『都知事の虚像~ドヤ顔自治体の孤独なボス』⑥石原都政の負の遺産
昨夜、東京23区や埼玉県で震度5強を記録するやや大きな地震がありました。読者の皆さんはご無事でしょうか。今頃、会社でひっくり返った棚や種類の束を片付けるのに忙しいのかもしれません。
東京都は「首都直下地震」の被害想定として四つのタイプの地震を想定しています。それは①東京湾北部地震②多摩直下地震③立川断層地震④元禄型関東地震ーです。これらは東日本大震災の教訓や新たな地震学の知見を基に策定された被害想定ですが、この4タイプの地震が発生するという可能性はむしろ低いと思います。
あまり知られていませんが、首都直下地震がどのような地震なのか、どのような繰り返し間隔で起きているのか、現在の地震学ではまだ解明されていないのです。ただ、相模トラフ沿いで発生する海溝地震(大正型関東地震)が発生するまでの間に、マグニチュード(M)7級の地震が南関東のどこかで必ず起きていることは確かです。
ところが、首都圏の地下は複数のプレートが潜り込んでいて、何層にも分かれていて、どこが地震のトリガーになるのか、どの位置が震源になるのか、まだよく分かっていないのです。
東京でまず必要なのは、真新しい高層ビル群の周りに密集している古い市街地の耐震化をいち早く進めることです。
石原知事は在任中、銀座に装甲車を走らせ、地下鉄大江戸線に自衛隊員を運ばせて、防災訓練を自衛隊のデモンストレーションに大いに活用してきました。しかし、2011年の東日本大震災を経ても、東京の古い市街地の耐震化は進んでいません。
都心の再開発で、対象地域での建物の耐震化はクリアするものの、林立する高層タワーマンションは首都直下地震が現実に発生した際のリスクとして新たに認識されるようになってきました。
大規模災害において自衛隊の圧倒的な〝戦力〟が必要であることは論を待ちません。とりわけ、首都直下地震のように広範囲に大きな被害が予想される災害では、一度にまとまった数の部隊を投入できる自衛隊のメリットは計り知れないでしょう。しかし、石原都政においては、あまりにもイデオロギー的に突出した防災対策ばかりに固執するあまり、肝心な都民レベルの防災力が自助・共助任せになり、行政としての減災対策がバージョンアップしてこなかったと言えます。
今回は、〝石原的都政〟がもたらした負の遺産に焦点を当てたいと思います。
実はNOと言えなかった石原知事
石原都政に対する誤解で多いのは、「石原都政には実行力があった」という考え方です。しかし、私は石原都政の13年間を見つめてきましたが、他の道府県知事よりも優れて実行力があったという認識はありません。むしろ、最初に派手な花火を打ち上げても、気がつけばとん挫していたり、政治的には大きな意味を持たなくなっていることが多いのではないでしょうか。
横田基地の軍民共用化は、石原知事が1期目から取り組んだ課題でした。
元々、1999年の都知事選での公約は「横田基地の返還」でした。石原氏の都知事選政策を読んでみましょう。
この政策のせいでしょうか。当時はリベラル・左派の都民も石原知事を一定程度支持していました。2003年の都知事選で、革新都政をつくる会が対立候補すら出さなかったのは、石原人気があまりにも高く、その政策が左派の人たちにも共感を呼んでいたからです。
ところが、この公約はふたを開けたら「基地返還」ではなく、「軍民共用化」に変質していました。
飛行ルート直下に当たる瑞穂町や昭島市は「軍民共用化」に反発しました。とりわけ着陸コース直下で騒音に悩まされる瑞穂町は、石原知事の就任直後に軍民共用化に反対する要望書を提出。同町議会も反対決議をあげます。町役場やJR箱根ヶ崎駅には「軍民共用化反対」の看板が掲げられました。
この方針は歴代の都知事に継承されていますが、実際に米国との交渉に臨んだのは石原知事が最後でした。都庁的に言えば、誰も「やめた」とは言わないから、何となく方針だけは受け継がれているということです。
