『都知事の虚像~ドヤ顔自治体の孤独なボス』④都知事が日本の空気を決める
「お前、青島のところな。敗戦の弁、45行で頼む」…その日、都庁班の先輩からそう指示されて、私は少し早めに青島幸男氏の住む中野区内のマンションに向かいました。
青島氏は選挙にお金をかけない主義で、都知事選に限らず選挙期間中に街頭にはいっさい出ません。法定ビラも配りません。第一声は自宅のリビングの床にお互い座って、青島氏が報道陣に向かって立候補の抱負を語っていました。投開票日の記者会見はさすがに自宅というわけにはいかず、マンション内の会議室を借りていました。まだ明るい時間でしたが、会場はテレビカメラがずらりと並んでいました。
前から2列目の好位置に座った私は、午後8時過ぎに青島氏の当選をテレビで知りました。さすがに身震いしました。私はまだ入社1年目、選挙の取材は初めてです。本来、こんな場所にいてはいけないのです。失敗は許されない。このときの写真はしっかり1面トップで掲載されました。
会場に現れた青島氏は顔が引きつっていました。喜びの表情ではない。終始、堅い表情です。報道陣に「笑って」と言われて、次第に顔がほころんでいました。万歳三唱も、歓喜の表情ではありません。当選した、というより、当選しちゃったと言った方が正しい。政策らしい政策もありません。ハッキリしていたのは、都市博の中止だけでした。
しかし、これだけは確信しました。
確実に日本の政治が変わる。
これまで述べてきたように、都知事なんて広域自治体の一首長に過ぎません。にもかかわらず、メディアは連日、都知事のコメントを事細かに報じます。都知事選は北海道から沖縄まで、全国で報じられます。なぜ多くの政治家が都知事の椅子を目指すのか。歴代の都知事を振り返りながら、日本の政治にどのような影響を与えてきたのか考えてみます。
都知事選なのに都政が争点にならない
記者として四半世紀、9度の都知事選(4年に一度ではなかったことをお察しください)を取材してきましたが、都知事選なのに都政が争点にならないことにもどかしさを感じてきました。都政の専門紙の記者として知事選の前になれば、分野別に都政の課題を抽出し、分析していました。しかし、往々にして都知事選はそういう政策はほとんど議論になりません。
例えば、2011年以降の都知事選では「脱原発」を掲げる候補者が立候補しています。2011年に東京電力福島第一原発の事故で、原発の是非や再稼働が大きな問題となっていました。東京都内には原子力発電所がないので、都知事には再稼働の同意・不同意の権限はありませんが、東京は電力の最大消費地でもあり、発言が注目されていました。
しかし、都政の争点と言えるでしょうか。
冒頭に挙げた青島氏の初当選では、政党対無党派という対決構図がメディアによってあおられていました。当時は自民党政権ですから、国政の体たらくは第一義的には自民党にありますが、それと対峙する野党も含めて政党が悪いという論調が強かったのです。
これも、よくよく考えれば、都政とは何の関係もありません。地方政治は二元代表制なので、与党も野党もありません。仮に都知事が党利党略で動いたとしても、4年後の選挙で審判を下せばいいだけです。無党派の知事であっても、議会の力関係を無視して条例や予算を通すことはできません。
2017年の都知事選で、小池百合子氏は「自民党都連はブラックボックス」「都議会のドン」などと自民党を口撃して、初当選しました。これも考えてみれば、都政とは何の関係もありません。それでも、小池氏は都政で暗躍する悪者を仕立てることで、あたかも都政の対立軸がそこにあるかのように煽り、都民の支持を集めたのです。
このときは国政野党の候補者選びも混とんとし、メディアも政策そっちのけでドタバタ騒ぎを報じていました。
革新と保守、それぞれの時代をつくった都知事
都知事選で都政が争点にならない一方、その結果は全国に波及し、日本の空気を変えてしまいます。
美濃部亮吉知事は1967年に「ストップ・ザ・サトウ」をスローガンに掲げて初当選し、美濃部都政は革新自治体の先駆けとなりました。高度経済成長の歪みや公害問題の深刻化、高齢化社会の到来など、都市住民の不満が鬱積していた時代です。美濃部知事は、老人医療費の無料化やシルバーパスの創設、公営ギャンブルの廃止、公害防止条例の制定など、次々と政策を打ち出し、都民の人気を集めました。
東京での革新都政の実現により、全国ではドミノ式に革新自治体が増えていきました。例えば、都道府県レベルでは埼玉県、神奈川県、京都府、大阪府といった大都市部で革新知事が誕生しています。東京の中央線沿線では武蔵野市、三鷹市、国分寺市、国立市、立川市、日野市と、次々と革新市長が誕生しました。
