でき太くん三澤のひとりごと その130
◇ Mくん #3
ターータラターラ ターラー
ターータラターラ ターラー
(ゴッドファーザーのテーマ)
先週塾長から、一流の俳優のつもりでMくんと向き合おうと言われてから、ゴッドファーザーのテーマ音楽が頭の中で繰り返し流れていました。
ゴッドファーザーのロバートデニーロは、本当にかっこ良かった。
理屈ぬきに。
タクシードライバーは、意味がわからなかったけど、ゴッドファーザーは良かった。
私にできるかな、ロバートデニーロ。
相性が良い子と同じ態度で、同じ言葉で、同じ雰囲気で。
そんなことができるのかな。
どういうことを意識したら、相性が良い子と同じ態度で、同じ言葉で、同じ雰囲気でできるのだろう、、、
考えても考えても、なかなかよい方法が見つからないとき。
そういうとき私は考えるのをやめて、ぶっつけ本番で臨むクセがあります。これは私の性分なのかもしれません。
それでうまくいくときもあれば、失敗するときもあります。
今回Mくんと役者としてはじめて対面する授業も、失敗してもだれも死ぬわけでもないし、Mくんの人格を傷つけてしまうわけでもない。
前日にはもう考えるのはやめて、「自分の感性を信じて、あとはアドリブ勝負だ!」
ぶっつけ本番、出たとこ勝負で臨むと決めていました。
もともと役者でもないのに、あれこれ考えても良い方法が見つかるはずもありません。
そうして、いよいよむかえたMくんとの授業。
いつも通りMくんは挨拶も満足にできず、ずっと下をむいて教室に入ってきました。Mくんはいつも通りのMくんです。
やる気もあるんだか、ないんだか、、、
いつもだったらその態度を見て、「またこの態度か、、、困ったな、、、」と思ってしまうのですが、その日の私はなんだか違いました。
Mくんのそういう態度を見ても、「問題だ」とは思わなくなっていたのです。
あれこれ考え過ぎで、吹っ切れてしまったのでしょうか。
Mくんに気を遣わずに、あるがままの自分で向き合う。
Mくんが挨拶しようがしまいが、私の質問を受け答えできようができまいが関係ない。
私は私のままMくんと向き合う。
相手がMくんであろうと、相性の良い子であろうと、だれであろうと、私は私という人間を相手に表現する。
その日は、なぜかそういう感覚でMくんと向き合うことができました。
補習のとき、Mくんとマンツーマンになるときには、私は自分の過去の話をしました。
「私はね、昔ずっと勉強ができなかったんだよ、、、でもね、自分のスタートラインから学習したらね、どんどんできるようになってきたんだ。これって面白いよね。バカだと思っていたのに、どんどんできるようになるんだからさ。Mくんも英語きらいみたいだけど、Mくんのスタートラインから学習すれば必ずできるようになるからだいじょうぶだよ!必ずできるようになるからさ!」
以前の私だったらMくんとの間に見えない壁があったのか、そういう話は一切せずに、ただ滞りなく補習を終わらせることにばかり意識が向かっていました。
でもこの日の自分は、とにかく自分という人間を表現すること、Mくんとの時間を楽しむことに意識が向かっていました。自分という人間を表現するという意味では、役者に徹していたのかもしれません。
ひとしきり私が勉強ができなかったことを話したあとは、相性がよい子と同じように冗談をいい、それに返事をしようがしまいが、どんどん話を続けました。
すると、2つ目か3つ目かの冗談を言ったときでしょうか。
Mくんが、「クスッ」と、笑ったのです。
あの無表情で、自分の気持ちを表には出さないMくん。
塾長にもあまり感情を表に出さないMくんが、私との会話の中で爆笑とまではいきませんが、「クスッ」と笑ったのです。初めてみるMくんのこわばったような笑顔。
「これはいける!」と、私の役者魂が感じたのか、そこからはこれまでの自分が嘘のように、Mくんの前で饒舌に会話を進め、最後にはちょっと嫌がるMくんと握手を強要して、「今日も楽しかったな!」といっている自分がいました。
このときの私は、マイナスの意識のことなどはすっかり忘れ、とにかくMくんと一緒にいる時間を楽しむこと、自分という人間を表現し、あるがままの自分でMくんと向き合うことに意識が向かっていました。そのときの自分は、18歳の若造で人間的にはまだまだ未熟なところもある人間でしたが、嘘も偽りもない自分自身を表現していたように思います。
私の場合は、相手にマイナスの意識が芽生え始めると相手を心の中で責めたりします。そして、次第に相手と見えない壁が出来上がります。
すると私は、相手に自分を表現しなくなり、相手とはある一定の距離をとるようになる。
本当は言いたいことがありながら、偽りの自分で相手と向き合うような感じ。
そして、こういう自分にさせるのは相手のせいだと思うようになります。
すると不思議なことに、相手も無意識に壁をつくるようになる。
そして、お互いに相手を否定し合うようになる。
私の場合はこういう構図があるように思いました。
昔懐かしい「金太郎飴」は、どこをきっても金太郎が出てくる。
それと同じように、だれが相手でも、まずはいつも通りの自分で相手と向き合ってみる。
あれこれ考える前に、まず自分がいつも通りの自分で自分を表現する。
自分が感じたことがあればそれを伝え、相手と話し合う。
こういう姿勢が、人間関係には必要なのではないかと思います。
あれこれ考える前に、まずは自分を相手に表現してみる。
こういうことが大切なのではないでしょうか。
そこからの私はどんどんMくんに自分が感じていることを表現していきました。
「Mくんさ、教室に入ってくるときに挨拶しないけど、どうして? 別に説教をしたいわけではないよ。単純に、どうしてかなと気になってね」
するとMくんは、
「自分では挨拶しているつもりだったのですけど、、、」
「Mくん、あれじゃ聞こえないよー。もうちょっと音量をあげてみな。だれも変に思ったりしないからさ。何もはずかしがることもないよ。だいじょうぶ。何も心配する必要はないんだよ」
「は、はい、、、今度そうしてみます」
というように、私は気を遣わずに、どんどんMくんに自分が感じていることを表現していきました。
もちろん、すぐにMくんの態度が変わるということはありませんでしたが、その授業以来、私はMくんに対してマイナスの意識を持つことはなくなってきました。
そして、教室の中ではMくんに話しかけることが一番多くなりました。
マイナスの意識が生まれ、それが織りなす構図はいろいろなパターンがあると思います。
ときに私たちは、そのマイナスの意識を感情というナイフのように鋭いもので相手を傷つけてしまうことがありますが、そういう感情に左右されるのではなく、冷静に自分の内面世界を見つめ、自分らしさを相手に表現することがその構図から抜け出すきっかけになるように思います。
相手は、相手の価値観、リズムで生きていて、自分は自分の価値観、リズムで生きている。それに「違い」や「ズレ」があるとき、「あれ?」という違和感からマイナスの意識が生まれる。
自分にとっての常識が通用しないとき。
自分の思った通りに相手が行動しないとき。
少しずつ違和感が出てくる。
このとき、相手を意識で責める前に、ありのままの自分を表現してみる。
たとえその時の自分が未熟な発展途上中の人間であったとしても。
そうしてお互いがお互いを表現していく中で、私たちたちは成長していくのではないでしょうか。
塾長のいう、大根ではない一流の俳優とは、嘘偽りのないありのままの自分を表現するということだったのかもしれません。