音楽をCDやアナログで次々と復刻していた。またイギリスのEDSELやアメリカのROUNDERといったレーベルが、コンピやリイシュー盤をリリースしていたので、それらは輸入盤で安く手に入った。

ミーターズのメンバーは多少の変遷はあれど、アート・ネヴィル(キーボード)、レオ・ノセンテリ(ギター)、ジョージ・ポーターJr.(ベース)、ジョー“ジガブー”モデリスト(ドラム)がいわゆる黄金メンバーだ。ライブなどではこの4人に加えて、アートの兄弟であるパーカッションのシリルも客演することが多かった。

なかでもギターのレオ・ノセンテリは、シュプリームス、テンプテーションズ、スピナーズなど、モータウンのセッションに若干17歳で参加していた"早熟の天才"だった。ふたつ上に動画のリンクを張ったミーターズの代表曲で、ファーストシングルの「シシー・ストラット」も彼のペンによるものだ。

1970年頃、レオは多忙をきわめたスケジュールの合間を縫いながら、ミーターズの仲間たちやアラン・トゥーサンの手を借りて、ミーターズとはまったく違うアプローチの音楽をひそかに作っていた。それはジェームズ・テイラーやビル・ウィザースといったシンガー・ソングライターにインスパイアされた、フォークやカントリー風の音楽だった。たぶん契約や予算やスケジュールに縛られない、自主的で自由なレコーディングだった、と想像する。

ところが、本業のミーターズがますます忙しくなり、活動拠点もロサンゼルスに移すことになった。レオが完成させたアルバムは結局、日の目を見ることなく、プロデューサーのトゥーサンが倉庫の中にしまい、来たるべき日を待つことになった。

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しかし、それから30年後の2005年。ニュー・オーリンズ全域を襲った巨大ハリケーン「カトリーナ」によって、トゥーサンのホーム・スタジオ「シー・セイント」は壊滅的な被害を受けた。建物の内部まで押し寄せた激しい濁流によって、他の貴重な音源と共にレオのマスターテープも永遠に葬りさられた───と考えられていた。

ところが、さらに10年以上経って、ニューオーリンズから約2000マイル離れた、カリフォルニア州ガーデナのスワップミートで、レオのアルバムのマスターからコピーしたとおぼしきテープが、あるレコードマニアによって発掘され、今年秋にLight In The Atticから発売されることになった。

そんな、レコード好きなら誰もが夢見るようなお伽噺がほんとうに起きて、なおかつその顛末を追っかけたら、この物語に登場するのは偶然とは思えないほど運命的で、すごいメンバーだった。

書き疲れたので、明日に続きます。


11月6日(土) SECOND LINE

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左からマニー・マーク、マリオ・カルダート・ジュニア、マイク・D

ミーターズのギタリスト、レオ・ノセンテリが数年の歳月をかけて完成させたまま、洪水によって失われたと思われていた音源が発見された。

そのテープを事実上《発見》したレコードマニアの名前は、マイク・ニシタという───そう、あのビースティー・ボーイズのキーボーディストだったマニー・マークの弟だ。

2018年1月のある日、マイク・ニシタは顔なじみのベンダーから、ハリウッドの倉庫で差し押さえられた荷物のなかから見つかったという、16本のテープをチェックするようにフリーマーケットで声を掛けられた。

7インチ四方の箱に収められたテープには《ミーターズ、リー・ドーシー、ドクター・ジョン》というメモが付いていた。マイクは最初、どこかの誰かがレコードからダビングしたテープだと思った。

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しかし、箱のいくつかにアラン・トゥーサンのスタジオ「シー・セイント」のラベルが貼られていることに気づいた。

ヴェンダーは1箱につき100ドルをマイクに要求し、彼は16本全部を購入して帰宅した。そして帰り道、幼馴染のマリオ・カルダート・ジュニアと、実兄のマニー・マークに電話をした。

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マリオ・カルダート・ジュニアはビースティー・ボーイズのレコーディングを長年支えたエンジニアだ。その後、ジャック・ジョンソンのプロデュースなども手掛けた。ニシタ兄弟とマリオは高校時代のバンド仲間だった。3人はマイクの自宅ガレージに集まり、彼の戦利品のテープを聴くことにした

テープにはミーターズのファーストアルバム、1974年にLAで録音されたアルバム『Rejuvenation』のマスターコピーが完璧な状態で収録されていた。そういったコピーテープはレコーディングが終わった後、プロデューサーやミュージシャンたちが自宅に持ち帰って、サウンドチェックするために作られたり、大きくてかさばるマスターテープの代わりに、簡易的な保管用として作られていたものだ。

そしてもっとも驚くべき収穫が、くだんのレオのアルバムだった。連絡を受けたノセンテリ自身も永遠に消えたものと思いこんでいた、この世にあるはずのないテープが見つかったのだ。

知られざる名盤の復刻に定評のあるレーベル「Light In The Attic」(近年、日本のシティポップや、細野さんの旧作などもここからアナログが再発された)のマット・サリバンらも招集されて、アルバム『Another Side』として世に出すための煩雑な作業が行われた。

そしてついに今月19日にCDとカセットが、来年にはアナログとして発売されることになっている。誰がなんと言おうと全力で欲しい一品。

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ご覧のとおり、マイクのガレージにはトゥーサンの未発表アルバム(1974年に公開されたブラックエクスプロティーション映画『ブラック・サムソン』のサントラ)など、まだまだお宝が眠ってるとか。

貴重なお宝はちゃんと放流すれば欲しい人のところに届く。ぼくたち客だけでなく、音楽家たち(もはや死んでる人がほとんどだけど)にも少なからず経済的に還元できる。倉庫に溜め込まないでどんどん出して欲しいな。

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