宇宙元旦前夜、自我と真我のはざまで。
久しぶりに友人と長電話をした。それはただの雑談のようで、魂の対話のようだった。彼女とはごく稀にしか連絡を取り合わないのに、なんとなく話したいと思う時は何かがシンクロしている時なのだ。会社の同僚だった頃は全くタイプも話も噛み合わなかったのに、お互い会社を卒業した後にひょんなことから宇宙的な感覚、いわゆるスピリチュアルなゾーンでの会話ができる数少ない心の友になった。久々に話してみたらやっぱりお互いの心境や考えていることがほぼ同じでそれもまた楽しかった。
そこで話していた最近起きている、自我の変容について。
得てするとスピリチュアル強めのよくわからない内容になると思う。でもたぶんこれは「伝わる」ようには書けない気がするので、「伝わった」かどうかは重要ではなく、「感じた」人にだけ読んでもらえたらいいかな。
自我と真我のはざまの揺らぎをここにただ置いておく。
ここ数ヶ月、言語化することを避けていた。それは無意識だったけど、たぶん言語化することは自我確立の効果的アプローチにはなるけど、真我に辿り着くためには有益じゃない気がしていたからなのかもしれない。今のわたしに必要なのは言語化して客観視することではなく、自分の中で起きている変容を昇華して、少しずつ熟成されて自然と精神と同一化していく過程を味わうことなんじゃないか。
この言葉にできない(したくない)感覚は、言葉にすることで薄れていって(離れていって)しまいそうな繊細な変化の現れで、それでいて自我ではなく真我にたどりつく手前、そしてそれに対する恐れや争いの表れなのかもしれない。
私のストレングスファインダーTOP1は「自我」。何度やっても「自我」だった。最後にやったのは7年くらい前なので今は変わっていると思う。それくらい私の「自我」の取り扱い方や、意識や立ち居振る舞いがここ1年で変わってきていることを実感している。
自分が感覚的にやっていることを裏付ける理論を学びたいとポジティブ心理学を学んだ2019年。それから5年、今の私の感覚や興味の矛先にあるのは「成人発達理論」の一部であるということを友人から聞いて知った。
この理論を活用して人材や組織をマネジメントするということにあまり興味はないので後半はちょっと違ったけど、この記事の発達段階の説明はわかりやすかった。
これを読んで、今自分が「自己主導型」から「自己変容型」への移行期間なのかもと気づけた。自己変容型の特徴に書かれていたことがまさに、今の私自身の揺らぎそのままだったから。
さらに面白かったのがマズローの5段階欲求のその先があるということ。
それが、Self-Transcendece(自己超越)。自己超越とは、自己実現という「利他と利己の統合」の先にある概念らしい。「統合」もまた、ここ1年の私のキーワードでもある。
私の周りには「自己実現」の欲求が高い人が多い。欠乏欲求からは抜けて、自己主導のもと、評価や幸せや豊かさ、生きる喜びを得るために自己成長を目指す。そして「誰かのために」が「自分のために」(逆も然り)になっている状態が理想だと知っていて日々頑張っている。私もそうだったし、今もきっとそうだ。でも自己実現に一生懸命だったところから、その先に進みたがっていることを感じ始めていた。生きる感覚や仕事に対する意識、自分の扱い方がこれまでとなんかちょっと違う・・・と。
私の中で「自己超越」は、自己実現の先にある「本来の自分」との出会いだと思っている。つまり自我を超えて真我に向かうプロセスそのもの。
そしてそっちへ自分の意識(精神)がよばれている気がしたのがちょうど1年前の3月20日、春分の日だった。その日の日記にはこう書いてある。
この日から、私のアーユルヴェーダステイが始まった。常に満室だったホテルでたまたま予約が取れたのがこの日からだったことも必然のような気がした。それくらい不思議な導きを感じていた。
そんな兆しを感じていたのか否か、私はその少し前に生まれて初めてタトゥーを入れた。
サンスクリット語で「平和」「内なる平穏」を意味するシャンティ (शान्तिः (śāntiḥ)
