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ハラスメントを許容する維新が主導した選挙~兵庫県知事選を終えて

 首相官邸には官邸記者クラブ以外の記者は、ほとんど入れない。例外は首相記者会見の際に一部フリー記者が、天文学的な確率でたまに入ることができる。小さな業界紙であれば、記者クラブに入っていなくても、東京都庁のルートなら年に一度、政府主催の都道府県知事会議(いわゆる全国知事会議)を取材することができる。

 私は都庁担当だったときには毎年、都庁のルートで官邸の全国知事会議を取材していた。

 取材とはいえ、すこぶる環境は悪い。なんせ、記者クラブに加盟していないと、カメラ撮影が禁止であるうえ、座る場所すらないのだ。何時間も、冷たい床に座ってメモをとる作業は苦痛でしかない。果たして取材する価値があるのかどうかすら疑問だが、それでも私は取材に入った。

 首相官邸に堂々と入れるのは、このチャンスしかないからだ。

 政府主催の全国知事会議は、知事らの出席率が極めて高い。都道府県会館で行われる会議はどうしても代理が多くなるが、官邸の会議には首相が出席し、直接要望を伝えることができる。知事とはいえ、首相と面会する機会はさほど多くない。めったにない機会なのだ。多くの知事が本人出席だが、石原慎太郎は都政なんぞに興味が無いので、猪瀬直樹副知事を代理に立てることが多かった。

 官邸の全国知事会議で、首相出席時に代理の副知事が発言を求めたのは、私の記憶が正しければ猪瀬しかいない。短い時間に多くの知事からの発言を許さなければならず、代理の出る幕など、本来無いからだ。どうしても伝えなければならないのであれば、本人が出席すべきだ。代理のくせに、もう時間がないと打ち切ろうとした進行役を遮るように、発言をぶち込んだのは猪瀬しか見たことがない。

 断っておくが、猪瀬を褒めてはいない。褒められることではない。

 斎藤氏は19日の就任記者会見で、防災庁の設置を国に訴えるためなどとして、知事会議に出席する意向を示していた。議会側は、斎藤氏から証人尋問の欠席届の提出を受け、正当な理由だと判断し認めた。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/368335?rct=politics

 斎藤元彦が11月25日の百条委員会を欠席することで、いろいろと批判が出ているが、議会側は「正当な理由」と認めているので、これはそもそも議論するテーマではない。日程が合わなければ、議会側と知事側が調整すればいいだけで、それ以上でもそれ以下でもない。逃げ回っているというならともかく、議会側が認めるなら、それ以上突っ込んでも意味はない。

 ただ、私が知事であれば、百条委員会を選んだだろう。

 兵庫県知事選で前知事が当選し、大阪の維新幹部や維新信者らがすっかり〝勝てば官軍〟状態で笑ってしまった。とりわけ印象操作の前面に立ってネットの世論を誘導してきた上山信一のはしゃぎぶりは異常で、ついに県議会の自主解散まで主張している。信者のなかには、斎藤を擁護した人全員が何らかの責任を取るべきだとまで言っている。

 いやはや、私は何の責任とったらいいですか(笑)

 あまりにも当たり前のことだが、選挙は候補者を信任するものであって、具体的な事実を決めるものではない。斎藤が当選しようが落選しようが、具体的な事実は変わらない。パワハラはパワハラだし、私物化は私物化である。選挙には事実を事実でなくする機能など有していない。そもそも、選挙はそんなに万能ではない。

 維新とは、民主主義の制度を濫用したカルト集団である。典型的なのは、都構想を巡る府知事、市長の出直し選挙。彼らは選挙で審判を受ければ何をしてもいいと思っている。民主主義というよりは、多数決至上主義であり、多数決ファシズムとでも言えるだろうか。

 だから、吉村洋文は「民主的プロセス」を経て、都構想の3度目の挑戦をしようとしている。二度否決されれば、普通は諦めるものだが、「民主的プロセス」を踏めば何でも許されると思っている。「民主的プロセス」とはおそらく府知事選、市長選のことだろう。

