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読書レポート #9 『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』


この本を選んだ背景

この本を選んだ理由は、前作の「嫌われる勇気」の内容をより掘り下げて書かれた本であると聞いたからである。

前作でアドラー心理学のゴールとそこに至るまでの原理について解説されていたが、では具体的にどうしたら良いのかまでは詳しく言及されていなかった。説明によれば、原理のより詳しい説明と具体的な例が示されているとのことである。

説明を見て読みたい気持ちが高まったため、読んでいくことにした。

内容

アドラー心理学は宗教なのか

登場人物の哲人は、アドラー心理学は宗教ではなく哲学であると述べている。哲学は学問の一部であることから、哲学を理解するためにまずは学問の出発点を理解したい。

学問の出発点は、問いに対する探究である。わたしたちはどこから来たのか・どこにいるのか・どう生きるのか…という問いを突き詰めて体系化されたものが学問となっている。学問はいわゆる科学や哲学に分けられ、広く言えば宗教もまた学問のひとつであるといえる。

ただ、成立させている根拠はそれぞれ異なる。
科学や客観的で再現可能な事実を元に構成される。
宗教は物語を元に構成される。
そして、哲学は概念を元に構成される。

哲人は「宗教と哲学は似ているが、考え続けるのが哲学で物語というひとつの解に落とし込んで考えることを止めたものが宗教」と述べている。

教育のゴールは自立

哲人は「教育のゴールは子どもの自立である」と結論づけている。
また、自立するためには能力を身に付けることと社会と調和する感覚の2つが必要だとも述べている。

・能力
  社会のルールなどの知識
  仕事で必要な知識
  丁寧な所作
  行動を続ける体力
・社会と調和する感覚
  人間の本性を知り、自分の在り方を理解する感覚

能力と社会と調和する感覚は学校で身に付ける能力であるが、特に社会と調和する感覚は主体的にやろうとしないと身に付かないものである。しかし、主体的にやろうとしてもできない人がおり、彼らは人間関係を作る上で何らかの失敗があり、その失敗に対する恐怖があるとされる。

子どもに権力を振りかざしてしまう背景

登場人物の青年は教師で、子どもたちの教育に苦心している。子どもたちが青年の言うことを聞かないあまりに怒鳴って子どもたちを指導している。

青年は哲人に「なぜ私の言うことを聞かないのだろうか」と問うたところ、「先生という公権力を振りかざして強制し子どもの人生に介入するのは、教育ではない」という回答が返ってきた。

子どもの問題行動を改善するには、言葉を巧みにかつ高頻度に使って子どもとコミュニケーションをとる必要がある。巧みにかつ高頻度のコミュニケーションには大変な手間がかかる。

こうした手間を省いて短期の成果を得る手段が「権力の振りかざしを含めた暴力をもって子どもを服従させる」ことである。先生によってはコミュニケーション能力が低かったり、表面的な改善でヨシとしてしまう人がいる。しかしながら、これは子どもの自立を阻害することに他ならない。

子どもの問題行動のキッカケは五段階

子どもは何かしら問題行動を起こす。その多くは「知らないこと」から来ている。しかし、知っててなおも問題行動を起こす子どもも多い。問題行動の目的は5つあり、段階的なものだと哲人は述べている。

1- 賞賛の欲求
褒めてもらうことを目的に、問題行動を起こす。

2- 注目喚起
褒めてもらえないために、共同体の他の人より目立つことを目的として問題行動を起こす。

3- 権力争い
注目されないために、共同体の他の人や先生への挑発を繰り返し、勝利することで自己の力を誇示しようとする。
また、不従順という形で自己の力を誇示するパターンもある。

4- 復讐
1-3の形で愛の希求をしたにもかかわらず返報がない場合、愛が憎しみに変わる。1-3では相手に正面から対話を試みているが、この段階では相手が嫌がることなら邪道なことでも行うようになる。
相手につきまとうなどのストーカー行為、もしくは自傷行為を行って「こうなったのはお前らのせいだ」と主張するようになる。

5- 無能の証明
4の形でも返報がない場合、相手に期待せず無能を装って最初から行動せず諦めるようになる。

1-5の段階のうち、後ろの段階になればなるほど改善に手間がかかるようになる。先生は、なるべく早い段階で子どもを尊重することで自立を促すことが望まれる。

他者を救うことに邁進しても、幸せになれない

他者を救うことによって自らの価値を確かめようとする思想のことを、メサイアコンプレックスと呼ぶ。メサイアコンプレックスの背景には、自らの劣等感に対して誤った認知をしていることが挙げられる。

人は誰しも劣等感を持つものである。劣等感はうまく使えば自分を成長させる認知ができる。しかし、劣等感を言い訳に"行動しない理由"を作り出す認知もできる。後者の認知をする人は「劣等コンプレックス」があると言っていい。

劣等コンプレックスを行うことで回避しているのは、ほかでもない自分の「人生のタスク」についてである。人生のタスクに立ち向かわない理由として他人を救うことに忙しいからと自分に対して嘘をつき、躱し続けているのだ。

彼らは人生のタスクで難しめの交友・愛のタスクから逃げるために用いることに用いる。そうした人は仕事のタスクのやり方で物事に取り組もうとする。すると、子どもに対して"友好的"ではなく"仕事的"に接することが想像される。

