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【大いにネタバレ有り】令和うる星やつらリメイクとFF7リメイクにみる「こういうのでいいんだよ」

鬼を刀で倒すことに人生をかける人たちのアニメもあれば、仙台弁を話す鬼”娘”に「浮気は許さないっちゃ」と追いかけ回されるラブコメアニメもある。ラブコメの原点にして頂点、うる星やつら である。

高橋留美子氏をして「最高のデザイン」と語るラムちゃんが主人公のアニメが、令和にリメイクされた。小学館100周年企画という肝いりプロジェクトがついに先日最終話を迎えた。おめでとうございます。おつかれさまでした。ありがとうございました。きっとこれは私が生きている間に触れることができる、うる星やつら最後の映像作品となるのだろうな。もうこんなことないんだろうな。

https://x.com/rumicworld1010/status/1803729513357992278

さて、先日FF7のリメイク2作目:RIBERTHをボロクソに書いてしまった私だが、その後もやはりそのために買ったPS5を二度と立ち上げることなく今日に至っている。うる星やつらと、FF7。メディアもジャンルも全く違うが、リメイクの手法としてとてもおもしろいタイミングで両者が重なったため、あれこれ語ってみたい。

1.制作陣のあり方

そもそも、高橋留美子による原作が存在し、これをアニメ化したのが今作:令和版および平野文演じる昭和版である。FF7は、PS1ででた初代のFF7を「オリジン」、令和FF7Rを「リメイク」的にここでは呼称しよう。

FF7オリジンはスクエアによるゲーム作品であり、いわゆるファイナルファンタジーシリーズの生みの親、坂口博信氏がプロデュースを努めた。ガンダムでいうところのファースト直系であるといえよう。FF7Rでは時代は変わり、スクエア・エニックスという企業に成長した同社が、さらに巨大なプロジェクトとしてこれを描いている。なお、スクエアはハリウッドに進出して「FINAL FANTASY」を制作、2000年に配給されたが、これが歴史に残る大コケを記録、坂口博信氏は責任をとり代表取締役会長らと共に副社長を辞任。やがてスクエアとエニックスが合体するというウルトラCが起きる。

以降、坂口博信氏は専属契約のエグゼクティブプロデューサーという立場となる。つまり、2000年映画以降のFFシリーズは厳密には原作者直系とは言えなくなったと捉えることもできる。ガンダムでいうところの、ファースト直系の歴史上にはあるが、富野監督が微妙に参加していたりいなかったりする「ガンダムNT」や「08MS小隊」のような存在…と言ったらよいだろうか。(異論は認める)周囲の者たちや企業による二次創作。「それが金になる」と分かったあとの、メンバーが食べていくための、ビジネスのための創作。FFだけではない。すべからく世の中のコンテンツはこうした運命にあるのだ。決して悪いことではない。

2.改変を許容する背景

両者で最も異なるのは「原作イコール制作陣か?」という点だ。「うる星やつら」はNOであり、FF7オリジンはYESであり、FF7リメイクはYES(butNO) である。

既に完結している原作が完全な状態で存在・君臨しているうる星やつらは、その改変の余地やさじ加減は原作者によって厳格に判断される。こと高橋留美子氏はかつて【(劇場版)うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー】を見、「あれは押井守さんのうる星やつらであって、私のじゃない」と語った…という話は、あまりにも有名。小学館・サンデーにとって巨匠:世界の高橋留美子氏の存在が絶対的であるがゆえ、リメイクにおいてこう言われないよう、当然意識してプロジェクトがすすめられたはずである。

FF7・FF7Rに関しては、原作者も制作陣も、全てスクエニの内部の人間であり、かれらのさじ加減ひとつでどうとでもなる体制がそもそも存在する。

2000年以降のFF制作体制にあってFFシリーズを「どこかつまらないもの」にしてしまったメンバー(それもコアメンバー)が、今作に於いても関わっている。事実、先日動画で配信されていた公式動画では非常に強固な体制が組まれつつ、巨大なプロジェクトであるがゆえの事業部制が組まれているとが分かる。「シナリオ」「バトル」「アート」…それぞれの「ディレクター」が存在する。ゲーム史に残るネットスラング「ファルシのルシがコクーンでパージ」を生むきっかけとなったメンバーが超重要なポジションを占めていることも分かり、どこかモヤモヤする。

FF7オリジンを制作したときの中心人物を失った企業としては、当然残ったコアメンバーで体制を組む。外部からリソースを確保してくる。その体制で、開発は鬼のように突き進んでいく。生みの親でありながら”外部の”ポジションとなってしまった坂口博信氏の意見や見解が、果たしてどれだけ必要とされ、反映されていたのか?どれだけ今作に於いて発言権をもっていたか?は、内部の人間以外には分からない。ゆえに、YES(butNO)と記載をした。

3.ファンが期待すること

リスクの考え方~こういうのでいいんだよ~
うる星やつらは、完璧に、間違いなく原作100%そのまま再現したものであった。余計な要素は入れない。令和の現代だからといって、携帯電話を登場させたりしない。喫茶店に入る高校生は「不良」であり「取り締まりの対象」である。きっちりそれを描き切った。これでいいんだよ。こういうのでいいんだよ。これは昭和の時代だからこそ描けた原作であり、その時代のお話なのだよ。そして、押井守監督のようなハチャメチャな原作改変やオリジナルキャラ(主人公以上に存在感のあるメガネとか)を登場させたりもしない。個人的には物足りなさを感じつつ(それっぽいキャラが登場しごまかしていたが)、原作を忠実に再現する というコンセプトが徹底していたと考える。改変=原作者の怒りを買うことこそが最大のリスクであったのだ。

