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本当に他人を理解することはできないみたいだ
ずっとどこかで思っていた。理解ってなんだ。ぼくはぼくのことを理解できているんだろうか。いろんな場面でいろんな自分がいる。それぞれは連続性を持っているように見えるけど,ばらばらで。でもすべてぼくであることに変わりはない。ちゃんと理解しているんだろうか。
新幹線でトイレに行く時,3つ後ろの席の女性と目が合った。特に知っている人ではない。席に戻る時は当然見えない。再びトイレに行くために席をたった。また同じ女性と目が合ったのだ。ぼくが彼女を見ているから,彼女がぼくを見ているから。どっちも正しくて,どっちも間違っている気がする。
人の見た目はあてにならないけど,人は見た目で判断するしかない場面が多すぎる。銀杏の木の下に座っていた女の子は,大人しそうな雰囲気だった。それは彼女の表情や着ている服から想像するしかない。そんな彼女の耳には大量のピアスがついていたんだ。
銭湯にはいろんな人がいる。でも,刺青の入った人はあまりみかけない。珍しいタイプの銭湯にはたくさんいるみたいだ。でも,彼らはとても親切だった。ぼくは勘違いしていた。だってそうだろう,みんながみんな恐ろしい人なんかじゃない。
待合室での会話は粗悪なものだった。ぼくは傍観者,関与はしていない。それでもすごく嫌な気分になってしまった。彼は結婚していて子どもが2人いるらしい。でも,夫婦の中は順調とは言えないみたいだ。彼はもう1人子どもが欲しいと言った。それはあの女,妻のことであろう,ではなくて誰でもいいから自分の子どもを産んでほしいそうだ。
相手に嫌がらせをするな,喧嘩してこい。そう彼女の母親は言っていた。ぼくの価値観では喧嘩で得られるものは特にない。その母親の価値観では,ずいぶん異なった考えにつながるようだ。ぼくは理解できないだろう。
自分が子どものときに思い描いていた世界は,おとぎ話ほどファンタスティックではないけれど,やはり一種のおとぎ話だったと言わざるを得ない。いつでも世界は私の理解が及ばない,これからも及ぶことがない人間どもで満ち溢れている。そんな世の中であと70年も生きる気でいるなんてどうかしている。
でも向こうに逝ったところできっと同じこと。苦しみの中に安らぎを求めて,今日もまた眠りにつくことだろう。