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青い女 #SS

 電車が来る。乗る。彼女が座っている。白桜女学院のセーラー服。肩までの髪、前は眉上で切りそろえている。私は斜め前の吊革につかまり、鞄から文庫本を取りだす。表紙のポアソニエールが彼女によく見えるように開く。読むふりをして目の端で様子を観察する。
 と、視線に気づいたのか彼女が顔を上げた。本にしばらく目をとめ、さらに視線を上げて私を見た。濃い睫毛の奥の黒目がかった瞳が私を捉えた。慌てて顔を逸らしたが、やわらかなアーモンド形の瞳は残像となって私の胸を濡らした。
 前日の夜、私は「絵のなかの散歩」の口絵のポアソニエールを切り取り、表紙の題の下の、野田英夫の茶色い絵の上から貼りつけたのだ。彼女がこの青い美しい女に似ていることを伝えたかった。
 海老原喜之助のポアソニエール。魚を頭に乗せた青衣の女。絵のなかの散歩は画商の洲之内徹が心震わす絵について綴ったエッセイである。新聞の文化面でった。勉強の合間に水彩画を描いていた私は早速、購入した。
 表紙をめくると青い女がとびこんできた。そうして、洲之内と同じく私もポアソニエールに恋をした。同時に、電車の彼女が二重写しになってあらわれたのだった。衣のターコイズと魚のコバルト、背景のエメラルドグリーンと。いずれの青もあのの姿を想起させた。ほほ笑んでいるのか突き放しているのかわからない唇。
 朝の電車の同じ席に座りいつも本を読んでいる白桜女学院の生徒の存在は、春からこの路線を利用するようになり、すぐに気づいた。一度本から目を上げ、窓の外を見るために首を回したことがあった。白くて長い首と物憂げなまなざしが、いつまでも脳裏から消えなかった。
 目の合った翌日も彼女は同じ席にいた。盗み見ていたのを悟られた恥ずかしさで私は違う車両に行こうか迷ったが、足は自然と彼女に向かった。が、吊革が塞がっているので少し離れた場所で両足を踏ん張る。
 今日は鈴木信太郎訳のヴェルレエヌ詩集。岩波文庫だ。元から詩が好きな文学青年のふりをして本に目を落とす。流行りのシドニィ・シェルダンなんかじゃ駄目なのだ。彼女が読んでいるのは斜めから確認する限り、文字の詰まり具合から小説だろう。何の本か。つい視線がそちらに行く。
 その時、彼女が首をかしげて私を見た。それは拒絶ではない、親しみでもない、静かな瞳だった。あわてて詩集に目を戻す。全身が熱くなる。
 私の父は商社マンで、一人息子の私は両親の庇護のもと何不自由なく育った。私はごく内向的な人間で、幼少時より友達がいた試しがなかった。皆がわいわいやっている隅っこで、いつもぼうっと眺めているだけの子供だった。
 勉強は好きで小学生時から成績はよかった。だが、進学校には多数の優秀な生徒が集まる。小さな町の秀才が凡人に変貌するのに時間は必要なかった。レベルの高い授業に私はたちまちついていけなくなった。
 高校でも友人はできなかった。よい大学に入り、よい会社に就かねばならないと両親は言うが、勉強にも人間関係にも既につまづいている。将来を考えると暗澹となった。会社勤めは多くの人と関わらねばならない。自分にはとうてい無理だ。
 大人になった後、どうやって生きていけばいいのか。私は美大を受けたいと父に告げた。すると彼は、美大を出て食えるのはほんの一握りだけだと鼻で笑った。そこで話は終わった。
 彼女は今日も同じ席だ。私が来ると本から顔を上げる。視線が交錯する。時間にして二秒ほどだろう。その顔はポアソニエールのように無表情なのだが、私の胸は一日幸福で満たされた。
 こうして私たちは一年近く無言の交流をつづけた。年が明けると彼女の姿のない日が増えた。おそらく三年で受験生なのだ。授業が全て終わったので登校しなくてもよいのだろう。卒業して、遠くの大学へ行ってしまったらもう会えない。焦る気持ちとは裏腹に、私には前へ出る勇気が出なかった。  
 三月一日。今日が白桜女学院の卒業式であるのは調べて知っていた。電車が来る。彼女がいる。ほっとする。目だけの挨拶を交わした後、斜め前でポアソニエールの表紙を開く。見届けた後、彼女も自分の本に目を落とす。
 今日が最後なのだ。声をかけなければ。顔を上げ、窓をみやる。河川、マンション、幹線道路。風景が次々変わってゆく。最寄駅が近づく。
 その時変化が起きた。彼女が本を閉じ、表紙を上にして逆さまに自分の膝に置いたのだ。絵のなかの散歩。そうして、私を見上げた。
 明らかに私が気づくように置いている。その表情は怒ってはいない。心なしかうっすらほほ笑んでいるように見える。何か言わなければと思うのに、焦りのあまり、私は逆の行動をとった。電車から降りてしまったのだ。
 彼女を見たのはそれが最後である。結局私は両親の願う一流大学には行けず、地元の私大を出、中堅商社に収まった。人並みの結婚をし、娘が一人いる。ポアソニエールは現在、宮城県美術館に収蔵されている。この目にしたいと思いつつ、実現できていない。彼女に一歩踏み出せなかったように。