仕事の関係と交友の関係は、「信用」と「信頼」の違いである。
・信用
  条件付きで相手を信じること
・信頼
  条件なしで相手を信じること

仕事的に他人と接するというのは、相手を条件付きで信じる関係性である。相手を条件付きで信じる関係性から生まれる幸せというのは微々たるものである。本当に大きな幸せは、無条件で信じあう関係性の仲にこそ存在する。

本当の幸せは対人関係の中にこそ存在する。
すべての悩みが対人関係から生ずるように、すべての喜びもまた対人関係から生ずるのである。より大きな幸せを感じたいのであれば、相手を無条件に信じて接することから始めるのが良い。

愛されるより愛すること

愛とは何か?一般論としては、下記に示すものが挙げられる。

  • 崇高にして穢れを許さない神格化されたもの

  • 性的衝動にあらわれる動物的なもの

  • 自らの遺伝子を将来に残さんとする生物学的なもの

しかし、アドラーはこれらを本質的な愛ではないとし、以下のように述べている。
愛は、意思によって何もないところから築き上げるものである

"恋に落ちる"という表現はあるが、恋と愛は異なる。アドラーの愛に関する表現を組み合わせると次の一文が生まれる。

恋は落ちるものだが、愛は築き上げるものである。

人は「愛される」ことに憧れを抱く。しかし、愛される人を目指すのはどこまでも自己中心的な行動を取らないといけない。
愛されるライフスタイルというのは、いかに世界の中心に自分を置いて周囲の関心を集められるか模索するものである。世界の中心に自分を置いて物事を考え、行動を起こすことほど自己中心的なものはないだろう。

相手に与える生活を心掛けないと、いわゆる「愛される」ようにならない。
相手が気持ちよく過ごせる環境を提供し、かつ望むものを与えるような生活を送るためには勇気が必要である。

愛されるために必要な勇気とは、相手から反応があるか保証もないのに行動し、時にそれが無駄になることに対する勇気である。多くの人は「行動が無駄になったら心理的・金銭的に自分を傷つけるだろう」と考え、愛に担保を求めるのである。

これを解決するには、課題の分離が不可欠である。
相手が気持ちよく過ごせる環境や雰囲気・話題の提供、プレゼントの用意やエスコートは自分の課題とする。そして愛してくれるかどうかは相手の課題として、吉報を待つ。

運命の人などいないから、自ら作るしかない

恋愛ドラマなどで「運命の人」はありふれた存在である。
少しかみ砕いた表現をすると「出会うべくして出会った人」というものだろう。しかし、アドラーは「運命の人」の存在を明確に否定する。

人々が運命の人を信じるのは「すべての候補者を排除するため」だという。
例えば「異性との出会いがない」という人でも、本当に出会いがないわけではない。道ですれ違った人やエレベーターで乗り合わせた人、列車で隣の席に座った人…こういった"同じ場にいた人"を含めれば異性との出会いは無数に存在するだろう。

すべての人は無意識の嗜好で「顔が好みじゃない」「所作が気に入らない」といった合格ラインをかけているため「(自分の好みにあった)異性との出会いがない」とはいえる。それでも、そのラインを上回ってくる異性は存在するだろう。

"同じ場にいた人"との出会いをなにかしらの関係に発展させるためには、声をかけて心の距離を詰めるための一定の行動が必要だろう。その行動をするためには勇気が必要である。そうした行動の勇気が出ないために、運命の人なる妄想を作って「可能性の中に生きる」ことで逃げているものである。

「運命の人」が用いられる文脈において、その終着点は結婚を指すことが多い。しかしながら、運命の人が存在しないとするなら何をもって結婚を決意するのだろうか?

哲人は「結婚とは『対象』を選ぶものでなく『自らの生き方』を選ぶこと」と述べている。誰かとの出会いを運命だと感じたから結婚した、という人は多いだろう。ただ、哲人は「運命の人と信じ続けることを決意した」と解釈するという。

「選んだ相手と一緒にいたらより幸せに生きられる」と信じて生涯ともに生活を共にすると決意し、できる限りのことをする。これを生涯貫けばそれは立派な愛であり、振り返れば運命の人だったと言えるだろう。

誰かを愛するということは激しい感情ではなく、決意であり決断であり約束である。他者を愛することで共同体感覚と貢献の場を持つことができる。そうすることで多くの人が考える幸せに到達できるはずである。

学んだこと

特に印象に残ったのは「愛は意思によって何もないところから築き上げるものである」という一文である。

この本を読む前は「運命の人」を信じていたが、本を読んで運命の人がいないのではなく自らの行動が足りないから運命の人がいなかったと思えるようになった。

ゲーム『バイオハザード』シリーズにハンクというキャラクターがいるが、彼の代表的な名言は運命に関するものである。

ここは戦場だ…運命は自ら切り開け…

ゲーム『バイオハザード』 ハンクの名言

運命は決まっているものではなく、自ら切り開くものである。
過去は変えられないが、現在は変えることができる。
現在の行動が未来を作るから、転じて運命を変えることができる。

今できることを積み重ねることで未来をよりよいものにしていくことにする。

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