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最終的には愛なのだ。

愛だろ、愛。

ってCMが昔ありましたね。懐かしい。
ってか、テレビ業界が全盛期だったバブル期や90年代って、カッコイイCMがありましたよね。伝説的なね。


今日は愛について語りたい。

前回の記事で
結果への執着について書いた。わたしはまだまだ結果を出すことにこだわりが強く、上手くいかなくて疲れることも多い、と。

『がんばらないでいいんだよ』とわたしが伝えたところで、そのわたし自身が結果を手放せない限りは、言葉にリアルさがないから、実はあんまり伝わってないのでは、ということ。

『結果を出すこと』
にこだわってしまうのは、結果を出すことで自分の価値が決まる、と心の奥で思っているのが原因ということ。


ここから進化するには

結果=自分の価値

という方程式をガラガラと変えていく必要があるなと感じている。

そこで、愛、なのだ。

わたしは愛されているのだ

という想いを自分の中にたくさん充電するのが、方程式を崩すにはいいのかなと気がついた。自分を満たすということだ。

と、同時に、相手/クライアント/生徒さん にも
あなたは愛されているんだよ
という想いを伝えて、わたしからの愛で満たしていければいいのかなと思った。


 愛  が唐突すぎるので解説をしたい。

結果=自分の価値

ということは

結果を出せない自分には価値がない
何も出来ない自分はダメなやつだ

と思っているということだ。

勉強も仕事も出来ないのは、生きている価値がないのだろうか??本当にダメなやつなんだろうか?


きっと、ビジネス界ではダメって言われるだろう。
給料も少なくて、窓際に追いやられるかもしれない。
ヒソヒソ噂されるかもしれない。


それが
ヨーガの世界では
断じてダメなやつではないのだ。

いや
ヨーガの世界だけではなく
どの世界でもダメなやつではない。

これが真実だ。


なぜなら

わたしたちは愛されて生まれてきているからだ。
親から周りから祝福されて生まれてきているからだ。
神から宇宙から愛されて生まれてきているからだ。

これが
愛だ。


わたしは、ココが弱い。

自信を持って
『わたしは愛されてるんだ!』と言えない。
生徒さんに向かって
『わたしはあなたを大好きだ!』と言えない。

または言いながら号泣してしまうだろう。

愛を語るには、赤ちゃん状態なのだ。
わたしの中に愛がまだまだ足りていないんだろう。


ヨーガには愛のヨーガがある。
バクティヨーガだ。

バクティヨーガの先生方とお話をしていると

あぁ、わたしはここにいていいんだな
安心できるな

と心から思う。

その時は感じないけど、振り返ると
愛が溜まったな、充電されたな、と感じられる。

こういう経験って、多くはないと思う。


わたしの愛の部分が弱い理由を考えてみると
親との関係から来ていると思う。
(いや、愛についてはみんなきっとそうなのだ)

親からはもちろん愛されているんだろうけど
直接な愛よりも、勉強ができる、とかの結果のほうをいつの頃からか大切にしてきたからだ。

結果のほうが、目に見えてわかりやすいからだと思う。

親のせいだ!と言いたくなるけど
これこそがわたしのカルマだと捉えている。

わたしはこのカルマを解消したい。
結果を求める性分を手放して、自由になりたい。


実際のヨーガ指導で見てみると

少しずつの愛だったら今のわたしでも差し上げられる。
それがグループレッスンである。

でも、個人指導になると、圧倒的に足りない。

そこを理論や技術で埋めようとしてきた。最近は霊力もどうやら発揮できるようになってきた。
しかし気がついたら、単に鋭すぎる指摘のような、愛のない伝え方になっていた。理論と霊力を磨きすぎて、大切な心を失いかけているのかもしれないと感じた。
外堀を埋められて身動きが取れない、みたいに感じさせてしまったかもしれない。

きっと根っこの部分に全く響かないんだろう。
だって、結果を出したいという、わたしのエゴの先にあるからだ。


愛を育てるにはエゴを取り除くことです、とバクティの先生が教えてくださった。
謙虚になる事です、と。

そもそも、愛のヨーガであるバクティの世界は日本ではとてもマイナーなので、わたしの前に先生が現れること自体がとても幸運なことだ。


人の幸せのために働くには
最終的には愛が必要だ。

その人と深く関われば関わるほどに愛の深さが要る。

どんな形でわたしの愛を充電出来るのか、まだ分かっていないけれど、バクティの道が導いてくれるのかもしれないと思っている。

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