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相模原台地の縄文遺跡        ー縄文遺跡はあるが古墳が少ない?ー

 相模川の西岸に広がる相模原台地には、幾つかの縄文時代遺跡が発見されており、相当多数の縄文人が生活していたことが分かっています。一方、今回議論する相模川の西岸では、知られている古墳の存在は少なく、特にヤマト朝廷との関連が強いと思われる前方後円墳の発見事例は無い様です。縄文時代には多くの人が生活をされていたにも拘らず、その後の痕跡が少ない点が、誠に不思議であります。

 さて、相模原台地は、富士山北の山中湖を源流として山麓付近から流れて来た相模川が平地に流れ出る付近から形成された扇状地性の河成段丘であります。形成の歴史は、10万年から1万年前までに形成されたとされ、この間、寒くて氷河の広がる長い「氷期」と、暖かく短い「間氷期」とが繰り返しやってきた氷河時代で、山から出る砂れきの量と流量の変化、浸食と堆積の繰り返し、それに地殻変動による地盤の隆起等に影響を受けていることに加え、箱根山や富士山の繰り返しの噴火による火山灰の堆積によっても複雑な構造を形成して来た様です。即ち、相模川流路の移動により次々と段丘となり、高い方から上段・中段・下段と数十メートルの高低差を有した三段の台地が形成されています。

 大河である相模川は、台地の最深部を流れていますが、その上の三段の台地の淵には、小さな河川が形成され、下段には八瀬川、中段には鳩川、姥川、道保川、上段と多摩台地との境には境川が流れています。相模原で発見されている縄文遺跡は、これら小さな河川沿いで見出されている様です。それら遺跡の内、北から川尻石器時代遺跡に触れさせて頂きます。 

相模原台地
遺跡の分布地図

 神奈川県相模原市緑区谷ヶ原に位置し、相模川が山間から平野に出てきて相模台地にぶつかり、その流れの方向を90°変えるところに形成されています。すぐ近くには、相模川に流れ込む小さな谷津川もある様です。遺跡の名前は、石器時代遺跡とありますが、縄文時代中期から後期(約5500~3500年前)の大規模な集落跡とされています。国の史跡にも指定されています。

 この遺跡は当初「石器時代」遺跡と命名されたものの、後に遺跡の大部分は縄文期の遺跡と判明した様です。遺跡の下層には、縄文時代中期の竪穴建物46軒、後期には、敷石建物跡1軒などが発掘され、合計80軒以上の建物跡が確認されたとされています。実は、遺跡全体の総面積は23,356.62平方メートルにおよんでおり、その規模は壮大です。敷石建物跡(多分、下記写真部)やその周辺からは多くの遺物も見つかっている様で、落とし穴の遺構、打製石斧、石匙、石鏃、石剣、敲石、砥石、石皿、石棒、甕形土器、土偶、土製円盤などが出土している様です。また、縄文末期の建物群跡では配石遺構や配石墓群が見られる様です。

川尻遺跡の現在

 縄文時代の大きな集落跡としては、青森県の三内丸山遺跡が有名ですが、その規模は、約2.5平方キロメートルの広さがあり、縄文時代中期から後期にかけて、当時の住人の数については、数百人から1,000人ほどが住んでいたと推測されています。これに対し、川尻遺跡では、80軒の住居跡が見つかったとされていますので、誠に単純ですが、これらが同じ時代に建てられていたとして、一軒当たり4人が住んでいたとしても、320人の住人になる分けで、三内丸山遺跡にも迫る規模となるのではないでしょうか? 但し、敷地面積的には百分の一なのですが。何れにしろ、大河である相模川から近いエリアで、一段高い位置に上った台地で、生活水の得られる小さな川にアクセスのよい場所に、縄文人が住んでいたということが分かりました。

 川尻遺跡から相模川沿いを8.5㎞程南東に下っていった所に、下溝遺跡群が存在しています。下溝遺跡群は、相模台地の中段に位置して、鳩川や姥川沿いに展開した縄文時代中期(約5000年前)の大規模な集落跡です。複数の集落から成り、200軒以上の住居跡が見つかっている様です。多くの竪穴住居が発見され、多くの土器や石器が出土されていたとのことです。この地区でも、鳩川や姥川から生活水が得られる地域で、多くの縄文人が生活していたということになります。ここからは、次にご紹介する勝坂遺跡で発見されている勝坂式縄文土器が出土されており、相模川沿岸での縄文住居で、連携した生活が営まれていたことを示していると思われます。
 下溝遺跡群から南西に3㎞程度相模川に向かった所に田名向原遺跡があります。田名向原遺跡は、相模原市中央区田名塩田に位置し、旧石器時代から縄文時代にかけての複合遺跡が存在している様です。特に旧石器時代の住居跡が発見されており、日本で最も古い建物跡の一つとされているとのことです。田名向原遺跡は、下溝遺跡群や勝坂遺跡よりは、台地の下部に位置して、殆ど相模川の川べりに位置するということになります。但し、この地域でも小さい川 八瀬川が台地中段部との境の部分を流れており、生活水としては、これが利用されていることが予想されます。この遺跡では、旧石器時代から縄文及び古墳時代の連続した人の活動を示す遺跡だということです。下の写真が、約2万年前の旧石器時代末期の住居跡とされており、これが日本で最も古い建物跡の一つだそうです。直径約10メートルの円形の範囲を円礫で囲んだもので、内部には柱穴や焚き火跡が見つかっています。非常に大きな住居であることを示しています。

