住友忠隈炭鉱
麻生太吉氏が明治18年に開坑した忠隈炭鉱。
明治24年・明治25年と2年連続で長雨に見舞われ、特に明治25年の水害では30以上が休坑、16坑が廃坑となる多大な被害を筑豊炭田に齎しました。
この水害では、忠隈で排水作業を行っていた坑夫数十名が土砂崩れに巻き込まれて6名の尊い命が奪われています。
その後は出炭量が落ち込みながらも採掘を進めていた忠隈ですが、大断層に突き当たってしまい、そこから幾つもの坑道を掘り進めていったものの新たな鉱脈は発見できず、更なる窮地に立たされる事となりました。
しかしそんな中、大資本・住友が忠隈の買収に名乗りを上げ、資金が底をついていた太吉氏から断層の問題も打ち明けられた上で全てを承知し、明治27年4月に10万8千円という当時としては巨額の値で住友が買い取りました。
忠隈は麻生経営時に機械化が進められていた為、住友をそれらを活用しながら五尺層に沿って主要坑道を開くと同時に五尺層より炭質が劣る三尺層の採掘にも着手、日清戦争の特需景気により経営は安定しました。
筑豊富士とも呼ばれる忠隈炭鉱のボタ山、山の神公園には記念碑が建っています。
ボタ山には残念ながら立ち入る事は出来ませんが・・・
公園から少し歩いた所にある穂波幼稚園の体育館(遊戯室)は、昭和14年に建てられた忠隈炭鉱会館の劇場兼体育館だったものが転用されているとの事。
幼稚園らしい優しい色合いの塗装が施されており、敷地外から見た感じ目立った傷みも無さそう・・・長い間大切に使って下さっている穂波幼稚園さんには感謝ですね。
山の神公園から穂波幼稚園とは反対側に下ると、煉瓦造りの巻揚機台座が残っています。
裏手の民家の敷地にあるように見えた為、近寄らずに撮影しました。
昭和36年9月まで住友忠隈炭鉱として操業した後は忠隈炭鉱株式会社が引き継ぐも、昭和40年8月に閉山。
昔と現在の衛星写真を見比べた感じ、ボタ山の麓に炭鉱住宅らしきものが残っていそうだったので散策してみましたが・・・
「これだ!」という確信が得られないまま、ちょっと歴史のありそうな建物と良き路地をただただ撮影。
この辺りは怪しいのだけれど・・・
年始だし、詳しい地元の方とひょっこり出会えるだろうと期待していましたが、他所からいらしていた業者さんにしか出くわさず、結局「分からんが撮っておこう」という結論に至る、毎度の流れとなりました←
最後まで読んで頂き、有難うございます。
【撮影機材】
Canon EOS 6D
Canon EF17-40mm F4L USM