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【横浜市長選2021】松沢成文はなぜ貧乏くじを引くのか

 横浜市長選の告示日(2021年8月8日)、午前中から強風と大雨に見舞われ、いくつかの陣営は街頭での第一声を断念していた。松沢成文候補は午後2時、横浜駅西口の駅前広場に立っていた。それまでザーザー降っていた雨はやみ、薄日が差していた。風は強かったが、選挙ののぼりを飛ばすほどではなかった。

 「天が味方してくれました」

 マイクを握った松沢氏は薄日のさした空を見上げ、目を細めながらこう言った。

 私は複雑な心境で松沢氏の第一声を見ていた。何度目だろうか、この人が貧乏くじを引くのは。

石原都知事が〝禅譲〟もハシゴ外される

 松沢氏は2011年まで神奈川県知事を2期務めた。業界紙に務めていた私はちょうど二度目の都庁担当を務めていた。石原慎太郎都知事は3期目で都政への関心を失い、石原都政は消化試合と化していた。そんな中、関東地方知事会と九都県市首脳会議は、意欲のある首長と接する数少ない取材場所だった。ピンからキリまで様々な首長が集まる会議で、ひと際怪気炎をあげていたのが松沢成文神奈川県知事だった。

 松沢氏は、いわゆる〝改革派〟の首長としてはファーストペンギンだった。全国知事会議のように重鎮の知事たちが集まる場所でも、自分の主張を貫き通す人で、実際、知事たちをねじ伏せて提言案や決議案の文面が変わることは多々見られた。とかく官僚の書いた作文を基にシャンシャンで済ませがちな関東地方知事会議や九都県市首脳会議で、喧々諤々の議論の中心にいたのは、いつも松沢知事だった。

 私はまだ若かったし、記者としては駆け出しだったから、そういうパフォーマンスがかっこよく見えた。言っていることは無茶苦茶なことも多かったが、筋が通っていて正論だった。それと比べると、東京の石原知事は自分の興味のあることだけ言いたいことを言うとさっさと席を立ち、メディアの囲み取材を上機嫌で受けて、帰ってしまう人だった。だから、なおさら真面目に仕事をしている人というイメージだったのかもしれない。

 ところが、松沢氏は2011年3月、その年の4月に予定されていた東京都知事選への出馬を表明した。忘れもしない、東京プリンスホテルの宴会場である。神奈川県知事から東京都知事へ。誰もが耳を疑った。同日に予定されていた神奈川県知事選に3選出馬すれば、間違いなく圧勝したはずだ。わざわざいばらの道でもある都知事選に挑戦するのは、単なる野心では説明がつかない。

 当時、石原知事には4選出馬待望論が高まっていた。要するに自民党に勝てるタマがなかったのだ。3期目に様々なボロが噴出していたが、都民からの石原人気は絶大だった。東国原英夫元宮崎県知事の出馬も取りざたされていた。その一方で、石原氏は松沢氏に「後継」として都知事選への挑戦を打診していた。日頃、関東知事会議や九都県市首脳会議での活躍を見ていたからだろう。石原知事はとっくの昔に都政への関心や意欲を失っていた。辞める気満々だったのだ。

 ところが、自民党が都知事選の情勢調査を行ったところ、東国原氏がトップで、松沢氏では勝てないということが分かった。第1回定例都議会最終日の前日(2011年3月10日)、自民党は長男の伸晃氏を〝人質〟にして石原知事の4選出馬を口説いた。翌11日午後、都議会最終本会議で石原知事は4選出馬を表明した。都政に対する意欲ではなく、「国を憂慮して」である。

 見事にはしごを外された松沢氏は立候補を辞退した。3月11日の東日本大震災で、神奈川県知事としての災害対応が求められた。とはいえ、今さら県知事選に出るとはならない。自民党は既に黒岩祐治氏(現在の県知事)に白羽の矢を立てていた。

 信じる人を間違えたのだ。まさか政界の重鎮ともいえる石原氏がハシゴを外すとは思わなかっただろう。しかも、やる気もないのに4選出馬するという。案の定、石原氏は4期目の途中で知事の椅子を投げだして、国政に転身してしまった。都政は石原4選という近道を選んでしまったがゆえに、その後の壮大な遠回りを余儀なくされた。その行きつく先が現在の小池都政なのである。

 私なら石原慎太郎の言うことなど、ぜったいに信じない。都政を見ていると分かる。関わるとロクなことがない。松沢氏の上昇志向(野心)が招いた失敗だ。

国政復帰も所属政党が次々と瓦解

 石原知事が4期目の途中に辞職し、2012年12月に行われた都知事選にも松沢氏は立候補した。政党の支援がない孤独な選挙だった。それでも当時の民主党の一部は左派色の強い宇都宮健児氏への支援を嫌い、松沢氏を応援していた都議もいた。よりにもよって衆院選との同日選となり、投票率が大幅に上がったため、猪瀬直樹氏が圧勝し、松沢氏は法定得票数に達しないという惨敗を喫した。

