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自分で選んで今がある - 日本的優等生がドイツでビジネスを始めるまで

#自分で選んでよかったこと に投稿します。

これまでいろいろな決断をしてきましたが、ほとんどはちょっとは考えつつも直感に従ってよかった(多分他の選択肢を選んでいたらそれはそれで満足していたのかも)というものです。

私は中学でいじめに悩んだり、高校にきちんと行かない時期があったり、いろいろ難しい子供だったと母は言っていたのですが、母と一緒に中学受験に取り組んで、ピアノ、水泳、塾に通って、成績はよくて、大学受験、大学院受験、就職活動はものすごくスムーズに進みました。不登校以外はいわゆる日本的な優等生だったと思います。

大学院を出て就職したのは、日本IBMという国際的なIT企業で、求人の締め切り数日前に母から「応募すべし!」とメールがあって応募しました。このときにはもう母は教育ママを卒業していて、自分の翻訳の仕事にはまってものすごく稼いでいました。私の進路や勉強にあれこれいうことはなく、でも、何か勧めたくなってしまうのは三つ子の魂百までだったのでしょう。コンピュータを勉強していたこともあり、何度か面接を受けて採用が決まりました。

日本IBMでは社会人としてのマナーや、仕事のしかたなどを親切な先輩方からたくさん学びました・・・が、インターネットの黎明期とその後のインターネットバブルの真っ最中に変人の巣窟、京都大学で非常識な人たちに囲まれて数年を過ごして、年功序列で手厚く守られて真面目な環境に馴染めなかったのだと思います。当時の同期に勧められた『ハッカーと画家』を読んで、もう少し小さな会社に転職することにしました。

休日で混み合う新宿で、ようやく席が空いているカフェをみつけて、母に転職をしようと思っていることを伝えたら残念そうでした。「でも、お母さんは会社勤めしたことないし、フリーランスの翻訳者で生きていけているじゃん」と私が言って、「たしかにそうよね」と母。二人でゲラゲラ笑ったのが昨日のことのようです。

その後、サイバーエージェントでエンジニアとして働いて、大学院に戻りました。プログラミングとアートの間の世界の居心地がよくて、オーストリア・リンツの芸術大学に研究留学して、作品やプロダクトを制作しました。リンツで今のパートナーと知り合って、インドの仕事に誘われてつきあい始めて、ドイツに移りました。東日本大震災やヨーロッパでの生活で、食、特に育てるところも含めた菜食やオーガニックに興味が出てきて、ドイツでは料理と園芸も仕事になりました。

ドイツに移ったばかりの頃。パエリア用の大鍋ですき焼き!

私がコンクリートジャングル、エンタメ天国の東京で教育ママのもと育った反動もあってか、子供には自然が豊かなドイツの中規模の街でのびのび育ってもらうことにしました。

豪雨を前に植物を守るという人・・・

私が小さい頃は厳しかった母ですが、母にくっついてあれこれ見て回るのは大好きで、今思い返してみると母はいつでも私を心配しながらも応援してくれていたのだと思います。

大企業に勤め続けていたら、今頃いいお給料をもらって、東京で買い物天国を楽しんで、おいしいものを食べつくして、安定した人生を歩んでいたかもしれません。それはそれでよさそうですが、収入のアップダウンが激しくて、びっくりするようなことが日々起きる海外生活もエキサイティングで、私は好きです。若い頃に資産を吹き飛ばした船乗りの祖父ゆずりなのかもしれません 🌊

よっぽど間違わない限り、一つの選択だけで人生がゲームオーバーになってしまうことはないと思います。人は1日に6万回選択をしているとどこかで聞いたことがあります。ちょっと間違っても6万回のどこかに軌道修正のチャンスがあるはず。

先に書いた母、祖父、そしておいしいものをいっぱい教えてくれて怒られた記憶がまったくない祖母、みんなもう他界してしまいましたが、今でも選択や挑戦にあたって応援されているような、「がんばれ、がんばれ」と背中を押してくれているような気がして勇気が出ます。

一度きりしかない人生、これからもどんどん楽しそうな選択肢を見つけて、自分で選んで進んでいけたらと思います。あと、母がしてくれたように、子供が大きくなって、自分の選択をするようになったら応援したいなと思います。

#自分で選んでよかったこと

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