軍民共用化による民間航空機の就航は、今も実現していません。そのかわり在日米軍再編の一環として2012年に府中基地の自衛隊航空総隊司令部が横田基地に移転し、「軍軍共用化」という中途半端なオチに落ち着いています。とはいえ、自衛隊の航空部隊が常駐しているわけではなく、「共用化」という言葉がふさわしいのか疑問です。
石原氏のベストセラーに、ソニーの創業者である盛田昭夫氏との共著『「NO」と言える日本』があります。出版は1989年。日本が巨額の貿易黒字を出す一方、米国が巨額の赤字を抱え、ジャパン・バッシングが吹き荒れていました。そういう時代に、大国アメリカに対して〝「NO」と言える日本〟を提唱したのです。
都知事選の政策も「NOと言える東京」でした。
しかし、石原都政の実態とは、首都のど真ん中にある他国の基地に「NO」とすら言えず、公約に掲げた「基地の返還」どころか、民間航空機の1機も下ろせていないのです。マスコミを引き連れて、多額の税金を使った豪華海外出張を繰り返し、米国の政府高官と会談までセッティングして、果たして効果などあったのでしょうか。甚だ疑問です。
地元の基地周辺市町の関係者まで巻き込んだ壮大な政治活劇の結末としては、あまりにもお寒いのではないでしょうか。
東京発の福祉改革として有名な認証保育所制度は、認可保育所の規制緩和という形で国に影響を与えたと言えます。しかし、それは裏を返せば、国が規制緩和をあっさり認めたことで、認証保育所の出る幕がなくなったということでもあります。
東京都福祉保健局の資料を見てみましょう。
2021年7月28日に公表された「都内の保育サービスの状況」によると、認可保育所の定員が31万3364人なのに対し、認証保育所は1万6718人です。認可保育所が都内の保育需要の大半を飲み込んでいて、認証保育所は認可保育所ではカバー仕切れない領域を埋める〝すき間産業〟と化しています。
しかも、認可保育所は毎年増えていますが、認証保育所は減っています。
石原知事が晩年、「国が認証保育所を認めないのはけしからん!」と怒っていましたが、そもそも国にとっては認証保育所など「認可外」の一部でしかなかったのです。
こうやって本質を外れて、国との闘いを前面に押し出して、マスメディアに発信させる手法は、石原都政以降の歴代都知事が好んだやり方です。こういう浮ついた行政運営に慣れてしまうと、大々的に打ち上げた花火が後になって〝負の遺産〟として都政の桎梏となるのです。
いつ爆発するか分からない都政の〝地雷〟
前回、辛うじて都のお荷物としては解消した新銀行東京の例を挙げましたが、その後の猪瀬、舛添、小池の各知事においても解決されていない石原都政の負の遺産を挙げてみましょう。
◆〝地雷〟として残る豊洲市場の土壌汚染問題
築地市場の豊洲移転は、石原知事のような発信力や政治力がなければ実現しなかったかもしれません。手狭だった築地市場を豊洲に移転したいという要望は、以前から業界団体から上がっていたものですが、東京ガスの工場跡地ということで初めから土壌汚染が懸念されていました。
案の定、2008年に専門家会議の下で土壌汚染の調査を行ったところ、一部で環境基準の4万3千倍というけた違いの濃度のベンゼンが検出されたのです。
タイミングは時期的に最悪でした。当時の野党第1党であった民主党は、都議選公約に「築地市場の強引な移転反対」と掲げました。折しも全国的に政権交代の風が吹いて、民主党は2009年の都議選で都議会第1党に躍進。翌年の予算委員会では築地市場の豊洲移転関連予算案の成立が危うい状態となりました。
都議会は空転を重ね、深夜に民主党が当局側と合意した決着が次の答弁です。
「和田委員」とは当時、移転反対を掲げて第1党に躍進した民主党の和田宗春都議(後の都議会議長)です。議事録では分かりにくいと思いますが、委員会は空転を繰り返し、このやりとりは既に深夜となっています。委員会を終えたのは、翌日の未明でした。
ここで東京都が「土壌汚染の無害化」を答弁し、その意味は「環境基準以下になることを指す」と述べています。和田都議は自分の口から「環境基準以下」と言ったわけではありません。それを口にしたのは東京都の幹部です。もちろん、この答弁は事前に石原知事に確認済みで、本人も目の前でこの質疑を見ています。