 当時も都政担当だったので、松沢氏の街頭演説を取材していた。どこに行っても一人でポツンと選挙カーの上で演説していた。演説が終わると、聴衆は一気にはけてしまい、その後ろを握手しようと全力疾走で追いかける松沢氏がいた。民主党政権が末期を迎え、世の中の関心は自民党の政権奪取に移っていた。ほんの1年半前、松沢氏が立候補を辞退した経緯など、もう誰も覚えていない。

 2013年の参院選で、松沢氏は神奈川選挙区からみんなの党公認で国政復帰。ところが、みんなの党は翌年には解党してしまう。次に次世代の党に入党するが、路線対立で離党(同党は翌年政党要件を失う)。さらに、2017年には希望の党の創設に参加したが、衆院選で惨敗。翌年、新生希望の党の代表に就任するものの、日本維新の会との合流を巡って対立し、離党。2019年7月の参院選では維新の会公認で再選を果たした。

 みんなの党、次世代の党、希望の党、いずれも貧乏くじオンパレードである。浅草寺だって、そんなに「凶」は引けない。何らかの特殊能力としか言いようがない。

 2019年参院選では当初、当選圏外にいると報じられた。知名度は抜群なのでとても意外だったが、コロナ禍前の維新の会の支持率は悪く、むしろ維新公認という看板が松沢氏をじゃましているようにも見えた。朝、久しぶりに藤沢駅の自由通路で法定ビラを配る本人を見かけたが、表情は疲れていて、ああ、年老いたなと感じた。終盤で滑り込んだのは、県内での共産党の地力の弱さもあったが、終盤で追い上げる維新の会特有のブースト現象もあったのかもしれない。

 しかし、私には維新の会自体も貧乏くじにしか思えなかった。明らかに維新のタイプではない。大阪のカルト的な維新系政治家とは明らかにタイプが違うし、東京のひょろっとした龍馬ごっこ政治家とも違う気がした。近いうちに耐え切れなくなり、離党してしまうのではないかと思っていた。

 そう思っていた矢先の横浜市長選である。

恩師の説得に横浜市長選挑戦も大苦戦

 今回、松沢氏に貧乏くじを引かせたのは、憲法学者の小林節氏である。野党共闘の顔である小林氏と保守政治家の松沢氏との接点は大学だった。

 松沢「小林節先生。私が大学にいたときの最も若い、とても人気のある教授だった。憲法学。私も習って、今回、市長選挙にどうだと一番最初に言ってきてくれたのは小林先生なんですよ。お前しかいないぞと。政治家ならこういうとき覚悟を決めろ。ばちーんと言われてですね。私は本当に悩みましたが、小林先生の一言が決定打ですね」

 小林「松沢さんの政策はきちんとしている。大事な点は県知事時代に多数野党の議会とせめぎ合いながら、世論に訴えながら、受動喫煙禁止条例とか、知事多選禁止条例とか、反対多数のところを押し切って、ちゃんと実現したこと。政策実現力。これは実体験に基づいています。彼には肝が据わっています」

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 小林氏と言えば、自民党による憲法改正や安全保障政策を批判し、野党共闘を呼びかけていた人物である。最近では横浜市のカジノ誘致の是非を問う住民投票条例の制定を求める市民団体の共同代表を務め、条例案の否決後は横浜市長選に向けた「カジノ反対の市長を誕生させる横浜市民の会」の世話人に就任した。しかし、同会が立憲民主党が擁立した山中竹春氏の支持を決めると、それに異を唱えて会を離脱した。そして、市長選への立候補を打診したのが松沢氏である。

 松沢氏は長年、非自民の立場を貫いてきた政治家だが、共産党も含む野党共闘に与したことは一度もない。最近の政治情勢から考えれば、小林氏と松沢氏が組むことはあり得ないだろう。しかも、松沢氏が最近まで所属していた維新の会がカジノ誘致反対とは聞いたことがない。それどころか、吉村洋文大阪府知事と松井一郎大阪市長は、大阪の夢洲にカジノ誘致を計画していて、むしろカジノ推進派と言っていい。それなのに、なぜか反対の立場で選挙に挑むというのだ。