 兵庫県知事のパワハラ問題、県政私物化問題の本質には、維新のハラスメント擁護体質がある。「改革」のためなら一定のハラスメントはやむを得ないという論理だ。それが役所や政治勢力といった外部だけではなく、党内でも許容されている。維新の内部に入ると、そういうハラスメント体質に染まっていく。

 維新の政治家、信者に共通するのは、SNSとりわけXにおけるリベラル勢力や選挙に弱い勢力、マイノリティーに対する嘲笑、冷笑である。オラオラ系が非常に多いのも特徴的だ。いったんネット上で、たたいてもいい対象とジャッジされると延々とたたく。政策批判ではなく、「立憲民主党は消えろ」「共産党はなくなれ」といった、いじめっ子みたいな言葉を平気で吐き、信者らが喝采する。

 たとえば、「共同親権」に賛成しているのも頷ける。DVであれ、児童虐待であれ、ハラスメントをハラスメントとして認識できない男が共同親権などという戯言を主張しているのだと思うが、そういう人たちを救済しなければと思うのも、ハラスメント容認の精神構造から来ているのではないか。

 たとえ党内の仲間であっても容赦しない。音喜多駿くんへの執拗な攻撃は典型的だ。

 ハラスメント体質は、いわば維新の党是であり、原動力である。その元祖は当然、創設者たる橋下徹であり、ブレーンである上山信一である。

 兵庫県知事のハラスメント問題とは、単に県庁での独善ぶりが問題なのではない。それが維新スピリッツを体現していて、民主主義によって否定されてしまえば、イコール維新の否定にもつながるからだ。事実、兵庫県知事の問題が報道やネットでクローズアップされるようになって、維新の支持率は一気に下がった。

 維新こそ、今回の騒動のA級戦犯である。

 同時にもっと責められるべきなのは、井戸前県政を支えていた5期にわたって支えていた共産党を除くオール与党勢力である。井戸県政末期はそこに維新も仲間入りしていたのだから、維新もまた、いわゆる〝既得権益〟を守っていた側である。オール与党の談合政治は政治腐敗を生み、〝改革〟勢力がつけ込む余地を広げる。斎藤元彦が知事になったのは偶然ではない。

 東京都政でいえば、鈴木都政の後の青島都政、石原都政の誕生みたいなものだろうか。その後の都政が、長きにわたる漂流を余儀なくされたのは言うまでもない。

 斎藤県政を支えていたのは、主に自民、公明、維新である。そういう勢力が知事に不信任を突き付けるなど、天に唾を吐くようなものだ。

 しかも、自民党にしろ、維新にしろ、候補を1人にまとめることができずに、票を分散させている。勝つ気がないのも同然だ。維新は、元々斎藤を推した反省もなく、推薦する気もない清水貴之を県知事選に担ぎ出したかと思えば、最後は上山信一が斎藤への一本化を呼びかけていた。

 以前にも書いた通り、選挙で再選を目指す現職はすこぶる強い。対立候補がこうも見事に分かれれば、現職が有利に決まっている。

 維新信者は、斎藤県政を生み出し、混乱を引き起こした元凶にもかかわらず、まさに〝勝てば官軍〟状態でドヤ顔でSNSでイキっている。真っ黒だったオセロを過半数、白にひっくり返したところで、黒は黒だ。選挙には残りの黒を白にひっくり返す機能は無い。そういう当たり前の常識もない人たちが支えているのだから、相当ヤバい。

この手法について、日本維新の会の藤田幹事長はきょう(11月21日)の記者会見で「乱暴なところはあろうかと思いますが、そういう一石の投じ方は民主主義の中で許容されているのだと思います」と選挙戦略として評価する考えを示しました。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1568187?display=1

