
「動きをうごかす展」は、どうして不気味じゃなかったのか?
東京大学山中研究室の『Parametric Move 動きをうごかす展』。Twitterなどで話題になりました。私もインスタで出回り始めてすぐに、これはスゴイ!と、行ってきました。
あまりに衝撃的だったので、撮ったものをすぐ動画にして、知っといてよと拡散することにしました。
知り合いにも、無理しても行っとけと知らせました。それぐらいの衝撃があったのです。
しかし行った人の投稿を見ると、写真や動画はともかく、感想はかなり私とは違うなと。ブログなどを読んでも誰も触れていないから、私の視点は変わってるんだな。変わってるんなら書いとけ、主張しとけと思い、noteにしこしこと書くことにしました。
どんな催しだったかは、下記のページを見てください
リアルな動きじゃないのに、どうしてリアルに感じるのか
多くの人が「動きをうごかす展」は、生きているようだと語っている。自然な動きで、不気味の谷を超えたという人もいる。
私もリアルだなと思ったし、こんな3Dプリンターから出た白いものが、どうして動くだけで美しいと感じるんだろうと、しばらく圧倒されました。
展示作品はそれぞれ個性が強く、同じ感想ではないけれども、どれも見事に「動きがデザイン」されています。造形もデザインされているんだけども、それがなめらかに動くことまでデザインされている。動くだけじゃなくて、見る人がダイヤルを使って、速度などをコントロールすることができます。さらにはセンサーで、観察者のふるまいに反応したりもします。
こんなの現代アートにしても珍しい。画期的です。
でも、でもですよ。すぐに、あ、これって生きている動きじゃないよね、リアルじゃないよねと思い始めたのです。それなのに、全体として見たらリアルに感じるのはナゼだ? マジックじゃん!と思ったのです。
生物の動きを完コピしようという意図ではなさそう
複雑な動きなのに柔らかく滑らか、そして反応の仕方など、どれも素晴しいものです。入口で渡されたパンフレットから抜粋すると、F.o.G / Face on Globeの記述で、こうあります。
インタラクティブロボットの多くは、人とのコミュニケーションを円滑にする目的で、擬人化された要素を持つようにデザインされている。しかし、ユーザーがロボットの外見から抱く期待感と実際のコミュニケーションの質が釣り合わなければ、擬人化のデザイン自体がシステムへの不満の原因にもなってしまう。この問題に対するデザイン領域を探求するために、先入観の少ない幾何学形状を変形させることで擬人化の度合いを変化させるプロトタイプを製作した。
インタラクティブロボットが擬人化方向に向うのは、親しみやすいインターフェイスを持ちたいだけではなく、そもそも人間の持つ機能の一部を拡大強化して様々な道具が生まれてきた。それが高度になればなるほど、外見上も、人間そっくり。あるいはなにかの生物みたいな形状にしていきたくなるのは、製作者の心理ではないかという気がします。
山中研究室では、そんな私の想像とは逆に、“生きものみたいな”外見は動きの評価・認知への強いバイアスになる。デザインの追求にも影響すると考えられたのでしょうか。球体のF.o.G以外は皆、“生きものみたいな”外見を持っています。
一見して生きてるみたいと思えるのですが、よくよく見ていると、ゆらぎを持った動きでも、生きもののような動きじゃない。どう書けば伝わるのか、上に貼付けたTwitterの動画でもREADY TO CRAWLという名の昆虫っぽい機械群が、9秒14秒あたりに登場します。まるで脊柱があるみたいに思えますが、独自の進化をとげた生物型機械という設定だということのようです。
生きもののような、いわば擬人化を抑制しながらデザインされているのだとしたら、抑制されているに、多くの人がリアルだと感じてしまうのはどうしてでしょう。
骨格だけで呼吸を表現するBreathing Skeleton
展示の中で、唯一の人体そのものを模した作品があります。そのものといっても骨格だけでですが、呼吸の動きを胸周辺の骨だけで再現したBreathing Skeletonです。
これも一見してリアルだなぁと思いましたが、すぐに、いやいやぜんぜんリアルじゃない。リアルじゃないのに、どうしてリアルに感じるんだろ。そんな私の疑問を解き明かす説明に、最適な作品です。
パンフレットには、「呼吸動作を骨格のみで再現することで新たな生物的表現の提案を目的としたプロトタイプである」と書かれています。目的は、きっちりと達成されています。
