界のカケラ 〜120〜
今になって自分が医者になる決心をつけた頃を思い出すとは思わなかった。忘れていたわけではないが、あの頃の私はまだ弱かった。
いや、今も弱いのは変わっていない。弱さを隠す方法がうまくなっただけだ。
経験を積めば積むほど隠す方法が多くなり、自分でも気がつかないうちに弱さ自体を否定してしまう。弱さを出せることが強いことだと誰かが言っていたが、その強ささえ仮初めのものかもしれない。
別に強くなくていいのだ。
生野さんも強いわけではない。ただ自分本来の姿でいるだけだ。それこそが本当の強さというものだと勝手に思っている。
「どうしました? 私の顔をじっと見て」
色々なことを思い出し、考えていたら、無意識に生野さんの顔を凝視していたようだ。
「あ、いえ……
さっきの見守っていく約束をしたときに、私がこの病院に来るきっかけのことを思い出していました。それには亡くなった祖母が関係していまして」
「そうか……
悲しいことを思い出させてしまったな。すまない」
「当時は悲しかったですが、今になってようやくここに来た意味が分かったような気がします」
「その意味とはなんだろうか」
「私、医者になるのを一度止めようとしていたのです。
まだ医学部六年の時に、祖母が倒れたのに応急処置もできず、怖くて動けなかった自分が不甲斐なくて。なんのために医学部に入ったのだと。身内の一人も助けられなくて医者になんかなれないと」
「先生ほど向いている人はいないと思うがな」
「あの頃はやる気も出なくなっていました。
でも、祖母の葬式の時に、院長先生に会ったのです。祖母の幼馴染で、ずっと交友関係は続いていたみたいです。院長先生から、祖母は私の自慢をしていたようで、その繋がりからこの病院で働かないかと言ってくれました」
「……」
「それでも迷っていたので、全部そのことを伝えました。たぶん汚い言葉も使っていたと思います。
でも全て吐き出したらスッキリしました。その顔を見ていたかは分かりませんが、何も言わずに『うちで働きませんか?』と言って、契約書みたいのを渡され、サインしました。
これがこの病院に来るきっかけでした」
「そういうきっかけがあったのか。なんとも不思議な縁だったのだな……
この街へ来るようになっていたのかもしれないな」
「はい。ですが、その意味は昨日まで分かりませんでした。
毎日、知識と技術の習得、手術、ケアの連続で、ここに来た意味を考える時間もありませんでした。そんな日々に疲れていたのでしょうね。肉体だけでなく精神的にも。
そんな矢先に頭に怪我をする事件があって、色々と考えさせられました。その中でも昨日の生野さんと市ヶ谷さんと話したこともそうです。
他にも話したいけれど話せないのですが、それらを通して気付かせたいものがあった。それがここに来た意味だったのだと思います」
「その意味には、あの音も含まれているのかな?」
「はい。他の人の音が聞こえたのは初めてでしたけど、自分の音を聞いたから信じることができ、意味もわかりました。その意味が真実なのかは分かりませんが、感覚とし当っていると思います」
「私もその感覚は当っているよ。死が近くなっている私が言うのだから」
「そうですね」
「悲しいと思わないのかな」
「もちろん悲しいです。寂しいです。
でも死を受け入れている生野さんを前にして悲しいと思うのは、生野さんにとって本意ではないでしょうから。だから私は感謝と安らかな眠りになることを願って見送ります」
「さすがは四条さんだ。
私はあなたに看取られることで幸せな最期を迎えられそうだ」
「ありがとうございます。
でもまだ話してないことがあるので聞いてくれますか?」
「ああ、聞かせておくれ」
私はゆっくりと生野さんと別れた後のこと、怪我の原因となった患者さんとのわだかまりを解いたことや真相を丁寧に思い出しながら話した。
その話を生野さんは回数は少ないが、うなづいて聞いてくれた。