木更津 馬来田国造の作った古墳群 祇園・長須賀古墳群
日本で唯一純金製の鈴5個が出土した金鈴塚のある木更津の名前の起源には、ヤマトタケル伝説が深く関わっていると言われています。いくつかの説がある様ですが、最も有名なのが、ヤマトタケル伝説に基づくものです。ヤマトタケルが東征の途中で、相模からこの地に立ち向かった際に、東京湾で大きな嵐に遭遇し、彼の后である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、この嵐の源である海神の怒りを鎮めるために自ら海に身を投じたと伝えられています。その際に、ヤマトタケルは、彼女の死を悲しみ、この地を去ることができなかったことから、「君不去(きみさらず)」と呼ばれるようになり、これが「木更津(きさらず)」に転じたとされています。
ヤマトタケル(日本武尊)は、古代日本の伝説的な英雄であり、第12代景行天皇の皇子とされています。景行天皇は、1世紀後半から2世紀前半の在位でしたから、実際にヤマトタケルが木更津の地を訪れたとしても、紀元100年前後でしょうから、金鈴塚古墳造営時期とは、500年程度の隔たりがありことになります。ヤマトタケルは、熊襲(くまそ)や東国の征討を行い、多くの武勇伝を残しています。この話が正しいとしますと、ヤマト朝廷の全国平定に尽力したことになります。『古事記』や『日本書紀』には、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を用いて、相模で陥った焼け野原での罠から脱出した話や、木更津伝説の由来となった東京湾での弟橘媛の犠牲に記載がある様です。木更津の北隣の自治体である袖ヶ浦の地名も、弟橘媛伝説に由来しているとされています。海に身を投げた弟橘媛の着物の袖が、その海岸一帯に流れ着いたことから、この地が「袖ヶ浦」と呼ばれるようになったと伝えられています。木更津の南に位置する自治体の君津の名前も、「君不去(きみさらず)」に由来されるとされています。更に、君津の南には、富津が位置しています。この名前の由来も、弟橘媛の衣の布がこの地区海岸に流れ着いたことから、「布が流れてきた津」→「布流津」→「富津」となったと言われています。この様に、ヤマトタケルの影響が、房総半島西岸で強かったことが伺えます。
さて、この様な伝説の残る地域で、5世紀後半から特徴ある古墳の造営が始まり、形成されたのが祇園・長須賀古墳群です。それらの古墳を地図に記載しますと、下記の図の様になりますが、今より海面水位が高かったとされる時代の様子を「水色」で再現してみましたが、何れの古墳も、海岸沿いに造営されていることが分かります。多分これは、海からやってくる一行にその存在を誇示していると思われます。
この地区最大の高柳銚子塚古墳は、墳丘長130~150メートルの前方後円墳で、5世紀の中盤に築造されたとされています。この古墳は、千葉県内第3位の規模を持つとされていますが、残念ながら明治末年の鉄道工事の際に前方部が破壊され、戦時中に陸軍高射砲指揮所の設置により後円部中央が大きくえぐられ、その有り様を大きく変えられてしまった様です。写真の様に、夏には草ボウボウで、墳丘に近づくことが出来ませんでした。残念!
高柳銚子塚古墳に続くのが、5世紀の後半に作られたとされる祇園大塚山古墳で、墳丘長100メートルの前方後円墳ですが、現存していません。この祇園大塚山古墳の後、6世紀半ばまでの数十年間、祇園・長須賀古墳群では目だった古墳の造営は見られない様ですが、上総や下総にある他の古墳群でも見られる現象であるとのことで、5世紀末から6世紀にかけて古墳の築造が低調化する現象は、ヤマトの大王陵などでも確認できる全国的な現象であり、当時のヤマト王権内の混乱が影響した可能性が指摘されています。
6世紀の半ばになるとこの地区でも古墳の築造が復活した様です。まず、100メートル級の酒盛塚古墳が造営され、続いて6世紀後半から末に掛けて、墳丘長約80メートルの前方後円墳である稲荷森(とうかんもり)古墳が造営されたとされています。
この稲荷森古墳以降には埴輪が出土されていない様で、前方後円墳終末期の古墳である証になっています。6世紀末から7世紀初頭にかけて金鈴塚古墳が造営され、この古墳は墳丘長約100メートル級の前方後円墳であり、純金製の4つの鈴に加え、多くの金銅製副葬品が出土しています。金鈴塚古墳に関しては下記の報告に示しましたので、ご興味ありましたら詳しくはこれらをご覧ください。
金鈴塚に続き、最後の前方後円墳とされる70メートル級の丸山古墳が造営されたことになっています。その後に方墳である松面、塚の腰、円墳である鶴巻塚と造営された様ですが、間もなく古墳時代は終焉を迎えた様です。
以上にまとめたことから、当時の海岸線に近いエリアに巨大古墳が造営されたことは、この地区の首長の大きな勢力を示したものであり、明らかに東京湾を渡ってくる人々に対しての誇示的な意味を持っていたように思われます。また、幸運なことに未盗掘であった金鈴塚の横穴式石室からは、上に列挙した報告にも記載したように古墳の名の由来ともなった金製の鈴5個や、21本と推定される飾大刀、金銅製の飾履などの豪華な遺物が大量に発見されていることも合わせて、金鈴塚古墳に葬られた首長の力の大きさを示していると考えられます。また金鈴塚古墳の石室には、内裏塚古墳群を造営した首長の勢力範囲である富津市の海岸で採れる砂岩が用いられていることも分かっており、また、石室内に安置されている石棺は、埼玉県長瀞渓谷付近の緑泥片岩が用いられていることからも、関東各地の有力首長との間で交流があったことも示されている様です。
木更津の名前の由来とされるヤマトタケル伝説から500年が経過した古墳時代でも、ヤマト朝廷との大きな関係があったことが想像され、金鈴塚をはじめとし、大きな古墳がこの地区に集中して造営されていることをみると、その力を誇示していたものと考える次第です。この地区の首長は、馬来田国造とされていますが、調べていくと、母方の実家である越前の高向で成長したといわれている第26代天皇である継体天皇(5世紀後半~6世紀前半)には、馬来田皇女と呼ばれる姫がいらっしゃった様で、このお名前の実際の由来は明らかになっていませんが、その関係性を疑ってしまいます。継体天皇の即位には、先にも触れたヤマト政権が混乱した対策として、政権の安定化を目指した一環として行われたと考えられている様です。この時代、ヤマト王権の勢力が拡大し、地方豪族との対立が続いている中で、継体天皇の即位に、馬来田国造が貢献したとか、関係が有ったとか、あったんじゃないでしょうか? 勝手な想像ですが。しかるにして、ヤマトから相当離れたこの地区に、大きな古墳が造営され、金鈴塚には荘厳な金銅製品が埋葬されているのではないかと考える次第です。
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