焦りの学びではなく渇望するような学びを
こんにちは、おーのAです。
訳あって3週間ほどSNSを見ることと、技術書を読むことも止めていました。
SNSはとてもたくさんの有益な情報を与えてくれるものである反面、あまりの情報量の多さに溺れてしまい、溺れている自分を肯定することができなくなってくるという危険性がある、ということに気づかせてくれる時間になりました。
この体験から感じたことを書いておきたいなと思います。
あまり整理せずに書き始めるので、まとまりがないことはご容赦ください。
SNSの情報量に溺れて自己肯定感が下がっているという気づき
ここ2年、技術コミュニティに積極的に参加するようになってから、X(Twitter)はほぼ毎日欠かさずに見ています。しかし、SNSで流れる情報はあまりにも多く、私には全てを消化することは不可能でした。後で見る、という選択肢を取ったとしても、ほとんど消化することなく新しい情報が流れてきます。
溺れるような情報量の中で、処理できない自分の能力が低いように感じ、自己肯定感が下がっていきます。時には書籍レビューも流れてきて、「あれも読まなきゃ、これも読まなきゃ」という焦りが出て、積読をする。積読の山がさらにプレッシャーを増やすという悪循環も生まれます。
SNSを毎日見ている日々は、そんな日々でした。
「自分が知らない」という事実を「知らない」ことが精神的に健康とも言える
SNSや書籍に触れずにいると、「自分が知らない」という事実に触れることがありません。情報が存在していることを知らないため、それ自体に何も感じない、という状況を作り出すことができます。
文明的に現代社会から遅れているとされている、山奥に住むような部族は幸福感が高いといった話を聞いたことがあります。私たちが「存在していること」を知ってしまったことで、物足りないと感じている世界は彼らにとっては存在しないので、欲求としても生まれることがありません。
同様にXで流れてくる「こんな情報があるよ」「あんな情報があるよ」ということに触れないでいると、知らないことへの焦りも生まれません。
3週間SNSをほとんど見ることなく、技術書も読まない状況はまさに「自分が知らない」ということを「知らない」状況を作り出すことができていました。
焦るくらいならいらない?
私たちは新しい知識を得ることをしなくても、(それが十分な責務を果たせているかどうかは別として)ほとんどの仕事を進めることができます。焦って学ばなければいけないような知識はほとんど無いのです。もちろん、知っておくと仕事の幅は広がりますし、知って損することはまずありえないでしょう。
しかし、焦って自己肯定感下げてまで得なければいけない知識はどれほどあるのでしょうか。
知識が無いことで蔑むような人はほとんどいないでしょうし、そんな人がいたとしても、本気で向き合う必要はないのですから。
喉から手が出るほどの思いで学びたい
一旦、立ち戻ってみると、XなどのSNSで流れてくる情報に私はずっと焦っていたのだろうか?
いや、そうではありません。新しい情報を得られることが楽しくて仕方がなかったです。焦るどころか、積極的に見てしまう。まるで、アニメを一気見するかの如く、漫画を一気読みするかの如く好奇心に駆られ、美味い美味いと読みふけっていました。
であるなら、好奇心を刺激するような情報だけを大切にし、学びたくてたまらないものに時間を使いたいと思います。
SNSを見ない時間が新たな気づきを与えてくれた話でした。最後までお読みいただき、ありがとうございました。