何気ないやりとりですが、このやりとりは後々にまで尾を引くことになりました。
つまり、土壌汚染を環境基準以下に下げないと、新市場が開場できないという枷をかけてしまったのです。この約束をさせた民主党は次の都議選で敗北し、第1党から転落し、質問した和田都議も落選しました。猪瀬都政、舛添都政で、都は一貫してこの答弁を反故にしようとしましたが、小池知事はそこを見逃さなかったのです。
開場を前にした豊洲市場に「地下空間」があることが発覚し(実は必要な空間だったのですが…)、敷地土壌からは環境基準を超える汚染物質が見つかりました。小池知事はこういう失点を見逃さず、大いに政治利用したのです。そして、都議会が石原元知事や濱渦元副知事らを百条委員会に呼びつけるという一大政治活劇が繰り広げられました。
そもそも東京ガスの工場跡地という土地で、生鮮食料品を扱う市場を建てようという発想自体、狂っています。そこにどんな利権が絡んでいたのかは分かりませんが。そんな土地で、土壌汚染を環境基準以下まで減らすなど無茶ぶりもいいところです。豊洲市場の地下水は、汲み上げて人が飲むわけではありませんから、排水基準で十分です。専門家会議ですら、環境基準以下まで水質を浄化するには時間がかかると考えていました。
そういう技術的な可能性を考慮に入れたうえで、現実的な土壌汚染対策を立てれば良かったのですが、石原知事は専門家会議を切って、お友だちを座長にした「技術会議」を設置し、専門家会議の提言した対策を上回る工法を検討させました。会議設置当初、メンバー構成も会議の日程も非公表とした極秘会議を開催し、環境基準を下回る(と豪語する)対策をまとめました。
この工法で環境基準を達成できる保証などなかったですが、石原知事は「日本人が開発した技術についてやっているんだから。日本人が日本の技術を信じないでどうするんだ!」と精神論で乗り切ろうとしました。
小池都政1期目に豊洲市場は遅れて開場にこぎつけましたが、この問題を政治利用しようとする首長が現れたり、議会で多数を獲得するたびに、地雷のように弾けるはずです。意識して土壌や地下水の汚染を調べれば、環境基準を上回る結果が出ることはあり得るからです。そういう微量な汚染が生鮮食料品に影響することはありませんが(野菜を洗わずに直にかじる人や、豊洲市場の地下水をグビグビと飲む人がいれば別ですが)、政敵を追い落とす政治活劇のネタとしては格好の材料です。
当事者には同情するしかありませんが、そもそも「環境基準以下」と言い出したのは、石原都政の官僚であり、「日本人の技術だから大丈夫」と豪語したのは石原知事だったことは忘れないでください。
◆尖閣諸島の購入資金として募った寄付金
連載の1回目に「全米桜祭り」のことを書きました。2012年4月に桜祭りに参加した石原知事はその後、ヘリテージ財団の招待を受け、同財団主催の「日米同盟とアジアにおける日本の果たす役割」と題したシンポジウムに参加。その基調講演で、都が尖閣諸島を購入すると発表しました。
実は自治体が域外の土地を取得することは、ケースは少ないながらもあり得ることです。また、予算を立てなければ土地は買えませんから、いずれにせよ都議会の審議を経る必要があります。石原知事が尖閣諸島を買うと言ったところで、議会がノーと言えば先には進まないし、この段階では後戻りできる余地があったのです。
しかし、石原知事の帰国後、当時の猪瀬直樹副知事が寄付金を募ることを提案したことから、ややこしい話になります。
石原知事の提案に賛同する国民からは14億円を超える寄付金が集まりました。同年9月に都はこの寄付金の一部を活用して、不動産鑑定のための現地確認や活用方策検討に向けた基礎的調査を目的として、洋上から現地調査を行い、地元漁業者のための施設の設置や、自然環境の保護の必要性を確認しました。
ところが、9月11日、国が尖閣諸島を国有化。都は寄付金の使い道を失ってしまい、基金を設置して、この寄付金を管理していくことになりました。寄付金の総額は14億8520万1967円です。現地での基礎的調査などで8千万円を使いましたが、残りは実質的に〝塩漬け〟状態です。