インドでこの言葉と出会い、マントラを唱えるたびに自分と一つになっていく初めての感覚を感じた。言葉が自分に響いて浸透して浄化されていく感じ。その時、あぁこの言葉とともにわたしは生きていこうと思った。それがインドでは特別な3月の満月の日で、たまたまだったけど、私にはそれが必然のタイミングで、なにか私の人生における大切な儀式のように感じた。その時の体験や想いについては1年前にラジオで話している。
私にとってタトゥーは、ファッションや誰かに見せるためというより、私が私であるために自分自身に贈るメッセージ。その言葉とともに生きていくということの証のようなもので、時折そこに触れて愛でたりエネルギーをもらっている。
数日前、アートマン(आत्मन् Ātman)という言葉が私の前に現れた。アートマンは魂とか真我という意味で、ふと出会った言葉にシンパシーを感じて、その日スリランカでコロンボに出張に行っていたので、近くの良さげなタトゥーショップを探して向かった。そしたらそこが「Soul tatoo」というお店でタトゥーアーティストからも「君はSoulに呼ばれてるんだね」と言われてそうかもしれないとふたりで笑った。魂の置き所に自ら向かい、土地とつながるという意味を込めて、この言葉は足に。運命か偶然か、前回タトゥーを入れた日と全く同じ日になった。
最近はSNSでつながったり、情報に触れることで、私の繊細な変化に揺り戻しが起きている感覚があって、少し距離を置いたほうがいいなと思っている。でも人は繋がっていたい生き物で、そこには安心感があって、そして不安や孤独を癒してくれることもあるから、なかなか切り離せもしない弱い自分もいる。
「人は、一人で生まれて一人で死んでいくもんだ。」
昔、付き合っていた人がそんなことを言っていて、なんだか幸せになることを諦めているようでそれを聞くたびにすごく苦しかった。彼の孤独や悲しみを救ってあげたい、光のある方へ連れていくんだ、なんて20代前半の私は健気にそんなことを思っていたけれど、でもその意味を今になってもう少し違う角度から捉えてみると、確かにそうかもしれないとも思うようになった。
彼の真意はわからない。でも「一人で死んでいく」というのは誰も周りにいないということではなく、ひとり(我)とともに死んでいく。ということなのかもしれない。我という存在と同一化した先に、悲しみではなく、我と共に生き、我と共に死んだという感覚があるのかもしれないと。
必死に誰かに認められようともがいた20代
自分で自分を認めて人生を肯定できた30代
そして自我の先にある真我に向かっていく40代へ。
この前スリランカでひと足先に見たボブマーリーの映画の中で、「You & I、と誰かと私と分ける世界ではなく、I&Iで生きる世界がいい。Unityではなく、I-nityだ。」というセリフがあってグッときた。
他者と自分を分ける。
本当の自分と今の自分を分ける。
そういう分離の中ではなく、大いなるものと同一化した自分と生きるということが、本当の自分と出会い、取り戻すということなのかもしれない。
真我というのはそう簡単に辿り着けるものでもないし、近づいたと思ったら遠のいていく、気づいたら離れている、そういうものなんだろう。だから人はそれを追い求める。時間をかけて、一生をかけて。
明日は3月20日、春分の日(宇宙元旦)。
ここのところ驚くほど体調がすぐれなかった。低気圧と徐脈が続き、カラダがだるく、浮腫んで、息苦しくて、メンタルも浮き沈みが激しかった。脈拍50以下の日が2週間以上続いて、さすがに私も不安になり、アーユルヴェーダドクターからも念の為心電図をとるように勧められて24時間のホルター心電図検査まで受けた。
でもそれが2日ほど前からふわりと回復、脈拍も60以上で安定している。
それが理由かはわからないけど、宇宙の新しいはじまりにカラダが敏感に反応していたのかも。そう思えたらいくぶん気が楽になった。
このカラダの変化を見つめることも、自分の中に起きている自我の変容を味わうことも、真我の片鱗に触れることも、今の私にとって大切な時間になる気がして、今日から3日間お休みをとった。
心穏やかに明日を迎えて、新しいはじまりに身を委ねたい。
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