でき太くん三澤のひとりごと その175
◇ 直感力
私には「直感力」があります。
初めて会った人が信用できる人か、信用できない人なのかを見分ける力があると感じています。
自分で言うのもなんですが、この「直感力」の精度はなかなかのもので、今のところ外れたのは、1回だけです。
何を基準に判断しているのかは自分でもわかりません。
その人の雰囲気、あるいはその人が発する言葉なのか。
何をポイントにしているのかはわかりませんが、「この人は信用できない」と、直感的にわかるのです。
かつて「でき太くんの算数クラブ」を立ち上げたばかりのころ、先生が教えずに、子ども自身が学習の主人公となって学習を進めることができる「でき太くんの算数」という教材が珍しいということもあり、様々な人たちからアクセスがありました。
「こんなすばらしい教材があったなんて、知らなかった!ぜひ、うちの塾でも使わせていただきたい!」と熱望する塾長も少なくありませんでした。
私たちは、そういう方々とはできるだけ直接お会いして、お話をする機会を設けさせていただきました。そこで信用できると判断した人に限って、「でき太くんの算数」を提供させていただきました。
その中で、今でも記憶に残っていることがひとつあります。
全スタッフが、「あの人ならでき太の学習材を提供してもよい」と判断し、私だけが反対した事例です。
私は、どうしてもその人が信用できませんでした。
何が理由ということは明確に言えないのですが、どこか信用できない。
私の「直感力」が、「この人はいつか裏切る」と訴えているのです。
会議の席でも、明確にその理由を説明できなければ、多数決で物事は決まっていきます。
私はその当時、でき太くんの算数クラブの代表ではありませんでしたので、賛成を覆すことはできませんでした。
結局、賛成多数で、その方に「でき太くんの算数」を提供することになりました。
ところが数年後、その方は結果的に私たちを裏切ることになりました。
「でき太くんの算数」という教材の評価を貶めることをしていたのです。
ここでも私の「直感力」は、その人を見抜いていたのです。
この「直感力」のようなものを、私はどこで身につけることができたのか。自分なりに振り返ってみました。
そうしてわかったことは、このルーツは、私の小学生から中学生時代にあるということです。
この「ひとりごと」を毎週欠かさず読んでくださっている方なら、もうご存知かと思いますが、私は小学生から中学生3年生前期まで、本当に勉強ができない子でした。
そのとき、多くの大人、先生が、私に色々なアドバイスをしてくれました。
たくさん励ましてもくれました。
普通なら、自分のためにアドバイスをしてくれる先生や、自分を励ましてくれる大人がいてくれたら、それだけでありがたいと思うものです。しかし私はそのとき、その大人や先生が言う言葉、思いが本心かどうかを、よく観察していたのです。
その人は本心から、私のことを心配してアドバイスしてくれているのか。
先生という立場上、形式的にアドバイスしているだけなのか。
そもそも本気なのか。
この先生は信用できるのか。
そのことを、深く観察していたのです。
相手の鼓動、目の奥にある光、雰囲気、言葉の重み。
そういったものを、じっくり観察していたのです。
こんなことを小学生のころからずっと続けていたのです。
相当な変わり者です。
今考えると、そういう観察をするようになったのは、私が本当に勉強がよくできない子だったからだと思います。
勉強ができないことで、級友から馬鹿にされることもありましたし、先生からも「あいつ本当に馬鹿だな」と言われることもありました。
昨日まで仲良く遊んでいた友達が、私を貶すようなことを言うなんて。。。
先生は決して人を馬鹿と言うような存在ではないず。。。
そういう裏切られた経験が、私を少しずつ人を観察するという行動に導いていったのではないかと思います。
「負」の経験の最中では、その「負」の経験が将来の役に立つということは想像もできないものです。しかし自分の人生を振り返ってみると、「負」と思える経験にこそ意味があるのかもしれません。
人間万事塞翁が馬という言葉がありますが、「負」と感じていた経験が、大切な場面で自分を助けてくれたりするのかもしれません。
つい2週間ほど前、とある出版関係の方とオンラインでお話する機会がありましたが、私の「直感力」は、この方と仕事をすることを「NO」と言っています。
たぶん、今回も間違いはないでしょう。