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界のカケラ 〜93〜

「首の傷はまだ痛みますか?」

「まだ少し…… ですが今朝、外科の先生が回診に来てくれて、皮膚のつれも炎症も起こしていないので、あとは自然に治るのを待ってから抜糸すると言われました」

「それを聞いて安心しました。縫合した私が縫合箇所をその後見れなかったので、ずっと心配していたんですよ。首はよく動かす箇所ですし、人目にもつきやすいので縫うのに神経を使いますから。それに女性なので傷をなるべく残したくありませんでした」
 
「そこまでしてくれたのですね。それなのに私は……」

 彼女はまた俯いてしまった。このような処置は男女問わずやるのだが、特に女性にはいつも以上に神経を使って縫合し、術後のケアを念入りにする。同じ女性として傷跡を残したくないのだ。傷跡一つで人生を変えてしまうことがあるという話を聞く度にやるせない気持ちになる。男性にとっては傷跡は勲章みたいだが、女性にとっては傷跡は傷跡でしかないのだと私は思っている。

 縫合技術を医学生の頃から磨いていた。縫合の方法や縫い方など毎日欠かさずやっていたおかげで、その腕を買われて救急救命科に呼んだと久留米科長から直接聞いた。研修医の時に速さと正確性を見たようで、外科も欲しがっていたところを無理やり抑えたのだと配属後の歓迎会の時に教えてくれた。

 あの怪我をした日に縫合箇所を見ることができなかったが、こういった背景があるので化膿することは最低限ないだろうとは思っていた。ただ、つれる状態は人によって違うので心配だったが、それも経験から計算していた。結果的にすべて順調だったことから私は自分を褒めた。

「首を切るということは、本気で死のうとしていたのですね……
 今の日向さんの様子を見ていると、また同じことをするようで、このまま黙っていることはできませんでした。正直に言って、私はここに来るまで怖かったです。もしかしたらまた同じような目にあわされるかもしれないですし、あの時間じた恐怖をずっと感じていました。

 実はあれから毎日病室の前に来ていたんです。でもどうしてもドアを開けることができずにいました。ドアに手をかけることができないときもあったり、毎日毎日、時には同じ日に何度も病室の前に来ては引き返していました。ですが昨日あることがあってから、今日こそは傷跡の確認と日向さんの様子と事情を聞けるはずだと思って、ようやくドアを開けて会うことができました」

 自分では普通に話していたけれど、声は震えていただろう。

「…… はい。仰る通りです。私はあの時、本気で死のうと思っていました」

「やっぱり…… 首の傷の深さからそうだと思いました。ためらい傷もなかったですし」

「私ね、もう生きる気力がないんです。失うものもすべてなくなってしまった……
 生きていても虚しいだけで、悲しくても泣けなくなったんです」

「日向さん…… 日向さんに何があったのですか? 差し支えなければ話していただけないでしょうか。日向さんが少しでも楽になるなら、私は力になりたいです」 

「それは……」

「あ、ここでは他の方がいるので話しづらいですよね。もしよければ私の部屋まで来ませんか? 個室なので気兼ねなく話せますよ。それに少し歩いたほうが気持ちが紛れますし、怪我の治癒にもなりますから」

「えっ? なんでまた私を?
 四条さんに怪我をさせた張本人ですよ。嫌われることはあっても、自分の部屋に招き入れるような人間ではありませんよ。申し訳ないのですが遠慮します」

「だからこそです。日向さんは人を故意に傷つけるような人ではないことが話していてわかりました。ずっとここにいても考えていることは同じだと思うんです。だから私の部屋にきて、美味しいお菓子を食べて、一緒に話しましょう!」

「いえ、ですから私は……」

「そんなこと言わずに! 私に怪我をさせた罪滅ぼしだと思って付き合ってください」

 私は有無を言わさずそばにあったスリッパをベッドのそばに揃えて置き、彼女の腕を引っ張っり上半身を起こした。布団をめくり、両足をベッドからおろし、スリッパの上に置いた。そこからは強引に立たせてスリッパを履かせ、背中を押しながら病室から出した。

 はっきり言ってここまでやるのはかわいそうだと思った。それに医者の越権行為というのであろうか、やりすぎだと思った。だけどあの様子を見ていると、他の看護師や医者は慎重になりすぎて遠慮がちになっているはずなのだ。だからここで思いっきり針が振れるようなことをしないとダメな気がした。もちろん誰にでも通用することではないし、仮に最初にあった時の市ヶ谷さんの様子で今回のことをやってしまったら逆効果である。日向さんだからここまでする必要があったのだ。

「あのー 私はどこまでこの状態でいればいいんでしょうか?」

 私に背中を両手で押されている日向さんは、半分呆れた様子で話しかけてきた。もう観念したようで抵抗はしないでいてくれた。

「一つ上の階です。目の前の階段を上がって三つ目の部屋ですよ」

「そうですか。自分でそこまで行くので、そろそろ背中の手をどけてもらってもいいですか?」

「わかりました。無理矢理連れてきてしまって、すみません」

「本当ですよ。全く……. 何を考えているんですか。私は入院している患者ですよ?」

「私もそうですよ。あ、でも今は患者でもあり、医者でもあり、一人の人間でもありますよ。あのまま病室にいたままで、傷だけ治って退院されても私は嫌なんです。だって、まだ根本的な日向さんの傷は治ってないんですから!」

 そう言うと彼女は下を向いてしまい、無言のまま階段を上がっていこうとした。少し押し付けがましかったかなと少しだけ反省した。

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akira
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