小径章(こみち・あきら)
樋口一葉の「やみ夜」を1章ずつ現代語訳しています。週1のペースで更新できればと思っています。
夜というものの暗さが、まず第一に身体を包みます。とぷんと闇に身を差し入れて、全身を浸してみて、夜はとびきりの無音か、うだるような騒音にしゃかしゃかと降りしきられて、それが通過するか跳ね返るかで自分の身体に空いたきめの細かさを測りながら、ひとびとは縦横無尽に街を、それぞれの容積で歩き回り居座り、自分の穴からぷくぷくと夜空の方に浮いて出ていくあぶくの数々を、ここでは世迷いごとと呼びならわしています。 きょうも夕暮れと夜の境をわざわざ好き好んで、曲芸師みたいに腕を左右に延ばし、
絶えまない強姦の果てに 詩は砂漠と化した 荒れ果てた神経は インクの出ないペンのように 無感覚に震えているばかり 一滴の水を飲みくだす力が 喉に残っているのか 血のしたたる肉を食らうほどの牙が わたしの口にあるのか 眠れども眠れども 癒えることなく 無数の大小さまざまな傷口から 泉のように湧き出す鮮血が 夜ごと寝床を透明に染め上げる 癒せない なにものもただ 延命するだけ なにものもなにも癒せない ありあまる紙と しんと静まり返るインク壺の前で かつて詩人だった硬直体
僕は壊された いまも僕は自傷しつづける 誰も僕を救えない 僕も僕を救えない 原理的には死ぬしかないが 原理は人を殺せない 人を殺すのは人の手であって 理念ではないのだから 原理は人を殺せない 頭のなかの いくつものガラクタ 文学は僕を救えない 文学を語る言葉たちの あまりの鈍重さに毒されて 僕の文学は いとも容易く昏倒した 僕の文学は 僕のことばはもはや 僕を救えない 音楽も絵画も灰色に染まって 抹香臭くなったものだ 踏みにじる靴底だけが いつでも絶対的に正義なのだから
救護 尖塔に突き立った太陽が 嬰児の目をひらいては 迷宮はあまねく圧し潰され 平面と化した後半生を ユークリッド幾何学に奉仕する ああ明視の空間 屈辱に似た透徹を ガムのように噛みしだいて くるんで捨てる紙が欲しいわ 簡明 背広を着た網膜が 警戒警備を振りきって 目白押す歓楽を感知する 焦点を放棄した彼は 全身に全霊を一致させて 感応体としての天分を全うする ぐったりとうち萎れた神経回路が 部屋の隅で丸く絡まる 合議 器官の集合が 全身と一致することはないという命題が ま
血を流して星がたたずむ 数々の稜線を伝って 流れた跡が赤黒く固まる 星は誰もがみなしごで 数十億光年の空隙を 前後左右に保ったまま 怠惰に無意志的に発光する おのずから光る役割のみを 誰かから託されて 誰が託したのかなんて誰も知らなくて どうして光るのかも自分では分からない 戸惑うそぶりすら許されぬまま 星々は光りつづけ 恒星として登録されて 等級など付けられて 月明かりに目を覚まされたある観測者が 偶然に恒星の涙を発見する ガスの滞留だと思われていた暗赤色の模様は 星の
空想に耽る花曇りが 頭上でちぎれて消えたので きみがたたずむその場所は 世界の最果てにちがいない 見知らぬ子犬が鼻を鳴らして 目の前を通り過ぎるのを きみはだまって目で追いながら 野垂れ死ぬときを待つだろう さびれた広場でミュージシャンが 声を限りに歌いつづけるのを きみは遠くで聴きながら 彼の歌声がビニル袋と一緒に 道端を転がるのを見るだろう 妻を失った男が流れ着き 首をくくろうとするときに きみは男の結晶化した苦しみが みるみるほどけて軒先から天に昇り 星屑に変わる
揺籃は雑音にかしぐ 光が綾をなして周囲を包んでは いくえにも温もりを巡らせ自足するのを 雲がしずかに地上へ振り落とす 揺籃は無音を裂く 落下のただなかに すべての温もりを忘却して 運動方程式を連綿と履行する 固有の質量になり果てる 赤子はフリーフォールを眠りながら 上空一万フィート 零下四五度の大気圏を すみれの花叢に思いなす
偏執する大気が まだらに人々の息を止めては 太陽が 野放図に地を灼く 野垂れて息もたえだえの農夫が 酸素の吹き溜まりで延命を強いられる 一面の収奪は 生物一般に観測される 平均化作用にほかならない ひずんだ荊が猫を裂く 落ちくぼんだ地面に血が沁み入る 明示された恒時条件に うなだれて従う日常を 空の炎症が阻害する 風の鋭さに切り裂かれて ますます亢進する病を 電柱が気怠げに眺めては ベッドにうつ伏せた身体を ごろんと仰向ける これが僕のマーチ 炎症はなおも空に脈打つ 雲が
机上の空論を くるくる弄ぶ もしも願いが叶うなら いちばんに掃除用具を 飾り付けてやろう 目白駅の鼻白む景色は 弁証法とはほど遠い みな俯きがちに列車へ急ぐ ここから南へ行くと 焦土だとでもいうように 迷路は終わらない 空襲はいつも頭上に 予感が景色をひろげて くつろやかな陽射しに透かし見る彫刻 産みの苦しみ 産み育てられる苦しみと ふたつながらひとつに 溶け合って雲のした ああ時はみなしご いま海は荒れ
小綺麗なしわぶきを 宙に散らす 落下する唾液の粒子が 外気に流れて おどけてみせる いま空は 絶望的に青い 言葉は重力に抗う 退屈は地べたに丸まって われ関せず
きらびやかな鈍重さを瞬いて街を歩くかれらを すり抜けてあなたの声があたしに 軌跡は糸となって街を縫い そのたびかれらの歩行に断ち切られるのを あなたは構いもせずなおも声を どうしてそんな無謀にも 街を縫いつくし織り上げて 完全に静止させようとするかのように あなたは声を なおも声を あたしの耳殻はあなたの声に つけ根から巻きつかれ圧迫されて あなたの試みが完遂する前に 壊死してしまうことを望む
過渡期にあって 収集しきれぬ群衆 それは内なる群衆 僕は都市 群衆のあるところには つねに孤独があるから 僕は彼らの あらゆる孤独を内包する 単一の狂騒
喉元に絡まる糸屑が、ケッと咳込んでもなかなか取れないそいつが、僕の粘膜にじわじわと張りついてつい今しがた安らかな午睡に耽る。僕はといえば穏やかなある山の中腹をハイキングに出掛けて、わかれ道を前に呻吟ひとつしなかった。喉元のそいつは声帯がいっこうに振動しないことを不審がって、すこやかな眠りを覚まされてしまった。 「やい、いやに静かだね。こころなしか乾いた粘膜がくら闇のなか、静寂に晒されてキインとしているよ。おちおち眠れたもんじゃないや。きみは山の澄んだ空気のなかでヨーホーとでも
みつからない一瞬が 頭のなか たとえば追いかけていた猫を見失ったときの 頬をはたかれたような茫然のただなかに ふと閃くことがあるから きょうも期待と予期をひた隠し 押し殺し だれの目も届かない日常の奥深くで みつからない一瞬を待ち侘びる時間が ぴいんと糸を張る それに足をかけて かろうじて僕は立っている
本文はこちらより。 https://note.com/akirakomichi/n/n4a11b278ae73