Breathing Skeletonで再現されているのは、胸郭(肋骨で囲まれた籠状の空間)と呼ばれる部分です。現実の弓状の肋骨は12対ありますが、Breathing Skeletonでは7対しかありません。前面で肋軟骨になって,胸骨とつながるものと、そんなことを詳しく理解する必要はありませんが、要するにかなり端折っているのです。それでも「あ、肋骨だ」と思わせてしまう形状のデザインです。
脊椎、肋骨、肋軟骨、胸骨で構成された骨格のうち、Breathing Skeletonは弓状の肋骨が動きます。現実の人間のいわゆる胸式呼吸では、肋骨が上にあがると、前後左右に胸郭が広がり、肺が伸ばされ息を吸うことができます。吐くときは、逆です。その動きを、ほぼ忠実に再現しているのです。
想像すると、脊椎(背骨)の中に脊柱管に見立てた空間があり、そこにつながっている肋骨を、下から何かで引っ張ったり、ゆるめたりしているのではないでしょうか。そう想像したところで、私は笑ってしまいました。もし想像通りなら、横隔膜の働きと同様じゃないかと。
骨は、骨だけでは動きません。筋肉が動かしているのです。呼吸は横隔膜をはじめ(横隔膜も筋肉です)、腹筋など、さまざまな筋肉が動いて、胸郭を構成する骨を動かし、吸気呼気を行っているのです。Breathing Skeletonはそれを骨の中に隠して再現しているのなら見事です。
リアルじゃないのは、そこだけではありません。呼吸しているときに背骨が動かないわけがないのです。
目指したのは、形状や動きのピクトグラム化?
呼吸をすると、その影響は全身に及びます。背骨は胸郭の広がりで押されるし、体の重心位置が変わるのです。
そんなことまで書いてると、こいつ大丈夫かと思われそうなので、端折って書きます。たとえばバレエをやる人は、パフォーマンス中に呼吸をすることが大問題なのです。当たり前に呼吸をすれば、センター(中心軸)がズレます。繊細な美しさを要求される身体表現では、影響が少なくありません。きっと日本舞踊などでも、同じだと思います。
私の想像通りだとすれば、形状も、動きも、そのデザインは、いわばピクトグラムのような方法論だと思えました。
ピクトグラムは、単純にいうと絵文字。表現したい概念から、視覚イメージを抽出し、シンプルな記号・サインにします。2020年のオリンピックに向けて、どこの国から来た人も見ただけで理解できるよう、さまざまな場所のピクト表示が急ピッチで進んでいますが、あれのことです。
ユニバーサルデザインという「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザインにすること」が基本コンセプトの概念もありますが、ユニバーサルデザインであるサインは、ピクトグラムなのです。
Breathing Skeletonの肋骨の本数がどうのと見る人は、ごく少数でしょう。背骨が動かないから、それほどリアルじゃないと感じる人は、さらに少ないはず。何かの専門家だけです。私は人体の専門家ではありませんが、一般的な人よりは詳しい。それでもすぐには、あれ?っと思わなかったのです。
大多数の人に違和感を感じさせない、あるいは感じてもリアルだと認識することの邪魔にならなければ、シンプル化していいのです。いや、むしろ端折った方がいい。トイレのサインが男性用か女性用か、限りなく100%近い人々に、一瞬で伝わるには、どこを単純な線にしていいのか、した方がいいのかを追求するのがピクトグラムです。
テイストも、出来る限り排除した方が伝わりやすくなります。個性的な飲食店などで、お店のイメージに合ったテイストをピクトグラムにも与えている場合があります。往々にしてイメージは壊さないけれども、あれ、これって男性用? 女性用? それとも兼用? と一瞬では判断できず、文字を読んでやっと理解することになったりします。
単純に予算と期間の問題かもしれませんが、今回の作品群は一作品をのぞき、3Dプリンターで成型された、たぶん樹脂の色そのままであることもテイストを与えない手法になっているのです。
ここまで書いてきて言いたかったことをワンフレーズにすると、「不気味の谷方向とは、異なるベクトルですよ」ということです。
◯ ◯ ◯
『Parametric Move 動きをうごかす展』は、いろいろ考えなくても、規模や告知手段からすると、集客数では大成功だったはずです。しかし私が思うような形状や動きのピクトグラム化がプロトタイプとして成功したのなら、なし得たことは、さまざまなジャンルでエポックメーキングになるかもしれません。
さまざまなと書いたのは、マンマシンインターフェースがまったく関係ないジャンルは少なくないですか。『動きをうごかす展』は人間と機械の情報の相互伝達を超え、研究室の外でエモーショナルなやりとりにまで踏み込んで、大きな成果を上げたのだと私は思います。
SEERの視線による感情表現の超絶さ
