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界のカケラ 〜79〜

 「でもおかしいわね。いつもなら気になることは真っ先にカルテに書いておくはずなのに」
 
 「そうですよね。他の先生方もそうですし、四条先生のカルテもいつも書いてありましたから。もちろん患者さんと向き合って、ほかにも気になることがないかチェックはするのですが、この患者さんのカルテだけ気になることが明らかなのに書いていなかったので、いつも書いている四条先生に確認したくて」

 「そうだったのですね。でもちゃんとチェックしているだけで素晴らしいです。まだ四年目の私に言われたくはないでしょうけど」

 「いえいえ! とんでもありません! 四条先生は私の異動前の病院でも技術だけでなく、患者さんとの関わりも素晴らしいと噂になっているのですよ。だからこの病院に異動の辞令が出たとき嬉しくて飛び上がりました!」

 「いつの間にそんな噂が・・・」
 
 「本人が知らぬ間に噂になっているから噂なのです」

 「これからは色々なことまで気をつけないといけないな。変な噂が流れたら嫌だから」

 「四条先生なら大丈夫です。院内の女性の憧れですから!」

 「それは大げさな・・・ その憧れが受け持った患者にはじき飛ばされて頭を打って入院ですからね・・・」

 「それを聞いたとき驚いたのです。あの四条先生が? って。私はそれを知らずに緊急救命室に挨拶に行ったのですが、四条さんはおろか、部屋に誰もいなかったんです。搬送されている人もいなくて静かなものでした。それで挨拶は次の日にしようと思ったら突然電話が鳴りました。

 誰もいなかったですし、担当の看護師ではないのですが、その時は絶対に出なければいけないと思いました。怒られるのを覚悟で電話を取り、薬を大量に飲んだ人を運びたいという連絡を受けました。勝手に受け入れてはいけないので、言われたことをオウム返しのように繰り返していたら、先生方が一気に部屋に入ってきて、内容を確認後に受け入れ許可が降りて搬送しました。なんでもその患者さん、いくつかの病院をたらい回しにされていて、遠くてもうちの病院で治療させてほしいと救命士の方がおっしゃってました」

 「え? その患者さんの名前覚えていますか?」

 「ええ、市ヶ谷さんという男性の方でした。ここに来る前に窓の外を見たら中庭にいらして、四条先生とお話しされていましたよね」

 「この病院に長く入院されている生野さんという方と話をしていたら、その話を隣で聞いていたのが市ヶ谷さんでした。そうか・・・ 深海さんがあの方を。」

 「そのあと気になって病室にも伺ったんですけど、また同じことをするのではないかと思うほど暗い印象でした」

 「ああ、市ヶ谷さんならもう大丈夫ですよ。色々なことを話して、生野さんの話などを聞いたら、一気に顔色が良くなって、暗かった印象も全然変わって、今じゃ明るい感じになりましたよ。明日にでも確認に行ってみてください。面白いくらいに変わっていますから」

 「そうなのですか! それなら明日確認に行きますね! ずっと気になっていたので、さすが四条先生ですね! 肉体だけでなく心の治療も出来てしまうなんて! ますます憧れます!」

 「いえいえ、そんなに褒められたものではないですから。たまたま偶然が重なっただけだから期待はしないでくださいね」

 さすがに深海さんにあの説明のつかない現象のことを話ても信じてくれないだろう。それどころか、頭を打ったことで変なことを言い出したと失望させるに違いない。憧れの存在でいるならば、その憧れをわざわざ自分が壊すことはしないほうがいい。世の中には話さなくていいことと、知らなくていいことがあるのだから。

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