 神奈川県知事から東京都知事への挑戦には違和感があったが、神奈川県知事経験者が国会議員から横浜市長に挑戦するというのは、さすがに節操のなさを感じてしまう。しかも、参院神奈川選挙区の議席はあと4年間は安泰だ。わざわざ国会議員の議席を投げうつ価値はあるのか。仮に落選しても来年の参院選で返り咲けばいいと思っているのだとしたら、あまりにも有権者をバカにしている。2022年の参院神奈川選挙区は松沢氏の辞職で定数が一つ増えるから、無所属でも勝てると踏んでいるのだろうか。

 有権者はそこをよく見ているのだろう。8月10日付けの朝日新聞は市長選の情勢として、松沢氏を4番手と報じている。

元国家公安委員長の小此木八郎氏(56)がわずかな差で先行し、元横浜市立大教授の山中竹春氏(48)と、4選を目指す現職の林文子氏(75)が激しく追う展開となっている。元神奈川県知事の松沢成文氏(63)らは苦しい。

 しかも、上位3人が混戦で、松沢氏はぐっと差をつけられているようだ。神奈川県知事を2期経験し、参院神奈川選挙区で勝ち抜いたとは思えない苦戦ぶりだ。自公対野党共闘対現職という構図からすっかり弾き飛ばされている。

 これを貧乏くじと言わずして、何というのか。

 それでも私は、松沢さんらしいなと思った。街頭でマイクを握っている松沢氏を久しぶりに見たが、目が生き生きとしていた。都知事選の出馬会見を思い出していた。あのときも、東京プリンスホテルの宴会場で金屏風を前に身振り手振りで政策を熱く語っていた。松沢氏はやはり地方自治の舞台がよく似合う。氏の政策が映える。

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同期の上田清司前埼玉県知事との違い

 余談になるが、松沢氏の第一声に駆け付けた上田清司参院議員は、1993年に新生党公認で衆院議員に初当選した松沢氏と同期である。その後、埼玉県知事を4期務めた後、参院議員として国政に返り咲いた。そういう意味では松沢氏と同じような政治家人生を送っている。

 上田氏も保守系でありながら自民党とは一線を画した〝改革派〟だった。関東地方知事会議で、石原・松沢・上田の3氏が並んだ光景は凄味があったし、関東地方知事会は実質的にこの3人が仕切っていた。民主党政権の八ッ場ダム建設中止計画をぶっ潰したのは、この3知事だと言っていい。

 2013年春、関東地方知事会議は石原知事の提案で震災復興を名目に福島県で開催された(福島県は関東地方知事会には入っていない)。会場は福島県の裏磐梯猫魔ホテルである(既に松沢氏は神奈川県知事を退き、後任の黒岩氏が参加していた)。取材のため同ホテルに宿泊した私は、初日の視察を終えて、同ホテルの露天風呂で温泉に浸かっていると、「いやあ、これは素晴らしい温泉ですねえ」。聞きなれた独特のイントネーションのおじさんが入ってきた。

 なんと、上田埼玉県知事だった。

 気さくなおじさんである。都知事という存在があまりにもハードルが高すぎるのか、露天風呂で記者と談笑している知事というのは想像がつかなかった。事実、石原知事は会議のとき以外は部屋に籠ったままだった。

 上田氏は2012年、松沢氏が都知事選に立候補したときにも応援の演説に訪れていた。明らかに負け戦でも応援に訪れた。それは今回も同じである。

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 上田氏と松沢氏はお互い、考え方や政治姿勢は近い。自民党にすり寄らないところも魅力だ。しかし、上田氏は衆院議員時代から途切れることなく、県知事を4期務め、ベストタイミングで参院補選で勝ち、国政に復帰した。それに対して、松沢氏は神奈川県知事を退任後、浪人期間を経て国政に復帰したものの、任期半ばに横浜市長選に立候補している(しかも劣勢)。明らかなのは、松沢氏が常に貧乏くじを引き続けていることだ。

 おそらく、石原慎太郎が都知事選に誘い込まなければ、こうはなっていない。そういう意味で、松沢成文も石原都政の負の遺産だと言える。

 それと同時に、松沢氏自身もそういう誘惑に負けてしまう弱さ、いや、ここは最大限のリスペクトを込めて、〝たとえ負けると分かっていても信じた道を突き進む頑固さ〟と言っておこう。それがあるからこそ、松沢成文は面白いし、かっこいいのである。

 2012年の都知事選で、演説が終わって散っていく聴衆を全力疾走で追いかけて、握手する松沢氏の背中を見て、石原都政の罪深さを感じざるを得なかった。せめて横浜市長選では報われてほしい。私は横浜市民ではないので、1票を投じることすらできないし、参院選に再び立候補したとしても1票投じる気にはなれないが、これだけは言っておきたいのだ。

 悪い人じゃないんだ。ただ、貧乏くじを引いているだけなんだ。

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