これらの革新自治体は、高度経済成長の終焉による財政危機や社会党の右傾化に伴って、70年代後半になると相次いで保守自治体への奪還を許しました。
鈴木俊一知事は、革新から保守・中道へと地方政治の舵を切りました。高度経済成長が終わりを告げ、都政が財政危機に見舞われる中、行政改革を断行し、革新都政時代の高福祉を是正した一方、任期後半はバブル景気を背景に臨海副都心開発など大型プロジェクトを手掛けました。4期目には革新都政を支えた社会党が与党に転じ、オール与党体制が確立しました。
鈴木氏は、現在の都庁マンも憧れる地方自治の神様的存在です。なんたって地方自治法をつくっちゃった人ですから。その後の青島、石原、猪瀬、舛添、小池の各知事が都庁官僚から評判が悪いのは、常に鈴木知事と比較されるからです。
財政再建から始まった鈴木都政は、バブル景気で都財政が好調に転ずると、ハコモノ行政に偏重しました。現在の都庁舎もバブルの遺産です。臨海副都心開発は、まだ空き地だらけだったころにバブルが崩壊してしまい、破綻した3セクに都民の血税が投入される結果となりました。
こういった傾向は他の地方自治体も同じで、バブル景気で膨大な税金を投入した大規模プロジェクトが破綻し、自治体財政を苦しめました。
鈴木都政は日本全体に行革とハコモノ行政という二つの潮流をつくり出し、晩年はそれらに対する批判が政党政治に対する不信という形で広がっていくのです。
石原都政誕生前夜としての無党派旋風
青島幸男知事は、冒頭にも述べた通り「無党派革命」を全国に広めた人です。1995年に青島知事と同時に誕生したのが、同様に無党派を標榜した大阪府の横山ノック知事でした。全国にも政党の支援を受けない「無党派」の候補者が立候補するようになりました。
1980年代後半、国政での消費税導入やリクルート疑惑などで自民党が批判を浴びていました。そんな中、1989年の名古屋市長選や千葉県知事選ではオール与党で担いだ役人出身の首長が、共産党単独推薦の新人候補に4割超まで追い詰められるなど、オール与党政治に対する批判が強まっていた時代でした。
ところが、中国の天安門事件やソビエト連邦の崩壊、社会主義諸国の混迷は国民の反共意識を覚醒させ、批判票の受け皿は時には社会党、時には日本新党など非自民・非共産勢力に移り変わりました。それらの政党も一時のブームにしかならず、行き場のない怒りの波が行き着いた先が既成政党批判を軸とした「無党派」という潮流でした。
そして、その流れは次第に〝強いリーダー〟への渇望に変化していくのです。
強いリーダーへの渇望と日本の右傾化
石原慎太郎知事は元々は自民党の国会議員でしたが、1995年4月に衆院議員を辞職。4年後、都知事選に立候補し、他候補を大きく引き離して初当選しました。石原都政は、社会の右傾化、〝強いリーダー〟に対する憧れ、公務員叩き、ポピュリズムの台頭をもたらしました。
都民は強いリーダーの誕生に喝采を浴びせました。1期目はディーゼル車規制や横田基地の軍民共用化、東京外郭環状道路計画の凍結解除、財政再建など、危機感に裏付けされたスピード感のある取り組みを次々と進めていきました。
石原知事と同時期に国では小泉純一郎氏が首相に就任しました。森内閣の支持率が低迷し、自民党に対する批判が強まっていた時期、「自民党をぶっ壊す」とぶち上げ、自らの政策に反対する勢力を「抵抗勢力」と切り捨てました。小泉氏が街頭演説に立つと聴衆があふれ返りました。これもまた、〝強いリーダー〟を渇望した大衆が熱狂的に支持したものでしょう。
当時は全国で〝改革派〟知事が誕生しました。鳥取県の片山善博知事、三重県の北川正恭知事、宮城県の浅野史郎知事、岩手県の増田寛也知事、長野県の田中康夫知事など、個性あふれる政治家が果敢に従来型の地方行政にメスを入れ、改革を進めました。石原知事も含めて、当時の全国知事会は〝闘う知事会〟と呼ばれていました。
大阪府の橋下徹知事は、「石原流」を「橋下流」にアレンジした行政運営で人気を得ました。公務員叩きやマスコミとのバトル、ポピュリズム政治など、全盛期の石原都政ととても似ています。石原都政は全国の自治体にとってのプロトタイプとなったのです。
石原都政は同時に社会の右傾化という副作用ももたらしました。いわゆる「ネトウヨ」という言葉が使われ始めたのも、この時代でした。
石原都政になって、マスコミは知事発言の一字一句を文字起こしするようになりました。記者会見やぶら下がり取材が政治ショー化し、石原知事はそうした場を自らのイデオロギー装置として大いに利用しました。都庁記者クラブの記者会見場にはテレビカメラがずらりと並び、毎週、石原知事のパフォーマンスをメディアで発信しました。