FF7リメイクは、いくらでも原作者(と、原作者ポジを名乗ることができるコアメンバー)の改変の余地が生まれる。極端な話、「あったことを無かったことにする」選択だってやろうと思えばできる。先の動画では、様々なと場面で「古くからの(オリジンをプレイ済の)ファンと、新しいファンと」ということを語っているディレクターを見ることができる。

「オリジンをプレイ済のファンをどうやって驚かせるか?一方で、新しく体験するファンにもこの世界を楽しんでもらいたい。そのためのアイデアがとっても難しかったですね」

的なことを、しきりに語っている。「原作をなぞるだけ」ではつまらないだろう?というのが彼らの言い分であり、リスクと捉えたのかもしれない。ゲームゆえの考え方なのだろうか?「僕たちは皆さんの想いを分かってますよ」感満々でいるところが、なんだかしっくり来ない。

いや、たぶんあんたら、分かってね―だろ。

声を大にして言いたい。その判断は間違っている。僕らは(少なくとも僕は)別に「完成されたストーリーを破壊するような手法での新たな驚き」なぞ、全く求めてなどいない。


なぜ、何度も同じ小説を人は読むのだろうか?ということを、この人たちは考えたことがあるのだろうか?

私は松本清張の「砂の器」を、村上春樹の「ノルウェイの森」を、読み返す。何度も読み返す。それはなぜか?かつてその作品に触れたときには気づかなかった、新たな発見があるからだ。「犯人は誰か」をなんとなく思い出しながら作品に触れると、また違った楽しさがあるからだ。既に過去の時代のものとなってしまった時代背景であるがゆえのトリックや、人々の物の考え方に触れることができるからだ。初めてその作品に触れたときの自分を思い出すことさえできるからだ。

あなたは「砂の器:REMAKE」 を読みたいだろうか?「ノルウェイの森:2024」を手に取りたいだろうか?原作者がやるならまだしも、弟子や編集担当だった近いところにいたメンバーだから、という理由で、彼らの解釈で「ほら、こういう新しい驚きがきっと欲しいでしょう?」という改変がなされた作品を、楽しめるだろうか?スマホを駆使して時刻表を調べて、のぞみ号の時間をつぶさにしらべ殺人を企てる…そんな人の生き様に触れたいと思うだろうか?大学紛争など存在すら知らない、現代のFラン大学生が自殺したり、その元カノとのいざこざに触れたいと思うだろうか?そして原作者は間違ってもそんなことやらない。徳大寺先生とかの「間違いだらけの車選び」じゃぁあるまいし。

そういうことなのだよ。

きっと、この声は制作陣には届かない。届いたとして、既にFF7三部作目のシナリオはFIXしており、声優さんによるボイス収録も開始していると聞く。彼らが提供したいと思っている、「新たな驚き()があるFF7」の開発が、今も進んでいる。

新たな驚きの追加は、新シナリオを用意したりすることではないのだよ。もともとあった原作の、ほんのちょっとしたところが深堀りされて描かれていたりすることであってくれればよいのだよ。ピアノを弾くミニゲームがめちゃくちゃ増えていたり、チョコボレースがマリオカートばりのドリフトがキメられるようになっていたり、ジュノンのバーで…みたいなことが再発見されたり、体験できたり。海チョコボ、山チョコボ…かつての育成要素をそれぞれ新しい方法論で体験できるようになっていたり。こういった深掘りは大歓迎だ。

「原作で本当は描きたかったこと」が、CG技術と容量の成熟によって表現できるようになったのも、大歓迎だ。キャラクターの表情、街に迫りくるヘリの恐さ、迷ってしまうくらい「街」になったカームの町並み。もう一度行きたかったコスモキャニオンは、こうなっていたのか!そんな体験も大歓迎だ。

だが、原作で特に描かれていなかった、むしろなまじボイスで喋ってしまうがゆえキャラクターの感情面を余計に表現できてしまう追加要素というのは、はっきりいって邪魔でしかない。

誰だ?コスモキャニオンに「セラピーワークショップ要素を入れよう」と言い出したやつは。全く知らない第三者と輪になって「私は古代種です」とか言って、何が解決するのだ?あれはメンバーだけで静かにキャンドルを囲み、今後の行動に思いを馳せるだけでよかった。

誰だ?「探索要素を多めに入れましょう」みたいな判断をしたやつは?新しいエリアに行くたび、電話をかけてきやがるボーイスカウトがうざったくてしょうがねぇ。こちとら星を救う旅をしてるんだぞ?

誰だ?これみよがしの「伏線」であったり「並行世界がありますよーーー」な演出を入れ、ザックス生存ルートの存在なんかもほのめかしましょう なんてアイデア出したやつは。「終わる世界」を知っている”風”なエアリスのポジションなんて、ありえないでしょ。「前回のループ」を知っている人間がいるなんて正気の沙汰じゃないぞ。こんなの「新規ユーザー」のほうが逆にわからね―だろうが。

そういう点で、私はうる星やつらリメイクは大成功だったと思っている。2期3クール目からは作画の質が落ちた感がある回も無きにしもあらず、苦戦しているのかなぁ…と想いつつも、制作メンバーは本当によくやってくれたと思う。

私が見たかったうる星やつらは、これだ。

同じFF7リメイクも、あの大量のコンテンツを本当によく完成させてくれたと思う。何人のクリエイターが血反吐を吐いて仕事をしてくれたことか、本当によくやってくれたと思う。どちらにもお礼を言いたい。

が、私が見たかったFF7リメイクではなかった。それだけ。


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