界のカケラ 〜92〜
五分、十分は経っただろうか。それともまだ一分程度しか経っていないだろうか。時間の感覚がなくなっていた。情けない姿をさらけ出しているのは重々承知しているが、こればかりはどうしようもない。分かっていても体が動かないし、扉を閉めて逃げたいけれど、それも体が動かないからできない。
もうこのまま動けないのではないかと思った。
「かおるちゃんなら大丈夫だよ」
頭が一瞬痛くなったのと同じタイミングでゆいちゃんの声が聞こえたような気がした。その声に励まされたように、体の緊張が解けて軽くなったのを感じた。
今までの硬直感が嘘のようになくなり、自然と足が窓際にいるあの人のベッドの方に向かって下を向きながら歩いていた。歩くことを意識していないのに足を前に出して行く動作を別人になったかのように俯瞰的に見ている私がそこにいた。
あの人のベッドの側に着いた。下を向いたままでもわかる。なぜなら私が頭を打った時に見た床のキズがそこにあったからだ。一瞬、あの時の光景がフラッシュバックのように浮かんだが、あの時感じた怖さは感じなかった。自分の中で踏ん切りがついていたようで安心した。
ゆっくりと顔を上げると、あの人は不機嫌そうに私を見ていた。
私にケガをさせた患者は日向 楓という女性だ。自宅で首を切って自殺を図り救命に運ばれたのを私が治療した。包丁で首を深く切っており、出血多量で死んでもおかしくなったほど重症だった。ためらい傷がなかったので、本気で死のうとしたことがうかがわれた。
このような患者には細心の注意で接しなければいけないことは分かっていた。それを承知の上で対応をしていたはずだったのに、どこかで彼女の逆鱗に触れてしまったのだろう。それが私を突き飛ばして頭にケガを負わせることに繋がってしまった。
彼女ともう一度きちんと話さないことには先には進めない。いや、それは私のエゴだろうか。彼女は死ぬことしか道がないと思い込んでいるのは明白だ。しかし、この十一日間は目立ったことをしていなさそうに見えた。あの日のことを彼女なりに悪いと思っているのだろうか。たとえそうでなくとも何か思うことがあるのだろう。
「今日は何をしに来たんですか?」
私が話しかけるより先に、喧嘩口調で口を尖らせながら彼女が話しかけてきた。
せっかく先手必勝で私から話しかけて主導権を握ろうとしたのに、逆に握られてしまった。しかしここで動揺するような私ではない。以前の私であれば動揺してしまったはずだが、昨日の経験に比べたら大したことはない。
「頭の怪我が良くなったので、日向さんの様子を伺いに来ました」
先手を取られた悔しさも加味して、少し皮肉まじりに答えた。大人げないとも思ったが、怪我をさせられたのだし、これくらいは許してほしい。それに私がこう答えたのは、彼女に生きようとする張り合いをつけるためでもある。
「あっ……」
彼女は少し申し訳なさそうな顔をしながら下を向いた。
どうやら私のことを覚えていなかったらしく、ケガをさせたというくらいの認識しかなかったのだと思われる。私も記憶が少し飛んでいる部分があるのではっきりしないが、自分の名前を彼女に伝えて縫合箇所の確認をしようとしたときに突き飛ばされた。そのすぐ後に、目を釣り上げて罵声を浴びせてくるほど怒りを露わにした。それまでは目の焦点が合わず、俯いていたので何も聞こえていなかったのかもしれない。そのため首に手をかけた瞬間に反射的に怒りのスイッチが入ってしまったのだと思われる。
気が動転していれば記憶に残らないのも無理はない。ここは冷静になって、皮肉も入れずにいつも通りに接することを心がけることにした。
「その様子だと私が誰かわからないようですね。
改めて自己紹介をしますね。私はこの病院の医師で四条 薫と申します。日向さんが救急車で運ばれた時に治療に当たったものです。今のご気分はいかがですか?」
「そうでしたか…… 四条先生が。
あの…… 頭の怪我、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ。気にするほどでもありませんよ。頭痛はしばらく続きましたが、脳には影響がなく、入院して安静にしていたら治りました」
「それなら良かったです。こんな自殺をしようとした私を治療してくれたのに失礼なことをしました……」
「あのようなことをされたのが初めてだったので驚いてしまいました。
でも今こうして落ち着いて話せているなら、少しは気持ちの整理がついて来たようですね」
「はい。なんとか……」
静かに言葉を選びながら話す彼女を見ていると、よほどのことが起きたのだと察した。あの時の怖さは微塵も感じられなかった。ベッドに座っている日向さんはどこにでもいる普通の女性で、小柄な体に耐えらないほどのことがあったのだろう。本来ならば会う頻度を多くして心の壁を少しずつ崩さなければいけないが、私が職場復帰したらゆっくりと話す時間が限られてしまう。できれば今日か明日までには日向さんの背中を押せるくらいまでにはしたい。そう思わせるほど、今の彼女には危うさが感じられた。