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SNSを辞めた話

SNSを辞めた。Twitter(現X)のアプリを消して、YouTubeのアプリを消し、インスタグラムはホーム画面から取り除いた。

もともと、Twitterができてすぐからアカウントを変えつつもずっと辞めずに続けていたし、大学時代には周囲から「ツイ廃」という今となっては不名誉な称号を与えられていた。
とにかく、いつもTwitterを眺め、相互のみんなでファボし合い(今はハート)、プライベート筒抜けで過ごしていたのだ。
それをおかしいと思うこともなければ、別にマウントを取るために使っていたこともない。ただ、面白おかしく日常を切り取って昇華するようなそんな場所だった。

ある時から、Twitterの様子が変わってきた。タイムラインに広告が流れるようになり、興味がありそうなポストが勝手に流れてくるようになった、そうしてTwitterはXになった。「お気に入り」から「いいね(同意)」にかわり、自己の呟きから他者のために発信する場へと変わっていったように思う。それは人が誰しも持っているであろう承認欲求を刺激し、どんどん過激さを増していった。

日々のみんなのつぶやきをみていたはずなのに、知らない人の情報が増えてきて、それもまた興味がありそうなポストだからついつい見てしまう。そのポストがいい内容のこともあれば、批判にみせかけた攻撃のものもある。どちらかというと後者のほうが多いように感じるし、「人の不幸は蜜の味」がまさに「いいね」に反映されているのだ。そうして、攻撃力の高いものばかりを摂取して、あたかも他人の批評が自分の意見かのように思い、「自分はどう思ったのか」を考えていないことに気づいたとき、頭の中で注意報のようなものが流れた。ただ私は、自覚しているから大丈夫だろうと、これ以上考えることをやめ、注意報をなかったことのようにした。

恥も外聞も覚悟でいうと、私も、賛同を得んがために承認欲求に振り回された。批判的に物事をとらえ、常にネタがないかとアンテナを張っていたように思う。誰かを傷つけるのではないけど、物事に対して過度に反応していた。

電車で順番待ちしてたら後ろの人の距離が近くて無理すぎた。しかも抜かそうとしてくるしでやばい。地下鉄のドアがあいて人が出てきたのに避けないし…将来こうならないようになりたいわ…

※これは例です

こうなりたくないと思うのは自由だけど、それをわざわざ不特定多数の人が見える場所に書いてしまう私は、実際のところリテラシーもモラルも欠けているのではないだろうか。
そうならないように自分はどうしようかな、ではなくただ不快だと思ったことにたいして過度に批判し、そこで思考を辞めてしまっているのだ。

そうして今度は、配信者の推しができた。果たして本当に推しだったのかはわからないが、配信で自分のコメントを丁寧に拾ってもらえたうれしさがあったんだと思う。
Xの相互になり、推しからのいいねを得るために、ひたすら関連するようなコンテンツのポストをあげたり、ネタを投稿したりして完全に自己を失っていたように思う。推しからいいねがなければ嫌われたのかと不安になり、情緒がかなり乱された。いいねがあると嬉しくてまた起きた出来事を過度にポストして、反応を待つ。有名な人が自分のコメントを拾っていろんな人に広めてくれる。わたしはまるでギャンブルのようなものにはまっていった。いいねがあれば当たり、なければハズレ。嫌われたかも…、やっぱり嫌われてなかった。
生活の中心が配信者の配信リズムになり、必死に情報を追い、嫌われたくない認知されたいというモンスターが爆誕したのだ。
ずっと静観していた夫からついに「SNSを辞めたほうがいい」と忠告を受けた。そのとき実は少しホッとしたのだ。正直、かなり憔悴していたけど自分からコンテンツを離れる勇気もなかったところで一番自分のそばにいてくれる夫からの言葉。やっぱりなという気持ち。

時を同じくして、人に伝えることがかなり下手になっている自分に危機感を覚えていた。語彙力の著しい低下、言語化できない、集中して話ができない、文章も書けない。年齢かな、と思っていたけど、たぶん自分の脳の容量を超えたものであふれていたのだと思う。しかもそれは、能動的ではなく受動的なものだった。そしてどのSNS媒体だったかは覚えていないがこのような発言を見かけて頭の片隅にずっと引っかかっていた。                                 

現代人が1日に受け取る情報量は、平安時代の一生分であり江戸時代の1年分

https://pencil.schoo.jp/posts/aeqVyYrG/

ネットで「現代 平安 情報量」で検索したところ、どうやら学びのネット講座で見かけていたようなのだが、どうもこの記事の記憶がない。たぶん、誰かがさも自分の意見であるかのように述べていたのだろう。どこで見かけたのかわかっていないところもすでに情報にのまれている最たる例だと思う。

情報に置いて行かれないように追い、さらに承認欲求のために周囲へ過度なアンテナを張る。さらに関連するコンテンツが勝手に流れてきて、だらだらと眺めてしまう。他人の不快な話を知っても不快になるだけなのに、読んでしまう。そして暇を持て余した地下鉄では目的もなくYouTubeをあさり、配信がない日や寝る前には次から次へと流れてくるYouTubeのショート動画を永遠と見続ける。知って得をする情報も知らなくていい情報と同じだけあったら脳にとどまることはなく、さらさらと流れていく。もうとどまるストレージがないから当たり前である。それでもどんどんあれもこれもと得ようとして、ストレージを増やすことはできないから削除する。
私の場合、削除対象がずっと大事にしていた「言語、文化」だったのかもと気づいたときには、必要不必要すら整理されていない他者による情報でいっぱいいっぱいになっていた。そして途方もない疲労と、憔悴と、失ったものに対する絶望だけが心身を覆っていた。

そうしてわたしは、Xのアプリを消した。一度気になって開いてみたが、ものの数秒でなぜか気分が悪くなった。もうそれは私の中でいらないものになっていた。そこから、YouTubeのアプリも消した。だらだらと見続けているこのコンテンツも結局同じなのだ。知りたいとおもう情報があれば、能動的にPCで見たらいい。PCだったらだらだらとみることもない。寝室とPC部屋が別なのが幸いした。インスタも正直、辞めたいと思っている。でも、記録としては優秀だし、どう付き合っていくのかは模索中だ。ただ検索欄にある無数の興味がありそうな関連コンテンツを見ないようにすることは一番なんだと思う。とりあえず、ホーム画面からは消した。noteはPCで。書くことは好きだから、そしてまた書けるようになりたいから。
繋がりを切りたいわけでも消したいわけでもない。だから、わたしなりの距離感を上手に見つけていくのが今後の課題。

せっかく今月はいわた書店さまの一万円選書も当選したし、多分もうすぐ本が届く。
スマホを持つ時間が減って、本を読む時間もギターをする時間も、文章を書く時間も持てる。ゲームは一時期狂ったようにやっていたけど、そこで加減がわかったので、ほどほどに付き合えるようになった。
わたしは自分がしたいと思えることをやっと選択できるようになった。

ネットリテラシー、ネットタトゥーだけじゃないSNSの怖さを実感した。情報に振り回され、持たなくていい負の感情も持ち、自分の意見がなくなったり、自分が大事にしていたものを失うこともある。
情報は自分の意志で、正しい選択ができるように。正しい選択ができるようになるために、必要な知識を増やして。そこに偏りがでないように、いろんな人と会って話すことがきっとこれからの自分の人生に必要なことなんだと思う。




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