使うに使えない。返すに返せない。この14億円は非常にやっかいな基金です。
もしも誰がいくら寄付したのか領収書が全て残っていれば、返金は可能でしょう。しかし、これらの寄付金は街頭で集めたお金を一括して都に振り込んだり、誰が寄付したのか分からないお金が含まれています。返せる人だけ返すわけにはいかないので、結果、返せません。
国は都の基金を使う考えはありません。そもそも、都が勝手に集めた寄付金ですから、国がそれを活用する義理も道理もありません。今、国際問題に発展してまで尖閣諸島に手を付ける政治家はいるのでしょうか。私は甚だ疑問です。仮に尖閣諸島に地元漁業者のための船溜まりなどの施設を設けるにせよ、触るとやけどしそうなややこしい寄付金など使わず、国の税金を投入するに違いありません。
言い出しっぺの石原知事は、尖閣諸島の国有化が決まると、早々と知事の椅子を投げ出し、国政に転身しました。後の歴代知事は、〝地雷〟と化した基金に手を付けることもできず、毎年、都が国に対して「提案要求」という形で尖閣諸島に関する要求を出しています。
誤解してほしくないですが、私は尖閣諸島は日本固有の領土であると固く信じています。中国が何と言おうと、議論の余地はありません。にもかかわらず、国は尖閣諸島を守るための手立てを確実に講じているとは思えません。
しかし、東京都には領土問題に関係する権限はありません。都は領土を守る軍隊を持っていません。仮に、都が土地を購入した尖閣諸島に中国人民軍が攻めてきたとしても、彼らと戦う術がありません。都庁の職員を動員して、竹やりか何かで迎え撃てというのでしょうか。そもそも、都に領土問題を交渉する権限などあるでしょうか。窓口はどこなのでしょうか。
繰り返し、復習します。東京都は広域自治体です。
石原知事の試みは、〝なんちゃって領土紛争〟でした。都知事のやるべきことではなかったのです。さらに、後先考えずに寄付の募集を思いつき、集めたはいいものの、自分が知事になっても1円も使わなかった猪瀬氏の責任も重大です。
石原知事は、日本の領土の行方を憂いた愛国者を裏切り、都知事の権限を悪用してそういう純粋な想いを弄んだのではないでしょうか。
「都知事」とは何者か。その領分をわきまえない暴走が招いた負の遺産です。
◆いまだ完成していない東京外郭環状道路の行方
東京外郭環状道路(外環)は、美濃部都政時代に凍結された道路計画です。当時としては計画凍結が当たり前です。計画は高架道路でした。地図を見れば分かるように、密集市街地を分断し、関越、中央、東名など、高速道路と連絡する。そりゃ、便利ですが、あまりにも犠牲が多すぎます。
石原都政下で都は「中央環状線」「外環道」「圏央道」のいわゆる「三環状」の整備を優先課題に掲げていました。都心に流入する自動車やトラックを環状道路に迂回させ、都心の渋滞を減らすためです。それは結果として、ディーゼル車規制と同様、公害の軽減にもつながります。このうち石原都政1期目においても外環だけは整備の見通しが立っていなかったのです。
情勢を変えたのは、日本の土木技術の発達でトンネル建設のハードルが下がったことと、2000年5月の大深度地下法の成立です。
石原知事は当時の扇千景国土交通相を引き連れて、現地を視察。武蔵野市では反対派住民に取り囲まれながら、現地の住民の話を聞いたのです。
これを契機として都市計画の見直しが議論され、2003年には高架方式の外環道計画は地下方式に変更し、練馬区・大泉から東名高速までのルートの整備が決まり、美濃部都政以来の凍結が解除されました。
当初、外環道の東名以北は2000年東京五輪までの完成を目指していましたが、いつの間にかそれは誰も言わなくなりました。密集市街地の地下40メートルを掘り進める高速道路計画がそんなにスムーズに進むわけがありません。案の定、用地取得に手こずった上に、東名ジャンクション予定地から遺跡が発掘されるなど、工事は遅れました。
誰もが東京五輪開催までの完成を諦めていたある日のこと。
調布市内の閑静な住宅街で、2020年10月18日正午すぎに突然、長さ5メートル、幅2.5メートル、深さ5メートルの巨大な穴が空きました。原因は、直下で行われていた外環道のトンネル工事です。まもなく事故から1年が過ぎようとしていますが、まだ工事は再開していません。