『動きをうごかす展』のゲストアーティスト・藤堂高行さんによるSEER / Simulative Emotional Expression Robotは、目、まぶた、眉、頭の傾きによって表情を作る小型の胸像ロボットです。
人間の顔だというところ。そしてロボットですよと言わんばかりに、配線が見えているところ。それ以外は他の作品と同様に、樹脂そのままです。表情筋による変化や肌の質感もありません。顔の輪郭、鼻や口はリアルな曲線で表現されていますが、造形的にはそこだけの擬人化ですから、やはり不気味の谷とは、ベクトルが違います。
しかし、擬人化はかなりの引き算なのですが、視線の作り方と、少ない要素での表情の作り方が、飛び抜けて人間を感じさせるのです。“生きてる感”“感情が届く感”が、ハンパないのです。
製作者・藤堂さんのツイートです。
映像でいまいち伝わって来ないのは、SEERの視線。実際に接した人には強烈な体験だったと思います。感情表現の多彩さは、製作者のツイートで十分に伝わりますが、観察する人に向けられる視線があるのとないのとでは大違いなのです。
会場でSEERを見る人は皆、コントローラーを動かしながら、写真や動画を撮っています。
入れ替わり立ち替わりSEERの前に立つ人が続くので、私は近づけませんでした。いや、そもそも私は写真や動画を撮るとき、特にアート関連では、あまり対象に寄りません。作品を、作品のまま撮ってもどうなの。それよりも展示されている空間や、作品や人との関わりをイメージとして撮りたいと思うのです。
どうしているかというと、スマホやコンデジを胸で構えるのです。胸を対象に向けて、見ているのです。画面はタップするとき以外には見ません。
目はどこかを注視せず、広い範囲に視線を散らしているのです。いわゆる武術的な遠山の目付というやつです。そうすると、周囲から作品に近づく人が見えて、シャッターチャンスがわかります。顔が写らなかったりブレて写るようにすれば、SNSに上げても問題ないはずです。
SEERを撮っているときは、斜め40度ぐらい、2mちょっとの距離に立っていました。SEERの前に立つ人が長くいると、他の作品のところに行ってまた戻ってきたりを繰り返していたのですが、ふいに視線を感じて、ギョッとしてSEERを注視しました。や、見てるよね、SEER。そのときの様子が、一番上の写真です。
見られている?と感じて、動揺したときの状態を表現したかったのが、貼付けたツイートの動画の最後のところです。拙い表現の仕方ですが、私は確かにうろたえたのです。
この小さなSEERが2m以上のところを注視できることも驚きですが、顔をまっすぐ向けて見られると、本当にマシンなのか。生きてるんじゃないのと疑ってしまいます。しかもこのSEERの表情、どんな感情を表現しているのか読み取れないですよね。
見るという主体的行為の中身
私は撮るためにSEERを中心に、その周辺を見ていました。ところがSEERに見られていることに気づいたとたんに、主客が逆転したのです。見ていたはずなのに、見られている。見られていることに意識が行ってしまうと、主導権はSEERに握られます。
離れたところからでも、コントローラーを触っている観察者にSEERが視線を向け、拗ねていたり、睨んでいたり、困ったような表情をしているのが伝わってきます。SEERは、観察者に視線を向けながら、特定の表情を見せているのです。見られる対象(客体)なのに、見せているのです。これって世阿弥の離見の見じゃないですが、芝居に限らず、音楽でも何でもステージでやる演者のスタンス。
もちろんディズニーランドに行っても、ミッキーやミニーだけではなく、ロボットだって、どう見えるかを計算して見せているのです。しかし、そこに視線によるコミュニケーションはありません。SEERが頭を傾けて動かしても、相手に向けた視線、その注視点をキープし続けることの効果は絶大です。意志を持っているように思えるベースはそこです。
注視点をキープし続けることだけの構造なら、顔認識して自動追尾する監視カメラのようです。SEERは視線だけではなく、そこに感情が乗るのです。さらには、視線と視線が交差するアイコンタクト感がちゃんとあるのです。
人間と人間、人間と動物でもアイコンタクトすれば、高速でさまざまな情報と感情が行き来するはずです。SEERと視線が合うと、まるで人間と人間との行き来のように感じられるから、“生きてる感”がハンパないのです。
しかし私を見ているSEERの視線、その意図するところがわかりません。淡々とただ見ているだけに思えますが、その感じが私にはさらに驚きだったのです。
人は視線に意図を乗せないこともできる
見ることは主体的な行為ですが、特に意志や意図なく、ボーッと窓の外を見るなんてこともあります。しかしその視線の先に誰かがいたら、相手は好意か悪意を向けられていると感じてしまうかもしれません。少なくとも観察されていると、居心地の悪さを感じてしまうでしょう。
