文化財を愛でていきたい
何年も前,法隆寺に行った。伽藍は見事,雄大な時を感じる。再建とかは関係ない。そこにある歴史や風情を味わう。昔からそこにその存在,概念が存在することが見事なのである。1000年以上の時の流れを体験することはできないけど,感じることはできる。
玉虫厨子を見た。高校生の時に日本史資料で見たもの。本物を見る機会があるとは思っていなかった。そんな簡単に見れるものだとも思っていなかった。そして,思ったんだ。文化財を愛でていきたいと。隣には友人がいた。私の呟きに彼も共感してくれた。私の大切な言葉のひとつとなった。
古代史はロマンである。感じるしかできない。曖昧な部分が多い。多くの研究者のおかげで知ることはできる。実際にその場所に行ってみることもできる。実際にその場所で行われたのかは定かではないものも多い。解明できてない不思議なものも多い。でも,確かにあったようだ。そう感じることができる。
飛鳥にはロマンが詰まっている。昔からずっと変わらないのは山々ぐらいだろうか。昔といっても1500年ほど経つのだ。多少変わっているだろう。だから著しく変化の少ないものと言ったところだろう。人は生まれて死ぬ。創作物も時間と共に廃れていく。政治の中心は移動していく。時の権力者は変わる。価値観が変わる。言語が変わる。確かにそこは日本の中心だった。そこに生きる人たちにとっては世界の中心だったろう。今では田舎町の雰囲気を醸し出している。
残った文化財は時に破壊の対象になる。それは過去の権力者の象徴となり,現勢力に不満のあるもの,復古を望むものの集結の印になり得る。いつでも過去の文化は否定され破壊される。現代ではそれらを,保管し歴史として理解しようとしている。ある程度はそうなっているように認識している。
そこにあるのは”もの”だけれど,それらには歴史がある。歴史とは人である。文化財を愛でることは,これまで地球上で存在してきた人を愛することではないだろうか。