当時、「三環状」と呼んでいた環状道路のうち「圏央道」と「中央環状新宿線」は開通しました。前者は山間部を工事し、後者は山手通りの直下を工事していたので、大きな支障はなかったのです。当時、石原知事の勢いで外環計画の凍結を解除したのは、正しかったのでしょうか。
もちろん、私はこれまで掘った外環のトンネルを掘り戻せとは言いません。ただ、計画凍結を解除する際にもっと慎重に整備内容を精査すべきだったのではないでしょうか。当時は「東京五輪までに」という掛け声でしたが、1年延期した東京五輪にすら間に合っていません。そもそもイベントに間に合わせるような性格の道路ではないし、数週間しか行われないイベントを理由に巨額の投資をすべきではなかったのです。
調布市の陥没事故は、単に地盤が特殊だったでは済まされません。思いつきと勢いだけで突破しようとすると、そのときは突破した気がするだけで、将来に禍根を残すのです。
外環道を巡る禍根はもう一つあります。それは「外環ノ2」という、地上に残された外環道の亡霊です。
地下方式で整備されている外環道は国の事業ですが、「外環ノ2」は都道です。かつて高架方式で高速道路を整備する際に、その側道的な役割として計画されたものです。つまり、「外環ノ2」の中央に高架方式の外環道が整備される予定だったのです。
外環道本体は大深度地下方式で整備されるので、この「外環ノ2」は廃止されて当然です。しかし、そこが都庁官僚の性格の悪さです。いわゆる〝ごはん論法〟を屈指して、本体の外環道だけ地下方式に見直し、「外環ノ2」だけこっそりと地上街路として残してしまったのです。
恐るべし、道路族と都庁官僚。
石原知事はそのことを知らなかったようです。
お役人たちは「外環道計画の凍結を解除する」という方針通りに外環道本体と「外環ノ2」計画を解凍しました。そして、「外環道を東京五輪開催までに完成させる」という指令を正確に把握し、地下方式で実行に移しています。しかし、これは私の憶測ですが、外環道の高架を立てる一般道のことを知事が理解できるようにレクしなかったのではないでしょうか。だから、沿道住民からすれば、外環道が大深度地下に潜って立ち退きを免れたと思ったら、まだ地上に亡霊のように外環道(一般道)が残っていたというわけですから驚きます。
都は沿道自治体ごとに住民との話し合いの会を設定しましたが、多くは紛糾し、多くの市区では計画が進む気配がありません。しかし、これは美濃部都政が〝凍結〟した外環道計画と同様、解凍された状態で今も生きている計画です。
さて、誰が計画にゴーサインを出すのでしょうか。さすがにもう、地下化するわけにもいきません。
東京五輪閉会で終わるイベント行政
それにしても、外環道も含めて「東京五輪までに」「東京五輪が開催されるから」と計画の実現を急いだ施策はどのくらいあるのでしょうか。私は神奈川県民で、地元の小田急線の駅舎が建て替えられましたが、それもやはり「東京五輪が開催されるから」という大義名分がくっついていました。
これまで石原知事が初めて東京五輪の招致を表明して以来、都庁はずっと東京五輪の開催をゴールにして様々な計画を進めてきたのです。
東京五輪とは、2期目の途中で側近中の側近である濱渦副知事を更迭し、庁内の求心力を失った石原知事がすがりついたイベントの一つなのだと思います。石原知事は計画を嫌いました。常に思いつきの政策をパフォーマンス優先で発表し、都庁はそれを具現化するために振り回されるのです。知事自身が都政に対する関心を失い、都庁に週2~3回しか通わなくても、なんとなく都政が進んでいる。それは、東京五輪があって、何をやるにも五輪を錦の御旗にすればよかったからです。
しかし、小池都政の下でイベント行政は終わりを告げました。
最後に石原都政の負の遺産をもう一つ挙げるとすれば、〝五輪を終えて目標を失った都政〟なのではないでしょうか。
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