ところが現実の社会では、スクランブル交差点や電車の中など、混雑した場所で、不意に視線が合ってしまうことは往々にあります。そんなとき、多くの人はスッと視線を外します。あるいは偶然に合ってしまことが起こりそう場所なら、視線から意志を消すのです。大げさなことではなく、無意識に、あなたを見てはいませんよという目つきになるのです。
意志や意図を、意識して隠すこともできます。先に書いた武術的な目付ともいえますが、相手にフォーカスされているのはなく、さらに向こう側を見ている感じを作れるのです。SEERが私を見ている目は、これと同様のものだと思いました。
なに妄想ばっかり語ってんだよと思われるかもしれません。実際、妄想かもしれませんが(笑) たぶんSEERはコンソールを操作する人がいなくなったので、次ぎに距離の近かった私を顔認識した。顔を向け視線を向けたものの、私との距離は注視点を結ぶには遠すぎた。だからピントの合っていない、私よりさらに後ろを見ているような目線になったのではと想像しました。
私が、こういうSEERの視線に動揺するのには意味があります。私には、「中心・正中線を取られた」気持ち悪さを感じる回路があるのです。って、まったくなんのこっちゃ、ですよね(笑)
最近私は、女性誌ar(アール)の企画で、乃木坂46の堀さんに、合気道を指導させていただきました。そのときに剣を持った構えや徒手での構えを指導させていただきました。
すべてにおいて堀さんは素晴しかったのですが、構えではかなり驚きました。最初、剣を持って構えてもらうのですが、言葉で説明しただけでほとんど出来てしまいました。私は剣先をつまみ、私の目に向けます。「ここに剣先を向けて、ずっと狙っていてくださいね」と言って、後退して行きます。たたみ二畳分、約2m弱のところまで下がります。
次は、徒手の構えです。剣を持たないので、持っていた手を開きます。そして前手の中指を、二畳分離れた私の目に向けて狙ってもらいます。それがピシッと狙えるのです。初めてやって、これがきっちりできる人なんていない。普通は剣を持ってもできないし、素手で出来る人は今までに会ったことがありません。
これって、SEERが視線を向ける仕組みと似ていませんか。剣や指を通じて、相手の目を狙うのです。狙う理由は、まず剣など長い武器を持ってる場合は、長さを見せずに間合いを予測できなくするのです。
それだけではありません。「狙うのは、やっつけてやるってつもりじゃなくて、淡々と狙う」と説明しました。殺気を持って凝視するのは、心が居着いている状態ですし、意図を読ませないために淡々と狙うのです。
そういうことも、堀さんはあっさり出来てしまいます。ダンスなどで体の地図が出来ているだけではなく、舞台など演技をすることで広い空間の把握能力にも優れているのだと思います。アイドル恐るべし、でした。
アイコンタクトで、自然さを感じさせる困難さ
もちろんこういう武道の発想と、SEERの視線の作り方が似てるでしょう、なんて言って喜んでいるのは私ぐらいのものです。
しかし感情だけではなく、視線に意図を乗せたり、逆に消したりすることが出来るのは、人間ならではの脳の高度な働きかもしれません。視線・表情をミニマムな要素で表現し、人間とのエモーショナルなやりとりに踏み込んで成功している段階で、SEERはとんでもなく凄いと思います。
いままで著名な人形作家が作られた“生きているよう”だと評される人形は、耽美的とか呪術的とか、とにかく強烈なテイストを持つものばかりでした。その強さが、“生きているよう”の源泉でした。
SEERに強烈さはなく、ニュートラルに人間的な表情で、人間的な視線を向けるのです。それでいて、“生きているよう”だという以外の評価が出てこないSEERは、どう考えても凄いのです。
◯ ◯ ◯
最近では、ネットフィリックス社が社内のセクハラ防止のため、5秒以上誰かを見つめないことを、ルールのひとつにしたそうです。そこまでするのはどうかと思いますが、見つめられることを不快だと感じる人がいて、セクハラの入口になる可能性が高いのなら、しょうがないのかもしれません。
会議の場で適切な言葉が出てこなくて、アイコンタクトしたまま何秒か過ぎてしまうなんてことは日常的にあると思います。それでも見ている側と、見られている側、主客で感じ方は違うのですから、「こういうつもりの視線だった」と説明したところで意味がありません。
そんな風に難しいアイコンタクトによるコミュニケーションに、SEERは挑み、成功したのです。私はSEERに見られて不快ではありませんでした。それどこか、自分の持っている特殊な思考回路で妄想を膨らませることができたのですから、人間との違いを感じていないのです。