こうした傾向は石原知事が辞任するまで続き、後の都政のワイドショー化へとつながるのです。
都知事を生け贄としたワイドショー都政の幕開け
猪瀬直樹知事と舛添要一知事は、任期途中で「政治とカネ」の問題で辞任に追い込まれました。もちろん、2人とも政治家としての脇の甘さは指摘せざるを得ません。しかし、果たして知事を辞めるほどの犯罪を犯したのか、私は今でも疑問に思っています。
猪瀬氏は徳洲会から選挙資金として5千万円を借りて、返すタイミングを失ってしまい、「賄賂」ではないかと疑われました。擁護するつもりはありませんが、公選法違反とはいえ、選挙資金収支報告書に記載していなかっただけのことです。報道等で指摘を受けて、修正する政治家などいくらでもいます。
舛添氏に至っては、辞任会見すら開かなかったので、何が辞任の引き金となったのかいまだに分かりません。これもまた擁護するつもりは毛頭ありませんが、あそこまでテレビや新聞、ゴシップ雑誌が総出でバカ騒ぎするほどの問題だったのでしょうか。確かに政治資金の扱い方には呆れてしまいましたが、誰も逮捕されていないし、起訴されていません。タレントのゴシップを扱うワイドショーで、アイドルの熱愛と同レベルで扱うような問題でしょうか。
結論としては、ワイドショーの視聴者に嫌われた。ただ、それだけのことでしかないのです。
猪瀬知事の疑惑が浮上した当時、毎週金曜日の定例記者会見はワイドショーのリポーターが席を陣取っていました。都庁担当の記者は会見や囲み取材などで猪瀬知事の言質を一つひとつ取り、疑惑の全貌に迫ろうとしていました。記者会見の時間は限られていますから、同じ質問の繰り返しにはしたくなかったのです。
ところが、外から入ってくるワイドショーのリポーターは違いました。彼らがやりたいのは疑惑の解明ではなく、〝猪瀬知事に鋭く切り込むオレ〟を映像に残したいだけなのです。だから、会見のたびに質問がゼロに戻ります。何度会見しても、同じ質問ばかり。無駄な時間を費やす。その割に疑惑には迫れない。会見は紛糾する。
その果てに借用書の印紙がどうだとか、封筒がどうだとか、重箱の隅をつつくような会見が繰り返されたのです。
結局、真相が明らかになってきたのは、都議会の総務委員会で猪瀬知事を参考人招致して一問一答の質疑が行われてからでした。
舛添知事の疑惑追及に至っては、ワイドショーの視聴率稼ぎに利用されていました。平日の昼間にテレビを観ている視聴者層のうっぷんのはけ口として舛添知事の疑惑が格好のネタだったのです。
繰り返しますが、猪瀬知事と舛添知事を擁護しようとは思いません。本人たちにも弁明があるでしょうけれど、いざというときに周りが守ってくれなかったのは、日ごろの自分の行いに原因があったのではないでしょうか。自業自得というと言い過ぎかもしれませんが、自己愛が強すぎて周りが見えていなかったのでしょう。
連日、新聞やテレビ、ゴシップ雑誌は、タレントや政治家など叩かれる理由のある生け贄を大衆に提供し、大衆はSNS等を通じて石を投げて留飲を下げています。都知事という権力者を生け贄にして、大衆監視の中でつるし上げるなんて、最高の政治エンターテイメントだとは思いませんか。都政がワイドショー化することで、記者会見という政治ショーは大衆の娯楽として陳腐化していくのです。
猪瀬都政と舛添都政は、ワイドショー都政の幕開けでもありました。
ワイドショーが生んだ小池都政
ワイドショー都政のなれの果てとして誕生したのが小池都政です。小池百合子知事はメディア選挙の申し子でした。ワイドショーが彼女をジャンヌダルクとして持ち上げ、都政史上初の女性知事を誕生させたのです。
しかし、築地市場の豊洲移転や東京五輪競技場見直しを巡って迷走を繰り返し、小池都政自身がブラックボックス化してしまいます。そして、2期目はそれまで小池都政を支えてきた都民ファーストの会が都議選で議席を減らし、自公主導の都政へと飲み込まれつつあります。
小池都政が日本の空気に与えたものは何か。まだ誕生して5年ほどで総括するには早すぎますが、私はこう捉えています。
〝改革派〟の挫折と自民党型長老政治への回帰。
青島都政以来の四半世紀にわたる迷走の結末が昭和の時代に置き忘れてしまったような古い政治への回帰でしかないとしたら、ずいぶんと空虚だとは思いませんか。
私は都政の正常化に必要なのは、〝石原的都政〟からの脱却だと考えています。小池都政も結局、権力の移行が行われただけで、〝石原的都政〟の延長戦に過ぎません。これを続けている限り、都民はいつまでも都政を舞台とした政治活劇に振り回されるのです。
次回から〝石原的都政〟とは何かを分析していきます。
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