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ヨーガとは、どう生きるかを定めていくこと

また大好きな小難しい哲学的なタイトルにしてみた。

今日誕生日を迎えた。
数秘だと、誕生日を境にその年のテーマが切り替わるらしく、わたしは今日から 7  になる。

7 とは
内観、瞑想、振り返り、力の蓄え みたいな感じだそうで、つまりは年間通じて自分を見つめて瞑想しながら過ごす、みたいな?
それはそれで楽しみではある。

そうゆう意味あいもあるのか
または数秘の情報を知っているからか
なのか
ここ数日はとても哲学的な気分である。
いや?通常運転ともいえる。いつもは心の奥にしまってあるものが、わたしの場合は表面化しやすい1年になるのかもしれない。


君はどう生きるか

ジブリ映画は見れてないけど
そんなことを時々思う。

わたしは日々ヨーガをやっているので
きっと
自分、とか、生きる、とかに敏感なのである。
良いのか悪いのかは分からないけど。

なので
わたしは毎日ヨーガをしながら
どう生きるのか
を問われていると感じる。

生徒さん達もヨーガを始めた頃は
みんな周りの言いなりになっていたり
謎のルーティンやモードにハマっていたりするが
何年か経つと

自分はこうであるのだ
こう生きるんだ
これで何が悪いのだ

みたいに
目線がクッキリしてくる。

目つきや、体つき、醸し出すオーラが変わってくる。

わたしは、その瞬間に立ち会えたというか
生徒さん達の独り立ちした姿に
いつも感動を覚える。

きっと、自分が変わったんだ、と気がつくのは
結構後になってからだと思う。
周りにいる人種が変わっていったり、食べ物や生活が変わってから自分は気がつくものだからだ。


自分とは実に曖昧なものなんだと思う。
ヨーガなんてやってなきゃ
体を壊したり、心を壊したりしなければ
別に自分になんて構う必要なんてないのかもしれない。

あまり風邪をひいたことがない、とか、痛みが出にくい、という人だったら、自分とは?なんて考えることないのかもしれない。

ただ、ここにはどっちが先なのか論争があって
体が強いから、心も強くて、自分が定まっている
という考え方もできる。

なぜなら、心と体はつながっているから、だ。
揺るぎない肉体を持つということは
いわゆる “根拠の無い自信” を自然に得ているのだと思う。

でも、わたしたちはずうっと強いってことはない。
若い頃強かった人が、歳を重ねて急に弱々しくなることもある(本当は急ではないのだが)

そんなときに、ヨーガに出会う。
ヨーガだったら、と救いを求めることが多いように感じる。


ヨーガは自分そのものが出てきてしまう。
良いところと悪いところも、澱みも清らかさも。
それを丹念にひとつずつ見つけて
自分で組み上げていく作業なんだと思う。

ここは強くて、ここは弱くて
みたいなことを知るのがヨーガで続けていくことだ。

ジャッジはせずに
ただただ、知る。

その道は時に苦しいけれども
必ず組み上がるので、その時をゆっくり待つ。


心や体を壊すってことは
自分で自分を見つけて独り立ちするために仕組まれたものなんだろうなと長年指導していると感じる。

いつか、肉体は衰える。
その時に自分が定まったいたら
無駄な執着をせずに、最期まで健やかでいられるのだろうか(まだ来てないからわからないけど)
と思って
今日も今日とてヨーガに勤しむのである。

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川添明子│ヨーガ指導者
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