旧石器時代末期の住居跡 左
旧石器時代末期の住居跡 右

 また、遺跡からは、非常に多くの石器が出土しており、特に尖頭器やナイフ形石器が多く見つかっています。槍先形石器の石材には長野県産、伊豆産、および箱根産の黒曜石が用いられていることが分かっており、遠隔地との交流も示唆されています。成形された石器では尖頭器193点のほかナイフ形石器50点あまりが出土した様です。

展示石器
槍先形石器

 この場所には、旧石器時代の人々が季節的に定住していたのでしょうか? これらの石器を用いて、川魚を採って生活の糧にしていたことが予想されます。
 また、この地では、小型ですが、14の古墳が存在していることが知られていますが、前方後円墳は、存在しなかった様です。これは、一般的には、ヤマト朝廷との関係性薄かったことを示している可能性があります。この様に、旧石器時代から、縄文時代を経て古墳時代まで継続的に多くの人が住んでいたことが示されています。余程、住居環境が良かったのでしょうか。

 相模台地の中段を鳩川増に南下し、田名向原遺跡から4㎞程度南東に下った所に勝坂遺跡が見つかっています。勝坂遺跡は、神奈川県相模原市南区磯部に位置する縄文時代中期前半の約5000年前の大規模な集落跡とされています。立地は、台地の下段を望む中段の際にあり、眼下を鳩川の小さな川が流れています。また、ここはでは、勝坂式として命名された土器が多数出土している様です。

勝坂式土器

 勝坂遺跡では、60軒以上の住居跡が見つかっており、大規模な集落で、先に触れた三ケ所の遺跡の様と同等の規模であると言えます。発掘された土器や打製石斧から、縄文時代の人々が農耕を行っていた可能性が示唆されています。

復元住居
敷石床

 また、装飾的な文様の特徴を持つ土器が多く見つかっており、これらは「勝坂式土器」として知られています。ここでは、竪穴住居も復元ざれています。訪問時、住居内で火を焚いていましたので、ちょっと炎が見えています。この様に火を焚いて、縄文人は暮らしていたのでしょうか?

住居内部

 以上の様に、相模川の東岸である相模原台地の下段、中段の小さな河川沿いには、川尻石器時代遺跡、下溝遺跡群、田名向原遺跡、そして勝坂遺跡と、旧石器時代から縄文時代と多くの古代人が生活した痕跡が見つかっており、これらは、十数㎞の距離で位置しており、この地域で、相模川沿岸には縄文人が多く生活していたことが示されていると思います。一方、その後のヤマト朝廷の時代を迎え、代表的な遺跡である古墳が、特に、前方後円墳が、この地域で見つかっていないということは、縄文時代から弥生、古墳と歴史の流れの中で、この地区の活動が低下して行き、ヤマト政権の中でも重要な地位を得られなかったのではないかと推定します。ここでは触れませんが、この地区から更に相模川を下った座間、海老名地区では、複数の前方後円墳が発見されており、更に、相模川の対岸である西側でも前方後円墳が複数見つかっています。これらの歴史展開は何を意味しているのでしょうか?
私的な見解のみで申し上げさせていただきますと、以下の3つの可能性を想定しています。1)相模原台地では、台地であり、また、関東ローム層に覆われていることから、稲作が行われず、弥生時代での稲作革新を迎えることが出来なかったことから、時代の発展から取り残された。事実、今でも、この地区では畑作が主で低地でのみで稲作が営まれています。2)ヤマト朝廷と房総の上総地区との結びつき(下記参照)は、比較的に強いものであったが、房総半島への移動経路は、相模原台地よりも南の湘南地区を通っており、相模原台地は、歴史の波に取り残されてしまった。実際に、平安後の武士の時代には、鎌倉がその主役として歴史の最前線に躍り出た分けで、古代の時代から鎌倉を中心とした湘南地区が、関東の主な地域であったと考えても不思議ではないと考える次第です。3)ヤマトタケルの東夷に関する神話では、相模の国に至った際に、敵対勢力から野中で火攻めに遭うことが古事記に記載されているとのことです。この危機では叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退けたと言うことです。これにより、危機を回避したヤマトタケルは、国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いたとされています。この神話から、そこを焼遣(やきづ=焼津)というとの話もあります。実際に、この事件が起こった場所は分かっていませんが、仮に、相模台地での話であった場合、その後、ヤマト朝廷からこの地が干されてしまったことはつじつまが合うように考えます。何せ、この危機を乗り越えて、更に東進して、東京湾を渡った地である房総半島の上総では、多数の大型前方後円墳が造営され、また、その一つの塚からは、荘厳な埋葬品が見つかっていることと対比しても、相模原台地の古墳時代の遺跡の無いことと対比されます。

何れにしろ、事実、相模原台地からは、古墳時代以降中世までの遺跡は、少ない様に思われます。

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