界のカケラ 〜104〜
「でもね、先生……
そんな私に優しくしてくれる男性ができたんです。最初はからかわれているのだろうと相手にしていなかったんですけど、何度も話していくうちに彼の純粋さと優しさに惹かれている自分に気づいたんです。
私の生い立ちや境遇も全て受け入れてくれて、それでも一緒にいたいと言ってくれたんです」
「それがご主人ですか?」
「はい。いつも優しく、家族第一の人で、息子のこともたくさん可愛がってくれました」
「良い夫であり、良いお父さんだったのですね」
「ええ。私にはもったいないくらい」
「そんなことないですよ。
日向さんを選んだんですし、日向さんもご主人を選んだんですから。
そういえば私、一度もご主人を見ていないんですけど、お見舞いに来られましたか?」
「……
いいえ。見舞いには来ていません」
「お仕事が忙しいんですかね、たぶん」
「いいえ」
「じゃあ、どうしてですか?」
「主人は亡くなったんです……」
「え……」
「つい一ヶ月ほど前です。
いつもと変わらず仕事から帰って来て、お風呂に入ってから夕食を食べていたんです。そうしたら急に頭が痛いと言い出して椅子から崩れ落ちたんです。急いで救急車を呼んで待っていたんですが、徐々に呂律が回らなくなり、意識がなくなりました。
病院に運ばれても意識は戻らず、一度も目覚めることなく三日後に息を引き取りました」
「死因はおそらく脳梗塞ですね」
「はい。息子を亡くしてから二人で健康には気をつけようと話し合い、食事や生活習慣を見直してようやく習慣づいた頃合いでした。まだ四十歳になったばかりで、タバコは吸わず、お酒もほとんど飲まない人でした。若い頃にサッカーをしていて、社会人になっても仲間内で集まって試合したり、トレーニングも続けていました」
「そんな方なのになんで……」
「息子の死が精神的に影響していたのか、そもそもの寿命だったのか」
「……」
「……」
「息子さんと旦那さんを亡くして辛かったのですね……」
「はい……」
「それで自分の命までも」
「ええ……
もう私の中で限界でした。
一年も経たずに二人も亡くして、私にはもう何もありませんでした」
「でも……」
「おっしゃりたいことはわかります。
でもどうしようもなかったんです。
家の中は闇で埋め尽くされたように静まり返って寂しくなりました。
義理の両親からは気遣われ、その気遣いが次第に鬱陶しくなって……
気を紛らわすために外に出れば、親子の仲睦まじい声が聞こえてくる。それがどんなに苦しいか想像できますか?」
「それは……」
「できないですよね。本人ではないんですから。
誰も分からないんです、私の気持ちは。
一歩間違えれば親子連れの人に襲いかかってしまいたくなるんですよ。でもそれをしてしまえば相手に迷惑をかけるし、亡くなった主人と息子に顔向けできなくなるから必死に耐えて抑えてきたんです」
「……」
「だからもうこんな苦しいところから抜け出したかったんです。
ずっと辛い思いをしながら生きてきて、ようやく掴んだ幸せさえも取り上げられる人生なんかいらない。
そう思っていたら、気がつかないうちに包丁を握りしめていました。
もう終わりにしようと。私は十分頑張って生きてきたと。
それで首を一気に切りました。
勢いよく。
できるだけすぐに死ねるように深く、力いっぱい」
そう言いながら力強く固く握った手を机に強く叩きつけながら、肩を震わせて泣いていた彼女に私は何も言えずに見ているしかできなかった。