 そして、藤田文武幹事長のこの一言には驚いた。選挙の妨害のために立候補した人物を「許容されている」と評価している。維新が本質的にはNHK党的なカルトを含んでいることがよくわかる。私が大阪維新を「カルト」と評するのは、こういうことだ。維新信者も、ことごとく立花氏を擁護している。立花氏のハラスメントを受け入れ、英雄として美化する。恐ろしいとしか言いようがない。

 たとえば、社民党は先日の衆院選で、全国で17人の候補者を擁立し、当選は沖縄2区の1人の当選に終わっている。もしも他の16人を含む17人を沖縄2区に立候補させ、1人の当選のみを訴えたらどうなるだろうか。来夏の参院選には共産党書記局長の小池晃が全国比例に出馬予定だが、仮に共産党が全国比例で20人の姓が「小池」の候補者を擁立し、全国津々浦々で「比例は小池に」と訴えたら、どうなるだろうか。

 それを維新は許容すると言うのだから、驚くほかない。

 やはり、カルトと呼ぶしかない。普通の道徳的倫理が存在しない人たちが政党をやっているのだ。

吉村氏は記者会見を開き、いわゆる「大阪都構想」について「府と市が1つになった行政機構をつくるほうが大阪の地力を発揮できると思う。大阪維新の会として半年から1年程度かけて検討を深め、案を作り上げていく」と述べました。
一方で「民主的なプロセスを経ることなく、法定協議会を立ち上げたり、行政機構の中で議論したりするつもりはない」と述べました。

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20241119/2000089312.html

 そして、どさくさに紛れて、維新は3度目の都構想チャレンジを始めようとしている。「民主的なプロセス」と言えば聞こえはいいが、すでに過去2度の住民投票(民主的なプロセス)で否定された都構想を、またもやぶり返そうとしている。

 これでわかると思う。彼らにとって、選挙は独裁の道具なのだ。民主主義をはき違えた人たちなのだ。

 さて、ではこうした民主主義の破壊とどう向き合ったらいいのか。

 前回、私は「無垢の信者」が大量に動員されたと書いたが、そういう「無垢の信者」を目覚めさせないためには、こういう勢力とどう向き合えばいいのだろうか。

 三つ提案したい。

 第一に「ワイドショー政治」から距離を置き、健全なジャーナリズムを復権することである。衆院選で、自民党一強が崩れ落ち、自公政権が過半数割れに追い込まれた大きな要因の一つは、「しんぶん赤旗」の自民党非公認候補に対する2000万円バラマキのスクープだった。国民民主党が動画屋ポピュリズムにより不自然に支持率が急上昇した一方、立憲民主党は最終盤で小選挙区で自公候補に競り勝っている。共産党自身が足腰の弱さで劣勢を強いられたにもかかわらず、政治情勢全体が大きく動いたことは、ジャーナリズムとしての強さがあったにほかならない。

 第二に野党共闘の再構築である。今回の衆院選で、自民党の有権者比での得票率はたった14%である。以前にも書いたが、2005年の郵政選挙で、25%獲得して以来、自民党は衆院比例で20%を超えたことがない。今回、そういう低空飛行を続けてきた得票率が、底が抜けてしまった。〝失われた30年〟から脱け出すためにも、自民党に代わる選択肢を野党が用意しなければならない。

 そこに、立花の妄動を「許容」してしまう維新の存在などあり得ない。

 当然だが、野党共闘に第3極としての維新の参加はあり得ない。

 第三に選挙だけに頼らない民主主義の成熟である。兵庫県で言えば、1人のリーダーに対するお任せ民主主義を打破して、健全な市民が県政・県議会を監視し、異常があれば告発していく、県政監視の市民自治を育てていくことが必要だ。それは、オール与党で談合政治をしていた井戸県政への回帰ではないし、たたかっている振りをしながら斎藤県政にこびを売ることでもない。誰が知事だったとしても、たとえ国政野党系の知事であったとしても、県政を監視する市民が常に目を光らせ、もの申して行くことである。


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森地 明
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