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衆院選公示~「神」のいない選挙はつまらない

 齋藤元彦前兵庫県知事が抵抗勢力の陰謀によって失脚させられてしまったみたいな与太話を信じている人は意外に多い。真面目なジャーナリストでさえそうなんだから、かなり深刻な病理である。公益通報はぜんぶうそ、ハラスメントもなかった。Xの中でしか成立しない別の世界線にそのまま飲み込まれてしまった人たちを見ると哀れでしかない。ただ、これが哀れんでいるだけでもいられないのは、そういう人たちがまるで孤独なヒーローを支えんがとごく街頭に出かけたりして、それはそれで世論づくりに影響を与えているのだ。

 そもそも、再選を目指す選挙で現職は極めて強い。負ける方がどうかしている。今回は県議会に不信任をぶつけられ、失脚したとはいえ、現職は現職だ。選挙で最も重要なのは知名度であり、要は名前を覚えられているかどうかが勝利のカギを握る。有権者の大半は投票所に行き、知っている人の名前を書くのだ。知らない人の名前は書けない。つまり、どのような選挙であれ、現職は圧倒的に有利なのである。

 兵庫県知事選には多くの人が出馬を予定しているが、今の時点で県民に最も名前が売れているのは、「齋藤元彦」にほかならない。にわかに信じがたいかもしれないが、放置しておけば自然とトップ争いに加わる。

 つくづく、民主主義とは残酷な制度である。

 おそらく、この投稿を書いているうちに日付が変わるだろう。今日は衆院選の公示日。日本の行方を決める選挙になるだろう。

 しかし、盛り上がりは今ひとつだ。

 各党、がっちり守りの選挙しかしていない。大きな勝負をかける政治家もいない。

 立憲民主党は、政権交代を前面に掲げたが、あまりにも早々と共産党を切りにいき、さっさと共産党側からフラれ、野党共闘は修復不可能な状態に追い込まれた。一方、保守・中道側に舵を切ったのはいいものの、肝心の維新は最初から組む気などなく、これまたフラれる結果となった。野田佳彦がアホだという一言に尽きるのだが、一人の重鎮の気まぐれが、歴史的な総選挙を台無しにするのだから怖い。

 日本維新の会は、せっかくの野党第1党への躍進を、いくつかの不手際であっさり逃してしまった。原因は、冒頭の兵庫県知事選への対応と、維新所属の議員の不祥事の連続、そして、党内のゴタゴタである。とりわけ、維新界隈にはいまだに齋藤元彦を擁護する声があるのは驚きである。そもそも維新の創立者がハラスメントのやりたい放題だったのであり、それが党の体質になってしまったのだろう。

 特に、東京の音喜多駿くんに対するハラスメントの異様さは、見ていて気味が悪い。一部の有力者だけではない、学生の維新信者ですら、口汚く罵っている。ハラスメントが当たり前に許容される組織なのである。

 共産党もしかり。ロシアのウクライナ侵略以来の日本の重苦しい空気(具体的に言えば反共の風)が党勢を鈍らせ、党員や支持者の高齢化に伴って地方選で後退を余儀なくされている。しかも、こういう空気の中で、みっともなく動揺する人たちがたくさんいて、Xを中心に大騒ぎ。これでは伸ばすものも伸ばせない。

 こうなると、普通の有権者は悩む。

 だいたい、よほどのお人好しでなければ、自民党に入れる選挙ではあるまい。いくら石破茂が自民党内ではいくぶんまともな人物だったとしても、ここで自民党が普通に議席を維持したら、日本の民主主義は吹っ飛ぶのではないか。というか、日本国民はアホか、となる。

 何が足りないかと言えば、都知事選における石丸伸二、兵庫県知事選における齋藤元彦が、演者にいないのだ。

 冒頭にも書いた通り、日本人は非常にシンプルに、手を伸ばせば指が届くくらいのお手軽さで、政治や社会を動かしたいと思っている。そういうお手軽さで、自分の正義感や承認欲求を満たそうとしている。あまり難しいことを考えたくない。長すぎる演説を聞くより、20秒のショート動画で投票先を判断する。こんなnoteをしっかり読んでいる人は少数派で、SNSや職場でうんちくを語り、意識高い系を気取りたい人たちが大半ではないか。

 問答無用で自分を神にできる石丸や齋藤が、日本人には必要なのだ。

 間違えてもらいたくないのは、私自身はそういう日本の空気をいっさい望んでいない。もう衆院選の公示日になって、泣くに泣けない地点に立っていることで、とりあえず落ち着くしかないと思う。嘆いたところで、そう簡単にはこの状況は変えられない。

 いや、そこがいかんのだろうな。すぐ変える。そんなの簡単。自分が議員になったら一発ですよ。そうやって、自分を神にしなければ、まず有権者の支持は得られない。そこに反発する人が目の前にいても、質問をはぐらかし、自分の答えたいことしか答えない。なぜなら、「神」だからだ。そういうスタンスが何より必要だ。

 そして、思うのだ。

 今回の衆院選がつまらないのは、石丸と齋藤がいないからだ。

 つまり、どこにも神がいないからである。

 最近、マスメディアの情勢調査が当たらないとは思わないだろうか。特に新聞。都知事選はその典型で、どこも石丸の躍進を予想しきれていない。とりわけ選挙戦最終盤、投票先に迷った有権者(特に無党派層)がどこに雪崩打つのか。ここが捉えられていない。

 理由はいくつかある。一つは、コロナ禍以降、現場を歩く記者が減ってしまい、地ベタの政治情勢を読めなくなっているのだ。もう一つは、Xという巨大な「世間」の動きを正面から受け止められないからだ。しょせんはネットという感覚で見ている。明らかに、何者かによって意図的に作られているXの政治情勢に気づいていても、気づかないふりをしている。どうせネットでしょ、となる。

 だから、石丸のような神が喜ぶ。

 そして、兵庫県知事選でも、齋藤がほくそ笑んでいる。

 嘆かわしいが、政治がそうなってしまったことは否定できない。つくづく、嫌になる。26歳から、足りない頭をフル回転して、ジャーナリズムっぽいものを追っていた気もするが、ここに至って虚しくなる。

 それでも、今回の衆院選には神がいない。

 そこは個人的にはホッとしている。

 さあ、衆院選公示!


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森地 明
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