生命科学研究の論文の扱い方について
*AKIRAです。
本日は、少し違う視点から科学関連の話をしていきたいと思います。
生命科学研究の意義
一般の方が生命科学研究に対してどのようなイメージを持っていらっしゃるか分かりませんが、ポイントとなる視点は非常にシンプルです。
それは、「未だ、判明していない生命における事象や現象に、ある一定の科学的解釈をもって説明付けることでその事象が再現性をもつ可能性があることを証明する」ことです。
何を言っているのか理解できない方がいらっしゃるかもしれませんが、要は「こうかもしれない」という解釈の根拠をデータをもって主張するのです。
つまり、それらは可能性の積み重ねにすぎず、それがあたかも真実であると捉えることは過大評価であると言わざるを得ません。ゆえに、何かにつけて根拠根拠と確定的な材料を要求してくる輩がいるかと思いますが、無視してください。
私としてはこの記事について書くことはこれで十分だと考えているのですが、それではあまりに味気ないのでもう少し掘り下げようと思います。
真値
科学では、「これが正しい」と言えるだけの確定事象を証明することはほぼ不可能です。それはなぜかというと、我々人類はどれだけかかっても「真値」を求めることができないからです。
高校で、化学を習った人ならわかるかと思いますが、酸・塩基の中和反応も同じです。
水に溶かすと一分子当たり一個の水素イオンを電離する電解質を一価の酸という風に表現します。同じ要領で、一価の塩基(一分子当たり一個の水酸化イオンを放出)も存在します。
この二つの濃度が同じであれば、同じ体積分だけ混ぜ合わせれば中和反応が起こり、液体は酸性でも塩基性でもない中性になります。
…というのは、あくまでも教科書上の話ですね。
実際はこんなにきれいな値は出ません。
なぜかというと、酸塩基の中和反応実験をやっている間に、二酸化炭素などの気体が液体に溶け込むことによって実際のpHは変わってしまうからです。
ということで、こういう場合、文献などの値から理論式に則って導き出された値を理論値と表現します。
理論値と真値、実測値は厳密に区別されなければならない
たいていの場合、数字を扱った学問ではこれらの値は明確に区別されます。
理論値→定理などの理論式から導き出された値。
実測値→実験等で実際に得られたデータの値。
真値→その化学現象において、もっとも正しい値。
このように、得られた数値はそれだけ数字としてのレベルが存在するのです。
例えば、我々が実験を行って遺伝子発現量を検証した場合、そこで得られた値は実測値になります。
ここで勘違いしてはいけないのが、決して真値ではない、ということです。あえて、面倒なことをやることはないので普段はしないのですが、仮に同じ実験を10回繰り返して実施したとしても、一つとして全く同じ数字を得られることはありません。この時点で、それらの値は真値ではないのです。真値であるのならば、何回やっても全く同じ値が出力されるはずですので。
では生命科学研究ではどうか
残念ながら、生命科学研究においてほぼ確定的といえる生命現象を同定することは難しいでしょう。
その理由として、生命現象を観測する実験は、厳密な条件を決めてから実施することがほとんどだからです。実際、条件検討といって、検証を行う際の実験条件を決定するための実験をしてからじゃないと確立された研究モデルとして不十分になります。
しかし、現実はそんなに厳しい条件付けがされているわけではありません。
現実において性別を考慮して棲み分けが発生するわけでもなし、年齢だってバラバラ。実験においては、自分で維持できる継代細胞にしろ、生体サンプルから直接採ってくる初代培養細胞にしろプラスチック上にコーティングされた絨毯の上で飼う以上、その時点で生体内の環境とは乖離しています。
おまけにマウスやラットといった動物はほとんどが特定病原生物の検出されない特殊環境に置かれていて、生体としての機構が似ているだけで遺伝子発現制御や細胞の特徴などが人間とは異なっている。
結局は治験という形でしか、本当のところ人間においてどうワークするのかを理解することは難しいのです。
しかも、それですら再現が取れるかどうか怪しいものです。回数をこなしてどうにかなるものなのか、はたまた端から的外れな技術なのか。それすら吟味しなければなりません。
ゆえに論文で語られることはあくまでも可能性である
論文を読んでいく中で注意しなければならない点は、あくまでもそこに書かれている文章の内容は筆者による解釈込みの記述である、ということです。例えば、1.2倍程度の差が見られる二つの定量実測値の間で「わずか」に変化しているのか、「明らか」に変化しているのかは個々人の主観に大きく依存する観点です。しかも、これは割合の問題であり絶対量の問題ではありません。よって1.2倍という倍率は、元となるデータの大きさによっても大小が変わってくるのです。もちろん、統計学的な意味のある変化であることを確かめるために有意差検定を検証しますが、その変化がどの程度なのかは過去の比較することのできる材料がない限り客観的な分析は不可能です。
特に、一般的な概念の存在しない、まだ誰も検証していないようなことがデータとして載っている論文(リソース論文と呼ばれることもあります)は筆者の考察は、考察以上の意味を持ちません。こういったデータは一次データになります。
ゆえに、そこに科学的な知見やこれまで得られたデータとのすり合わせをすることが論旨を支持する根拠たり得るのです。
意識して読んでみると、筆者は意外と断定的な言葉を使っていない
まあ、実際に論文を読んでみるとわかるのですが、論文に書かれていることは基本的に「推量」です。
目で見てわかる変化(例えばFigureの図に書かれていること等)は「~だった」「~であった」という表現をしているものの、そこから考えられることについて筆者は基本的に断定的な表現を避けています。それは、筆者が逃げに走っているとかそういうことではなく、単純に論文でこういう表現をするのはお作法だからです。
まあ、冷静になって考えてみればわかることなのですが、たかが数cm^2~数十cm^2の面積上で飼っている細胞の動きがそっくりそのまま人間や動物、植物の体の中で再現されるかは、確かめてみないことにはわからないですよね?
同じ理由で、マウスの体の中で起こったことであっても、人間で同じようになるかはわからないですよね?
つまりそういうことです。
逆の発想で、「人口動態や公衆衛生学的な手法を用いて定量した分析データが、個人に当てはまるかどうか?」という点についても同じです。
大は小を兼ねない。
これが、生命科学研究における学術的思考です。
目で見えないから拓いていく
見たものしか信じない、聞いたものしか信じない。
それでも結構ですが、それは目や耳をふさいでいるのとそう変わりません。
見えないのであれば、開けばいい。
聞こえないのであれば、鳴らしてみればいい。
そこで十分な検証ができれば御の字。なければご縁がなかったということ。
結局は、研究における現実はこんなものです。
だからと言って、しないわけにはいかない。一方で、「なんでもわかるんだから検証すればいい」ということにもならない。
そういうことは、論理や倫理の観点で必要性を見出す必要があり、科学はそこまで万能ではない。
論文は、そういった研究者たちのジレンマや苦悩の末に作り上げられていくものなのです。
以上。少々難しかったかもしれません。この記事は、大学学部生向けですね。
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