界のカケラ 〜108〜
ゆいちゃんと話していることで、なんとかここでの意識は保ったままでいられる。しかし気を抜くと足元から気持ちよくなって力が抜けていってしまう。早くここから出なければいけない。
「ねえ、ゆいちゃん。どうやったらここから出れるの?」
「私は自由に行き来できるけど、かおるちゃんの場合はどうなんだろう?
とりあえず生きたい! 戻りたい! って思えば帰れるんじゃないかな」
「とりあえずって……」
「だって初めてのことだから分からないんだもん」
「そうだよね。
じゃあ、言われた通りにやってみるね」
目が開いているか分からなかったけれど、いつもと同じ体の感覚で目を閉じ、静かに言われたことを強く願った。
「うまくいったかな?」
恐る恐る目を開けてみると、まだ下を見ている彼女がいた。どうやらほとんど時間は経っていないように思えた。
「気づかれないで良かった……」
座っている姿勢のまま、体の感覚があるかどうかを確かめた。
「手足の指も動くし、頭も動く。
どうやら無事に戻れたようだ……
あのまま戻れなかったらどうしようかと思った……」
音を立てないように立ち上がり、お湯を注いだカップに手を伸ばした。
「熱っ!」
うっかり取っ手ではなく、縁自体を持ってしまった。そのせいで声が出てしまった。
「え!」
驚いた彼女が体をビクッとさせて顔を上げた。
「あ、すみません。カップの取っ手を持つつもりが、考えごとをしていてカップ自体をうっかり持ってしまいました」
「やけどしませんでしたか?」
「ええ、大丈夫です。
少し落ち着きましたか?」
「はい……」
「新しい紅茶を入れましたのでどうぞ」
「ありがとうございます……」
熱めの紅茶を息で冷ましながら飲んでいる仕草と表情から、まだ冷静にはなれていないが徐々に元に戻ってきているようだった。
「日向さん、私がこんなことをいうと変に聞こえるかもしれないですけど、首を切った後のことを覚えていますか?」
彼女はカップに口をつけながら、目をギョッとさせて私の顔を見上げた。
「え? 急になんでですか? 先生らしくないことを聞くんですね」
「すみません。変ですよね急に。
そんなこと覚えてないですよね。覚えていても思い出したくもないですよね」
「いえ、別に……
ただ、なんで先生がそんなことを聞きたいのか不思議に思って」
「話したくなければいいんです」
「話したくないというわけではないので構いませんよ」
「それなら話してくれませんか?」
「はい。そこまで言うのであれば。
そうですね……
首を切った時はすごく痛くて、熱い感じがしました。それに痛みが強くて、すぐに気持ち悪くなりました。同時に血が首の深いところから波打って出てくるのが感じられました。どんどん流れていくのが分かるにつれて目が霞んでいきました」
「……」
「切った左側から体が冷たくなっていき、体も動かなくなりました。そしていつの間にか目を閉じていました」
「なぜ目を閉じていたとわかったのですか?」
「私の名前を呼ぶ声が聞こえたんです」
「それは誰だったんですか?」
「亡くなった主人の母です」
「え?」
「重い瞼を力一杯開けて、薄めで見たら目の前に義母が慌てた様子で叫んでいました。
何でこんなに叫んでいるんだろう? って思いながら、少し下を見たら血だらけで、『ああ、私首を切ったんだ』って、思い出したんです」
「……」
「そのあとは意識がなくなったようで、気がついたら病院のベッドに寝ていました」
「それがあの日だったのですね」
「はい……
まだ意識がはっきりせず、目もまだ霞んでいて見えづらい状態でした。
それで急に何かが首元にきたので振り払ったら、何か色々なものが落ちる大きな音がして……」
「それが私だったと…….」
「はい。まさか人が倒れるほど振り払ったつもりはなかったんですが……」
「無意識だったのでしょうね。人って意識的に百パーセントの力を使わないようにしているので、あの時はそのリミットが解放されて、自分が思うより強く力を使ってしまったんでしょう。
これでで私が倒された理由がようやく分かりました」
「何度も言うようですが、本当に申し訳なかったです」
「いえいえ。私が何か痛いことをしてしまったのではないかと思っていたのです。傷口に力をかけすぎてしまったから、痛がって振り払ったのだと」
「全然です。痛いと感じる以前の問題ですから。
それに変ですよね。あれだけ死にたかった人間なのに、自分の身を守ろうとしたんですから」
「それが人間の生きようとする防御本能ですからね」
私が聞きたかった答えとは違っていたけれど、即死でない状態だとある程度までは体の状態を把握しているものなのだなと思った。
でもさっきの話を聞いて疑問に思ったことがある。彼女がどうやって発見されたかだ。彼女は自宅から救急車で運ばれたと聞いている。呼んだのが義理の母で間違いないだろうが、どうやって発見したのかだ。
彼女は首の動脈を切っているほど深い傷で、出血多量で死ぬ確率は著しく高い。いくら圧迫止血などの応急処置をしたとはいえ、救急車が家について病院まで搬送されるまでの時間を考慮しても死亡する確率は八十パーセントを越えてくる。
私の記憶が正しければ、搬送時には出血性ショックは見受けられなかった。輸血パックも通常より少し多めなくらいで、緊急に増やす必要はなかった。これらのことを考慮に入れると、彼女が首を切ってからすぐに発見されたと考えるほうが自然だ。
彼女には酷かもしれないが、もう少しだけ深く聞いておきたいことが出てきた。別に私は探偵ではないし、推理を好きでやってているわけでもない。
ただ彼女が私を怪我をさせたことでゆいちゃんと再会して、生野さんや市ヶ谷さんの不思議な体験をすることになった。もし彼女がそうしなければ、今の私は今までと同じようにしていたわけで、そこには何か見えない縁というものがあるのだろう。
超現実主義の私を変えるきっかけを与えた彼女にもう少し踏み込んでいくことにした。