界のカケラ 〜117〜
たった二階上と三部屋しか離れていないのに、恐ろしいほど遠くに感じる。昨日はあっという間に生野さんの部屋から私の部屋まで着いたのに、今は無限回廊のようだ。歩いても歩いても一向に着く気配はない。
気の早りが感覚をおかしくしているのを冷静に受け止めていた。それが余計に感覚をおかしくしていることにも気づいていた。ただ私にはどうしようもなかった。
階段を駆け登っているときに足を引っ掛けて転びそうになったが、なんとか踏ん張り二階上の階段まで登りきった。
階段の上にはさっき話した水野さんがいた。
「水野さん、生野さんはどのくらい食べられましたか?」
「それが全然食べていません。
食欲がないようで、スープの汁だけを少し飲んだ後、お膳を下げてくれと言われました」
「そうですか。昨日、外でたくさん話したから疲れているのかもしれませんね。お年もお年ですし」
「そうだといいんですけどね……
この二年、配膳の係をしていますけど、今日のような状態は初めてで心配です」
「私もです。最初に体調を診て、安静にしていた方が良さそうなら話をせずに戻るつもりです」
「そうですね。よろしくお願いします」
「はい」
そう普通に答えてみたはいいけれど、内心は不安と心配でいっぱいだった。高齢になるとちょっとした風邪や熱が命取りになる。その場面を何度も見てきたので、今回のことは直感的に危ないかもしれないと感じている。
水野さんと別れて、生野さんの部屋へ足早に向かった。
コンコン……
少し強めにドアを叩いたが返事は聞こえなかった。
コンコン……
少し待っても返事は聞こえなかったので、静かに戸を開けて、寝ているようだったら時間を置いてまた来ようと思った。
「失礼します。四条です」
そっとドア開けながら、囁くような小さな声で挨拶をした。
ドアを開けた先には、ベッドに横たわっている生野さんがいた。起きる気力はなさそうで、首だけをなんとか私の方に傾けた。
「四条さん、来てくれたか。
申し訳ないが、こっちまで来てくれないだろうか」
昨日聞いた声とは違い、聞き取りにくくはないが弱ったような声をしていた。
「はい。わかりました。今そちらに行きますね」
ゆっくりと歩きながらベッドのそばにある椅子を開き、生野さんに向き合う形で横に置いて腰掛けた。
「生野さん、具合はいかがですか?」
「体が重くて、動くのが億劫なくらいだな。他はいたって普通だよ」
「そうですか……
でもご飯をほとんど食べていないと配膳の方が言っていたので、熱だけないかだけ確認させてください」
ベッド横の備え付けの棚の上に耳で測る体温計が置いてあった。それを生野さんの耳に当てた。
「ああ、すまないね」
ピピッ! 静かな部屋に電子音が鳴った。
「三十七度三分です。少し熱が高いですね。
お話があるとのことでしたが、明日以降にしましょうか」
「いや、今でいい……」
「ベッドの背もたれを少し上げてくれるかな」
「はい。ちょうど良い高さになったら教えてください」
布団の上にあるリモコンを手に取り、ベッド下から伸びているリモコンを操作した。
「ああ、このくらいの高さで良い。ありがとう」
「どういたしまして」
この一連の仕草や言葉を発する力強さが昨日とは全く違っていたことに、私はもしかしたらという疑念が確信に変わりつつあった。医者として何度も経験してきたことだけれど、身内以外でこんな気持ちになるとは思わなかった。
それは昨日話したということだけではなくて、何かもっと大きなものと一緒だった頃からのような、不思議な感覚が胸の奥で動めいていた。